蛇の巣2
美しく艶のあるピンクゴールドの髪がさらりと背に流れている。潤んだ瞳は蠱惑の誘惑の色さえあった。緩く弧を描く口元には紅が塗られ、それが彼女を『女性』だと改めて認識させてくる。しかしグレイはそれらを遮断すると、冷静な顔のままアンヌに近寄って行った。そしてその華奢な肩を軽く引き寄せ、挨拶として頬と頬を合わせた。
「久しぶりだ、アンヌ」
「最近はお屋敷に伺ってもいらっしゃらないことが多くて、なかなかお会いできませんでしたもの」
ほとんど会うことがなかった―――グレイがあからさまにアンヌを避けていたのが原因だ。そしてアンヌもそれは気づいているが、あえてグレイに言及などしない。言ったところで印象が悪くなるだけで、決して良い方向には向かわないとアンヌとて気づいている。
「きっと、今日の事でしょう?」
「ああ」
グレイがなにかを言いかける前に、アンヌは自ら話題を振った。そうすることにより、聞き出したいグレイを縛る効果がある。言う準備は出来ているとアピールすることで、グレイはそれを聞き出さない限り席を立つことはないだろう。
「できれば二人でお話ししたいですわ。ジュネスは遠慮して頂ける?」
「グレイ様……」
微笑を向けられ、付いて来ていたジュネスは戸惑った。特段アンヌの微笑に中てられたわけではない。ただ、傍を離れるかどうかの指示はグレイがしてほしかった。
「……下で待たせてもらってくれ。アンヌ、いいですか」
「もちろんですわ。あ、そうだわ。お話が終わったら、わたくしの馬車でお送りいたします。待つだけでは退屈でしょう?ジュネスは一度伯爵家に戻って、ファヴォリーニ様にご報告されてはいかがかしら?」
「それはよろしゅうございますね」
良案だとアンヌは笑顔で提案し、ロージィも薄い笑みを張り付けて肯定してくる。ここは蛇の牙城。気に食わないことが起これば、聞き出したいことが聞き出せなくなる可能性もある。確実にグレイとジュネスを引き離す作戦だと分かっているというのに、グレイに拒否権はなかった。
「わかった。そのようにしよう」
「グレイ様!?」
諦めの溜息をつき、アンヌの提案を受け入れたグレイに思わず声を荒げた。
「アンヌの話を聞くのに、二人もいらないだろう。ジュネス、おまえは屋敷に戻って父に先程の事も含めて報告してくれ」
「か、かしこまりました」
受け入れたらしい主に、従者であるジュネスがそれ以上言うことは何もない。そして、グレイが言う『先程の事』とはファーラルとの対談の事だと気が付いた。何がどう繋がっているは分からない今、ファーラルがすでに異変を察していることなど、大きな声で教える義理もないだろう。
「悪いが俺の馬も連れ帰ってくれ。帰りはアンヌの馬車を借りる」
「早馬でも寄越してくだされば、すぐにお迎えに参ります」
多少むっとしつつ、アンヌへの牽制も込めて言い添えた。
アンヌの部屋に残されたグレイは、部屋の中央にある豪奢なテーブルに案内される。すぐにメイドが現れ、ティーセットを用意すると素早く退出していった。さすが公爵家の屋敷のメイドは、アンヌの意思をよく理解している。
「本当に、いつまでもジュネスはグレイ様の後をついて回っているのですね」
思わずと言った風を装い、アンヌは楽しそうな声を出した。その言葉の中に、揶揄するものが含まれているのに気が付いたが、あえてなにも反論しなかった。言ったところでジュネスの事をわかっていない者たちの意識など、何一つ変えることは出来ないのだから。
「俺が聞きたいのは―――」
「わかっていますわ。花祭りでの出来事でございましょう」
グレイの正面のソファーに座り、大輪の薔薇のように微笑むアンヌは本当に美しかった。十人男がいれば、十人ともが『美しい』と同意するだろう。それはグレイも認める。だが美しい事と、好意を持つことは別の話だ。それをアンヌもミラビリスもわかっていない。
「あのお嬢さん……ライナ、といいましたかしら。ご無事でした?」
優しく微笑んだまま、少しだけ首を傾けて問いてくる。少し表情を曇らせ、心配そうな上目づかいを見せた。グレイは高飛車だった態度が緩み、心配そうにライナの容体を聞いてきたアンヌに少し絆され、厳しかった表情を緩ませた。あの母ミラビリスでさえ、ライナの無意識の懺悔と悲鳴に母性が揺り動かされたのだ。同性であるアンヌもまた、ライナの心情を推し測ってくれたのだと考えた。
「気遣ってくれてありがとう。ライナの怪我は大したことはない。いまは屋敷で安静にしているが、すぐに回復するよ」
「それはよかったです。……ライナはまだ子供ですし、周りが守ってあげなくては」
「ああ、そうなんだ」
アンヌは暗に『子供』という部分に力を込めて言ったが、グレイにそれが通じただろうか。そしてなにより、ライナの事を話す時のこの表情!
アンヌは内心歯軋りしたいほど悔しさを滲ませていた。だが当然、そんな気配は露ほども見せはしない。完成された淑女として、バーガイル伯爵家の妻にと望まれるべき女性として、心の中の葛藤など表面に出すことは恥でしかないのだから。
「それでアンヌ。聞かせてくれ」
「ええ。わかりましたわ」
了承の返事をすると、アンヌは数時間前を思い出すように少し視線を遠くに向けた。
「わたくし、ロージィと共に花祭りに見物に行っておりました。表広場を見終わって、奥で雑技団の円舞があると伺い歩いておりました。そうしたら突然人波が急に動いて倒れそうになったのですが、幸いにもロージィが支えてくれたので何事もなく済んだのです」
本当はグレイの動向を見張るために向かった花祭りだったが、道順は間違っていないし、雑技団へ向かう人々が突然押し寄せ人波に飲まれそうになったのも本当だ。グレイも自分の記憶と照らし合わせているのだろう。アンヌの言葉に無意識に頷いていた。
「けれどあまりにも人波がすごくて、わたくしそれ以上進むことを諦めてしまったのです。あんなにたくさんの人々の中に飛び込む勇気はございませんでしたから」
「確かにあの密集度は、箱入り娘のアンヌには厳しかっただろう」
本当は箱入り娘のような育てられ方はしていないのだが(なにしろ田舎の領地では、母に無理矢理に畑にも行かされ、牛の世話までさせられている)グレイは中央都市で貴族の淑女として振る舞っているアンヌしか見ていないのだから、そういう表面的な感想になるのも仕方ない。
「そうですわね。それで結局引き下がって来た道を戻ることにしたとき、なにか声が聞こえたのです」
「声……」
「はい。顰めた声でしたが、それが逆に怖くて。ロージィに頼んで確認してもらったのです」
「それで?」
「戻ってきたロージィが、グレイ様が保護している少女に似ていると言うので驚いてしまって。危ない目に合っているのではないかと、わたくしも現場に走りました」
話しながら興奮してきたのか、アンヌの頬は少し赤く染まってきた。
「そしてわたくし見てしまったのです。いいえ、聞いてしまったのです……」
「なにを」
グレイの先を進める促しに、アンヌは一呼吸おいて口を開いた。
「男が、ライナに―――嘘の誘拐話を持ち掛けているのを……」
まっすぐにグレイを見ながらアンヌが言った言葉を、頭の中で何回も何回も繰り返してみた。ライナと姿なき誘拐犯らしき人物を頭の中で並べてみた。小動物のようなあの瞳が誘拐犯らしき人物を見上げているのを想像してみた……気分が悪い。
じっくり考えていたようで、実際は10秒にも満たなかったと思うが、それでもグレイの反応は遅かった。
「………はぁ!?」
伯爵家当主にあるまじき、呆れかえった声だ。思わずアンヌをまじまじと見てしまい、そして次の瞬間爆笑した。
「あはははは!アンヌ、そ、それは……はははっ!」
「グレイ様、信じて下さらないのですか」
「はははっ!それは、ないよっ。あはははは、お腹が痛くなるじゃ、ないか……!ははははっ」
お腹を抱えて笑っているその姿は、常に厳しい軍人でもなく、屋敷の中で相対するときの冷たいグレイでもなかった。22歳の若者の姿がそこにあっ
た。自分の話を完全否定して笑われているというのに、その見たことのない姿と笑い声にアンヌは喜びを感じずにはいられない。
「で、ですがグレイ様。その男はライナにお金の算段を持ち掛けていたようなのです。それは確かに聞きました!」
笑っている姿は可愛くて、つい見惚れてこのまま見続けていたかったが、なんとか目的を思い出して声を上げた。だが、それもグレイには笑いの種になるようだ。
「おかしなことを言う。ライナは可哀想なことに声が出ない。それでどうやって金について話し合うというんだい」
目尻の涙を拭い、グレイはアンヌを見返した。だが、そんなグレイにアンヌは痛ましげな視線を投げるとそのまま俯いてしまう。
「アンヌ?」
「……お可哀想なのはグレイ様です……」
ぽつりとこぼれた言葉に、グレイは首を傾げる。アンヌの言っている意味が分からない。
「騙されておいでなのですね。……あの子は、ライナは話せますよ……声を出してました」
「!」
小さく、けれど確かな声が耳に届く。
「そんな、バカな」
確かにライナの声帯は機能できる状態にある。だが、それはいままでグレイしか知らなかったはずだ。今日ニーナやミラビリスにもバレてしまったが、その情報がこんなに早くアンヌに届くはずがない。
「聞き間違いだ」
「いいえ。わたくし聞いたのです!ロージィだって聞いています!誘拐されたことにして、伯爵家からお金を取ろうって!その段取りをしているようでしたもの。わたくし怖くて驚いてしまって、思わず声が出てしまったのです。ロージィがすぐに庇うように前に出てくれたのですが、それが良くなかったのかもしれません。男がライナを裏切ったのかって言って、彼女を地面に叩きつけたんです。そしてそのまま逃げていきました。わたくしすぐにライナを起こしに行きました。その様子にわたくしが話を聞いていなかったと判断したようで……縋り付いて泣いておりました。あれも演技だったのか分かりかねますが。そのあとはロージィにグレイ様を呼んで来てもらい、わたくしは屋敷に帰ってきたのです」
淡々とした声は平淡で、抑揚がない分判断に困る。
アンヌの言っていることを鵜呑みにするなど愚かなことだ。だが、ライナが声が出るのは事実。ファーラルにさえ伏せている事実をアンヌが嗅ぎつけることは不可能だろう。だとすれば、アンヌの証言を信じることになる。
「グレイ様。わたくしあの男に顔を見られてしまいました。わたくしを誘拐しに来るなんてことは無いでしょうか……?」
アンヌは立ち上がると、グレイの横に座りなおした。そして両手を胸の前で組み、アンヌはその潤んだ瞳でグレイを見上げた。薄い水色の瞳が涙で潤んでいる。目尻に溜った涙が決壊し、するりと頬を滑った。
「この屋敷に男はロージィしかおりません。なにかあったらと思うと……」
組んでいた手をほどき、ゆっくりとグレイに伸ばしていく。その手を何故か、グレイは拒めなかった。
白く細い指先がグレイの上着に触れ、そのまま滑るように置かれる。そしてアンヌはそのまま体を傾け、グレイの胸元に倒れ込んだ。
「グレイ様。今夜だけでも、ここに泊まっていただけませんか……」
雑音のない二人だけの静かな室内。小さな呟きは確かにグレイの耳に届いた。
そしてその日、グレイはバーガイル家には帰らなかった。
えぇぇぇえグレイーーーーーー!!!?
まて次回!




