密談
白衣を翻し、その人は廊下を小走りに駆けていた。来賓などが通ることのない、関係者のみの通路だからなのか、特に華美な装飾もない事務的な廊下だ。それでも天井は高く、所々に絵画が飾られていたり柱に芸術的な彫り物が施されている。
過去には残虐王の居城として悪名を轟かせていたこの城も、今ではすっかり生まれ変わった可憐な姿になっている。
「そこにいたか、ガーネット!」
「……珍しいですねエガッティ様」
ガーネットがいたのは、旧後宮前の中庭だった。そしてその旧後宮は、現在改築されファーラルの居住となっている。普段は誰も入ってこないプライベート空間である。
「いかがされましたか」
「急ぎの用なんだが、ファーラル議長に取り次いでもらえないだろうか」
「……」
エガッティは精霊研究の第一人者であり、六人会議の一員でもある。その発言力は他の5人に比べると少々弱いものがあるが、それでもこの国を動かしてい重要人物であることに違いはない。だが―――
「それはファーラル様の133日ぶりの休日を潰さなくてはならない程の案件ですか」
若い娘とは思えない程の低い声が耳に届き、エガッティは顔をひきつらせた。
ガーネットの権威は6人会議の枠に当てはまらない。ファーラルに直接仕えている専属秘書。頼まれれば議事録をとったり茶汲みもするが、彼女の最大の関心ごとはファーラルであり、最優先も当然ファーラルだけだ。そして当のファーラルは働きづめで、ようやく今日という日を無理矢理空けて休ませている。
惰眠を貪るなり、滞っていた研究と論文に好きなだけ打ち込めばいいと思う。そしてその邪魔をするものは許さないと、朝からガーネットは旧後宮の入り口にあたる中庭で目を光らせていたのだった。
「監視しておいてくれと言われていた案件で、動きがあったんだ。ファーラル議長の意見が聞きたい。頼むよ、取り次いでくれ」
「それは明日では間に合わず、ファーラル様の133日ぶりの休日を台無しにしなくてはならないほど重要なことなのだというのですね」
「少なくとも、気にしていたからわたしに監視を依頼してきたんだと思う」
「わたくしはファーラル様が―――」
「あまり苛めないように、ガーネット」
言葉を続けようとしたガーネットだったが、笑いを含んだ耳触りのいい声音がやんわりとその続きを遮った。もちろん、この場でその声の人物は一人しかいない。
「ファーラル様」
ガーネットとエガッティは振り返り、その姿を確認した。いつもより数段ラフな格好で、襟元にもタイはなく鎖骨が見えるほどに着くずれしている。髪も乱れているし、決して整った状態ではないのだが、それでも『王子様』然と見えるのは持って生まれた高貴さゆえなのか。
「エガッティ議長に頼んでおいたのは事実だ。詳しい話は中で聞きましょう、どうぞ」
ファーラル本人がエガッティを招き入れるのであれば、ガーネットがそれを留める理由はない。本音では仕事を忘れてゆっくりしてほしいと思っているが、ファーラルの何かしていないと落ち着かないという性分は、もはや治るものではないだろう。
「ガーネット、この後誰か来ても取り次がないように」
「かしこまりました」
ファーラルに続いてエガッティの背中が立ち去っていく姿を見送ると、ガーネットは再び邪魔者が来ないように目を光らせた。
「申し訳ない、融通が利かない子で」
「いいえ。逆にあれくらいでないと、ファーラル議長の秘書は務まらないよ」
応接室に案内され、勧められるままにソファに座った。ほとんど使われることのない応接室であったが、それでも小奇麗に整理されている。無駄な装飾もなく、室内全体が落ち着いた色調なのは、ファーラルらしいと言わざる得ない。
二人ともが腰を落ち着けたところで、扉に結界を張る。これで何者かに盗み聞きされる心配もないだろう。それ以前に、闇の精霊に守られたこの空間に潜り込めるような強者がいればの話なのだが。
「それで、どうなりました」
「その丁寧語、気持ち悪いな」
「……ふっ。癖だ、気にするな」
苦笑と共に口調が砕けたものになり、エガッティは微笑んだ。同じ精霊を研究する者同士として、実は二人は仲がいい。
「おまえが睨んでいた通りだ」
「……始まったか」
「ああ、半年くらい前までは少しだけだった範囲が、ここにきて急速に広がり始めた」
そう言って白衣のポケットから取り出したのは、この地域一帯の地図だった。折り目の付いた地図を広げ、ペンを持ったエガッティは次々と印を付け加えていく。
「最初はこのあたり。そしてドルストーラに向けて広がり始めてる」
最初に印をつけられた場所。それは二人は知らないが、過去にライナの故郷の村があった周辺だった。
「枯れ……か」
「精霊が逃げる様に消えている。精霊がいなければ、森の存続は厳しいだろう」
ファーラルがエガッティに依頼していた調査とはこれだった。半年ほど前、精霊研究をしていたエガッティはドルストーラ方面からロットウェルに来る精霊の量が増えていると感じていた。精霊はその場で居つくものが圧倒的多数だ。時には中には風に吹かれたり気まぐれで飛んできたりすることもあるのだが。
だが、そんな珍しい現象を頻繁に感じる様になっていた。まさに逃げてきたかのように集団で向かってきた者たちもいる。異変を察しファーラルに報告をしたところ、彼もまた最近の異変を感じ取っており、議会の合間の休憩時間などを使い、情報交換を行っていた。
仕事量の多いファーラルは監視を続けられないため、エガッティに調査含め監視を頼んでおいたというわけだ。
「ロットウェルには広がっていないのか」
「ああ。ちょうど国境警備隊の駐屯地、あそこの手前で枯れは止まってるらしい」
そこは以前、グレイが任されていた任地であり、ライナと出会った場所であり―――ディロが埋葬されている場所だ。
「……ロットウェルに今のところ被害が無いとはいえ、このまま放置もしにくい問題だな」
「そうなんだ。ドルストーラの王も側仕えも、森の異常など気にする質ではないし、第一精霊嫌いを豪語している人物が、森の枯れと精霊を繋げて考えるわけがない」
二人で地図を見ながら対策を考えるが、何も妙案など浮かんでは来ない。一番早い解決策は何だろうかと考えれば、それはドルストーラに【精霊士】が戻ることだが、どうやらあの愚王は本当に国中の【精霊士】を皆殺しにしてしまった可能性がある。
精霊は嘆き、怒り、そして土地を見捨てたのだ。
「あの国に【精霊士】を戻せればいいんだがな……と言っても、もうその【精霊士】がいないか……」
数多の殺された【精霊士】たち。他国から派遣することも移住を提案することもできるが、それはあくまで友好国である場合だ。いまのドルストーラでは【精霊士】【魔法士】という肩書だけで皆殺しにされてしまうだろう。それほどまでに、愚王の精霊への嫌悪は強い。
「―――エガッティ、このまま監視を続けてくれ」
「……わかった」
今は見守ることしかできない。この歯がゆさが心を引き裂くようだ。
精霊たちの怒りと悲嘆を知りつつ、何もできない。二人の【魔法士】は項垂れるしかなかった……いや。
「【精霊士】が、土地に戻れば……か」
ぽつりと漏れた呟きは小さすぎて、エガッティには聞こえなかった。
「もう時間がありません」
そう告げたのは小太りの男だった。定期的に報告に来ていた客人は、焦ったように早口で話し出した。
「娘の身柄を引き渡していただきたい。手筈は整えるというから待っているのに、何も進展が無いではないですか。このままでは、こちらの立場も危うい。早く連れ戻せと矢の催促なのです、もういいでしょう!」
がなり立てる男に対し、壮年の男は焦りも見せず泰然とした様子で座ったままだ。表情を動かすことも無く、客人の様子を眺めている。
「勝手に動かせていただきますよ。貴方の庇護はもう結構です」
「では、ロットウェルで作ろうとしていた奴隷市場計画は、立ち消えということで?」
「方法などいくらでもある」
客人の男が吐き捨てるように言うと、壮年の男は喉の奥で静かに笑った。
「わたしという隠れ蓑なくして、どうやってそんな禍々しいものを設置できるとお思いか」
「よく言う。その禍々しいものを作るための手はずを整えると……話に乗って来たのはあんたじゃないか」
畏まった口調を取り除き、客人の男は忌々しげに壮年の男を睨みつけた。それは事実だったのだろう、壮年の男は両手を上げて降参のポーズをとった。
「ああ、そうだったね。だが、わたしの立場上派手に動けないとも言ってあっただろう」
「限界がある。いったいどれだけ待たせるつもりだ」
ソファから立ち上がると、ドアのところに掛けてあった、自分のくたびれたフックコートに手を伸ばす。手早く袖を通し、出て行こうとドアのノブに手をかけたところで動きを止めた。
「……引き留めないのか」
「わたしの許しなくここから出て行くというのであれば、君はその時点で見知らぬ他人だ。わたし自らの手で捕まえて裁判にかけてあげよう」
そう言って笑う男の目には、ほの暗い光が見えた。
ぞっとする光だ。
「―――俺は、あんたと手を組んでたんだと自供するさ」
「ご自由に」
「……なんだと」
壮年の男が放った一言に、客人の男は目を眇めた。予想外の返答だったのだろう。
「ご自由に、と言ったんだよ。君が何を喚こうが、わたしとの関連性など信じる者がいると思うのかい?」
「……くそっ」
「君はロットウェルでのわたしの地位を甘く見ている」
壮年の男はソファから立ち上がると、怒りで震える客人の正面に立ちふさがり、その髪を掴んで顔を上げさせた。
勝敗は決した。それはロットウェル内において、危ない橋を渡るための橋渡しをこの男に依頼した時からすでに。
「大人しくわたしの駒になっていればいいんだよ」
口元を歪め、笑みを浮かべた男―――六人会議の一人であるディクターは、冷たい視線を敗者に向けた。
お待たせしました。
いつもありがとうございます。
キーポイントとなる二つの密談でした。
ようやく『壮年の男』の正体が出せました。長かったね…