母親の顔
メアリナーデは泣いてはいなかったが、その声には涙が滲んでいるようだった。胸の内に去来するのは、母への感謝と恨み。自分の息子への愛と苦悩。
「いいえ、母は……本音を隠すために告げたのだと、今は思います」
自分の意思で未来を選べるようにと、そう告げたことは事実。だが、彼女の心の奥にあっただろう願いはきっと違うものだった。
「母はロットウェルが国として正常な運営がされるようになり、ジュネスが生まれたことによって……手に入るかもしれなかった栄光と地位を羨むようになっていたのでしょう。わたくしが目を離した隙に、まだ幼かったジュネスに色々と吹き込んでいたようです」
自身の生まれが高位貴族であれば。
侍女という立場でなければ。
正妃に追放されなければ。
王が鵜呑みにせず探してくれていれば。
もしかしたら、そのたった一つでも叶っていれば―――わたしはロットウェルを継ぐ長子を生んだ国母として跪かれる生活を送っていたというのに……!
「生きていられるだけで幸せなのだと、自分という一人の人間を愛してくれた夫に出会えてよかったのだと言っていたのに。人の心とは、愚かなものです」
だが、当時まだ幼かったジュネスは、そんな祖母の狂気に気付き始めていたのだろうか。好んで傍には寄らなかったし、いっそ避ける様になっていった。
「ジュネスは自分の血筋を理解し、そして……言葉は悪いですが嫌悪しています。それはメアリナーデ様が導かれたのでしょうか」
「いいえ」
グレイは一歩踏み込んだ質問をしたと自覚していた。それでも問わずにはいれなかった。ジュネスの出生を知っている人間は少ない。グレイとファヴォリーニは知っているが、ミラビリスは知らない事だし(知っていれば彼女はジュネスを邪険には扱わなかっただろう)、ファーラルは知っているが、ガーネットまで知っているかは不明だ。表ざたにできない内容のため、あえて質問することも憚られる。
「ジュネスは賢い子でした。ほんの小さなときから学ぶことを好み、特に歴史に興味を持っていました。その中で特にロットウェルの政変を好んで学んでいたように思います。近代の歴史として、一番大きな出来事で、さらに様々な資料が豊富だったことが要因でしょう。無理にその書物だけを取り上げることは、逆に不信を招くと思っていたのでそのままにしていたのです。そしてあの子は……学んでいく毎に時の愚王を嫌悪した」
直接顔も知らない、メアリナーデの異母弟を。
「わたくし自身も、あの王に対して良い気持ちなどありません。ロットウェルには足を踏み入れたことも無いとはいえ、あの王が敷いた政治で多くの民が無き苦しんだことは間違いないのです。けれどジュネスはわたくしのそれを凌駕していた。逸しているのではと思うほどに」
そして謎は解かれた。時折訪問していた母―――ジュネスの祖母が幼い子供も『事実』を吹き込んでいるのを知ってしまったのだ。
「母は言っていました。『お前はロットウェル王国最後の王ビースライの孫なのだ』と。『高貴なる血を継ぐ正統な後継者なのだ』と。だけれどそれは、歴史を愛し学び、そしてロットウェルを破滅に導いた愚王を嫌悪しているあの子には、ただの呪詛でしかなかった……」
慌てて祖母を遠ざけ、もう来ないでほしいと懇願し、養父に泣きつき実家である商家と距離を取った。だがもう遅かった。
「書物にあるビースライの肖像を見て、ジュネスは泣いていました。自分の髪色がそっくりなのだと泣いていたのです。愚王の血を継いでいることをあの子は幼いながらに恐れていました」
ジュネスは心を閉ざすようになった。そして同じく忌まわしい血を継ぐ母親メアリナーデも避けだした。事情が分からない父親であるロア子爵は困惑を隠せなかったが、その頃にはもう子爵は愛人に夢中になっていたので、お互い緩やかに距離を取り今に至る。メアリナーデは一緒に住んでいない夫に執着はない。すでに今が療養を理由にした別居だからだ。
「あとは、伯爵のご存じの通りです」
このままでは子爵家の跡取りとなり『人を使う立場』になる未来を恐れたジュネスは、自らを使役してくれる人物を探したのだ。決して自分を担ぎ上げない人物を。そしてそんなジュネスに手を差し伸べたのがアジレクトだった。―――そう、六人会議の最高齢者であり、いまのロットウェルを築いてきた重要人物である。
ひ孫にあたるガーネットと、その子守としてあてがわれていたファーラル。年が近いのだから仲良くしろと放り込まれたグレイ、そして社会勉強と称して庇護されていたジュネスの4人がアジレクトの屋敷で出会ったことで、運命は回り出した。
「あの子が手元から離れてもう11年。……諦めなければならない年月だと分かっています」
二度と会えないことも覚悟した。
血を呪い、生まれを呪い、事実を吹き込んだ祖母を嫌い、何もできなかった父と母を避けたジュネス。彼は自らロア家の跡取りの座を放棄すると宣言したのだ。もちろんロア子爵は一人息子の突然の宣言など了承しないし、理由を聞きたがったが誰一人として決して口を割ることはなかった。それがますます夫婦仲を冷めさせた原因だとメアリナーデも理解している。それでも、言えなかった。
「夫は優しい人です。ですが、わたくしの出生を知ればどう変貌するかわからない。母の様に、人が変わってしまうかもしれない……。この秘密はこれ以上知る人を増やしてはならないのです」
「わかっています」
グレイはメアリナーデの言葉に深く頷いた。苦悩を深めるジュネスの姿しか思い浮かばない。彼は自分が地位と権力を手にすることを極端に恐れているのだから。
「……ああごめんなさい。こんな面白くない話ばかりで」
俯いていたメアリナーデは、重い空気を払拭するかのように顔を上げて笑顔を向けてきた。無理に笑おうとしている姿は痛々しい。けれどグレイはそれには気づかないふりをした。きっとメアリナーデも気遣ってほしいわけでは無いのだと思ったからだ。
「そんなことはありません。ジュネスにはなかなか聞けない話なので……今後、彼が道に迷った時にアドバイスしやすくなりました」
「ありがとう」
ジュネスが今後、身の振り方に苦悩するときがきっとくるだろう。その時その道を指し示すのは母親であるメアリナーデではなく、間違いなく主であるグレイの役目となるはずだ。間違った方向に進まないよう、手元を照らしてやれる光をメアリナーデは持っていない。
「ねぇ伯爵。せっかくだからロットウェルでのジュネスの様子を教えて下さらない?」
メアリナーデはわざと明るい声を出し、グレイに声をかけた。先程までの暗い空気を払拭するかのような態度に、それを感じ取ったグレイもまた、心もち声音を明るくして応じる。
「そうですねー……そうだ、うちで保護している少女がいるとはお伝えしていましたが、ジュネスはまるで兄の様に世話を焼いていますよ」
「まぁ、あの子が」
「はい。勉強を教えたり、時には一緒に街に行ったりと仲が良くて……妬けてしまいます」
「あらあら」
くすりと笑うメアリナーデの脳裏にあるのは、まだ7歳だった頃のジュネスの姿だ。18歳になったその容姿を想像することは難しいだろう。それでも、穏やかに過ごしているのであろう様子を聞くことが出来るだけで幸せだと思えた。
「うっかりしてました、これを」
思いを馳せていたメアリナーデの前に差し出されたのは、四つ折りにした白い紙。不思議に思いつつ広げ―――その手が止まった。
「これ、は……」
「先日絵師を呼ぶ機会がありまして。ジュネスの肖像画が描ければよかったのですが、案の定固辞されてしまいました。ので、こっそりとスケッチだけしてもらっていたのです。簡素なものですし、色もないので分かりづらいかもしれませんが……」
メアリナーデの視線は、広げられた紙に釘づけとなっていた。その目から次々と涙があふれ出る。止めどめなく流れ落ちる涙。それを拭うことも忘れ、一枚の素描に見入っていた。
「ああ……ジュネス、これが……今のあの子……」
少し横を向いたその素描は、きっとライナがグレイと一緒に立ってスケッチされていた時のものだろう。少しだけ口角が上がっており、穏やかな瞳は優しげだ。恥ずかしがるライナを穏やかに見ていたことが思い出される。
「ありがとうございます、伯爵。何よりも何よりも嬉しいお土産ですわ」
「少しでもメアリナーデ様のお心を癒すことが出来れば光栄です」
それ以上なにも言わなかった。グレイにはこれが精一杯であったし、メアリナーデもそれ以上など望んでいなかったのだから。
「……廃嫡は、されるのですか」
「……そうですね……。夫は愛人と子供をもうけているし、長年疎遠になっているジュネスに愛着もないでしょう。拘っているのはわたくしだけなのです……。わたくしが決断を下させば、あの子は―――ロア家から……わたくしから解放されるのですよね」
素描を優しく撫でながら、メアリナーデは心の中を整理していくかのように言葉を紡ぐ。だが、どんなに言葉を重ねても、気持ちを整理しても―――それでも決心は決まらない様子だった。離れていたとしても自分の子供の事を、簡単に切り離すことができないのだ。
「ちゃんと、答えは出します。もう少しだけ、時間をください……そう、ファーラル様にお伝えしてくださる?」
「わかりました」
ファーラルの両親はファーラルに興味が無い。成人前には疎遠になっており、アジレクトによって議長として襲名される前に縁を切った。それ以来実家どころか血縁者には仕事以外では一切会っていない。だからきっと、メアリナーデがこんなにもジュネスに対して決断が鈍ることに理解は出来ても納得はできないだろう。そう思いつつ、グレイは承諾の返事をしていた。
「伯爵」
「はい」
メアリナーデはその場で立ち上がると素描を胸に抱き、そしてそのまま深く頭を下げた。
「ありがとうございます。ジュネスを―――よろしくお願いします」
「……はい」
ゆっくりと頭を上げたその表情は、確かに『母』だった。
「閑話休題」の方に掲載した「肖像画」と一部リンクしております。
肖像画云々のところです。
とりあえずジュネスの話はこれにて一旦終了とします。
次から本筋に戻しますー




