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無声の少女  作者: けい
ロットウェル
52/145

ベルは誰のもの

 グレイがアンヌの屋敷に向かってから暫くして、ライナはその瞼をようやく開いた。ぼんやりとした視界にあるのは、見慣れてきた自室の天井。目元がピリピリと痛いのは泣いてしまったからだと分かった。喉も微かに痛むけれど、出ない声を出そうとした弊害だと納得させ、そして漸くベッドの隣に人の気配を感じた。誰だと訝る前に、きっとグレイだと思ったが顔を向けた先にいた人物は、ライナの予想を超えた人だった。

 この屋敷に来てから、ずっと疎遠になっていたはずの女主人ミラビリス。


「……」


 ライナは未だ開ききっていなかった目を最大限に広げ、言葉にならない声を出す。口をただパクパクと開閉するしかなかったのだが、それだけで相手には充分動揺が伝わったらしい。


「目が覚めたようですね」


 声が掛けられ、半ば呆然としたまま無意識に頷いていた。そこで自分の左手がミラビリスに握りこまれているのに気が付く。その事実がさらにライナを混乱に巻き込んでいった。無理矢理手を引き抜くこともできず、どうしたらいいのか分からないまま、何が起こっているのかを必死で考えていた。


 ――― どうなってるんだろう???えっと、えっと……何がどうなってこんなことに??


 ミラビリスは何も言わず動かないし、ライナも驚きすぎて体が動かせない。こんな時にグレイかジュネスかニーナでもいてくれればいいのに、なぜか彼らの姿は室内に見られなかった。


 ――― えーーーっと……グレイとジュネスに花祭りに連れて行ってもらって……それで、そう!はぐれちゃって。そうしたら、誰かがわたしを物陰に連れ込んで……。


 思い出してぞっとした。

 知らず身震いをした振動が、手からミラビリスに伝わったのだろう。怪訝そうな目を向けてくる。だが、事態を思い出し始めていたライナは、その視線に気づかない。


 ――― 男がいた。父さんの名前とわたしの名前をしってた……。お金になるって、連れて行くんだって……。予定より早いって言ってた。予定ってなに。


 ぐるぐると回り出した思考に、ライナは眉根を寄せ俯いた。


 ――― どうしてロットウェル(ここ)に、わたしと父さんを知っている人がいたんだろう。もしかして父さんの知り合い?……ううん、だったらお金になるなんて、変だよね。


 男に捕まれた腕がずきりと痛んだ。


 ――― どうしよう。怖い!


「ライナ」

「!」


 冷たいとさえ思える声音が自分を呼んだと分かり、ライナはゆっくりと顔を上げてミラビリスに視線を向けた。何かを言いたいが、何も言えない。この機能を失った喉は声を出すことをずっと拒否している。

 何を言われるのかと身構えていたライナの耳に届いたのは、予想外の言葉だった。


「帰って来てからずいぶん経ちますが、お腹は空いていませんか」

「……」


 そう言われれば、空腹感がある。それに窓の外を見れば夕暮れだった。夕焼け独特の橙色の光が室内にも差し込んできている。


 くぅ〜…


 と、絶妙のタイミングでライナのお腹が鳴った。静かだった室内に悲しげな音が響き、それはライナだけでなく、もちろんミラビリスの耳にも届いた。

 頬が熱くなり、思わずライナは自由な片手でお腹を押さえた。


「ニーナに用意させましょう」


 そうしてミラビリスは漸く、ライナの手を開放した。そしてそのままベッドサイドに置いてあった金色のベルを手に取る。ぼんやりとその動作を見ていたライナは口と目を大きく開けて凍り付いた。


「……あら?鳴らないわ」


 振っても振っても音のならないベルを不思議に思い、ミラビリスはベルの内側を覗き込んで目を瞠った。


「……ライナ、なんですかこれは」


 金色のベルは鳴らない。なぜなら内側の振り子が動かないように、布地が詰め込まれていたからだ。ミラビリスは立ち上がり、硬直しているライナの上から冷たい声を出す。各種授業で先生をしているクレールやジュネス、グレイとは違った怖さを頭上から味わった。


「この、ベルの機能を無意味にしている布地は、あなたが詰め込んだのかしら」


 開けっ放しだった口を閉じ、すすすと視線を逸らす。その動作がすべてミラビリスの言葉を肯定していることになるのだが、それでもそうせざる得なかった。真上から吹き込んでくる冷たい怒気が自然とそうさせてしまうのだ。

 ミラビリスからの追及が無いな、と思った時。耳に届いたのは涼やかなベルの音色だった。耳に心地よく響く、決して耳障りではない高音が部屋から流れていく。余韻を残して音が消えていくのと同時に、ドアがノックされた。


「失礼します」


 入ってきたのはニーナだ。そしてベッドで目が覚めているライナが視界に入ると、嬉しそうに微笑んだ。安堵が入り混じった優しい顔。


「目が覚められたのですね」

「お腹が空いているようだわ。食事の用意を」

「かしこまりました。奥様も付きっきりでお疲れでしょう。湯殿の準備はできております」

「そうね」


 ミラビリスはちらりとライナに視線を向けると、わずかに口元を上げ笑みを見せた。


「後は任せてもいいかしら」

「もちろんでございます」


 ニーナの力強い言葉にミラビリスは小さく頷くと、そのまま足音も立てずに退室していった。わずかな足音すらさせない、あれが本物の淑女の歩き方。


「ライナお嬢様、お顔を見せてくださいな」


 ミラビリスが出ていったのを確認すると、ニーナがパタパタと駆け寄ってきてライナが起き上がるのを手伝ってくれた。背中にたくさんのクッションを入れて固定してくれる。


「よかった、顔色がよくなりましたね。グレイ様とジュネスは出かけていますが、すぐに戻って来られますよ。何も食べていらっしゃらないのでしょう?とりあえず胃に優しい食事をお持ちしますからね」


 病気をしたわけではないので、できればパンでも惣菜でもお肉でも食べたい気分だったのだが、ニーナにはそこまで通じなかったようだ。手元に黒板があれば希望を伝えれるのだが、生憎と黒板の入ったカバンがすぐに見当たらない。


「それにしても初めてベルが鳴りましたね」

「!」


 その声にライナはなんだか無駄に緊張した。だが、さっきのはミラビリスが勝手に鳴らしただけで、ライナが誰かを使うために鳴らしたわけではないのだ。わたしが誰かをベルの音ひとつで動かしたわけではないのだとわかってほしくて、思わずニーナに縋るような目を向けていた。


「ずっと鳴らしてくださらないから、少し不安でした」


 思いがけないニーナの言葉。ベルが鳴らなくて、不安?


「鳴らすことを遠慮されていたでしょう?ライナお嬢様は全部自分でできてしまう方だから、人の手を煩わせることが嫌なんだとはわかっていますとも」


 無意識にニーナを見つめていたライナは、そのまま凝視してしまう。視線を逸らせない。さきほどミラビリスに対しては、おもわず視線を避けてしまったというのに。


「何か用事があるのなら、遠慮なく鳴らしていいんですよ。人を使うということに抵抗があるのかもしれませんね。平民であればそれはあって当たり前の感情だと思います。決してライナお嬢様がおかしいんじゃないんですよ。―――ですけどね、お嬢様」


 区切られた言葉。思わずごくりと唾を呑む。


「俗物なことを申しますよ?わたくしたち使用人は給金で働いています。働かざるもの食うべからず。そしてわたくしの仕事は、お嬢様のお世話です。どうか仕事をくださいませ」

「……」

「その目は『給金を払っているのは自分じゃない』とか思ってますね?」


 図星をさされ、ライナは顔を赤らめた。貴族に長く仕えていると言っても、ニーナも平民の一人であり、ライナと同じように今まで数々の葛藤や貴族たちと平民との間にある壁と戦ってきたのかもしれない。


「いまのお嬢様の仕事は、マナーを完璧にして精霊についてしっかり学ばれ、知らなかった知識を詰め込むことでございます。人にはそれぞれ役割があるんですからね。あのベルを鳴らして、仕事をくださらなければわたしは遊んでいるのに給金を貰うことになります。それはわたし自身の矜持が許しません。ですから、鳴らしてください、金色のベルを。飾ってほしくてクレールさんはお渡ししたんじゃないんですから」


 優しく覗きこんでくるニーナの瞳にあるのは、労りと慈愛の色だった。そして未だ答えの出せないままのライナの手を取り、包み込んでくる『母の手』。さっきまでミラビリスも同じようにライナの手を握ってくれていたことを思い出し、どちらの手の温かさも同じだったと気が付いた。


「甘えてくださいね」


 ぽつりと告げられたその声は、少し寂しげでさえあった。





 結局ライナ自身の答えが出るまでに、先に食事が到着した。いつまでも戻って来ないクレールは、何かを察していたのだろう。独断で食事をカートに乗せてやってきた。ニーナが用意しようとしていた『胃に優しい食事』ではなく、肉も野菜も豊富な夕食一式だった。

 ニーナは食べられるかと心配そうだったが、食事を眺めて嬉しそうなライナを見て声を出して笑っていた。


「これをお返ししておきます」


 食事が終わってからクレールが差し出したのは、ライナの鞄だった。どこにあったのか分からないが、クレールが預かってくれていたのだろう。中を確認すると、ちゃんと黒板が入っていた。


〔ありがとう〕


 ライナが黒板にお礼を書くと、小さく頷き―――何かを思い出したように顔を上げた。


「ライナ様。お返しを頂いてもいいですか」

「?」


 思いがけない答えに、ライナはきょとんと見返しつつ、あっさりと頷き返した。それを見ていたニーナは呆れた溜息をつく。


「クレールさん、ライナお嬢様にお返しって……」


 だが、ニーナの溜息など無視し、クレールは話を続ける。


「明日の朝、ファヴォリーニ様の散歩に付き合っていただきたいのです。お迎えに来ますので、用意が出来たらベルを鳴らしてください」

「……!」

「ファヴォリーニ様を二人で驚かせたいので、勝手にファヴォリーニ様のところに行ってはなりません。必ず用意が終わったらベルでわたくしを呼んでください」


 クレールの提案に、ニーナは一気に顔を輝かせ笑顔になった。そしてライナはクレールの提案が嬉しいけど、恥ずかしくもあり。けれど不器用だけど優しい気づかいに、しっかり頷いた。


〔明日の朝、鳴らします〕


 黒板に書き込まれた文字は、少し緊張で震えていた。



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