事の顛末
翌日早朝。ライナはすっかり着替えて準備万端な姿でベルを構えていた。そんなに緊張するものではないと分かっているのに、無駄に緊張してしまうのは、染みついた下層民の宿命だろう。ライナの肩書は『他国民』『孤児』『未成年』『精霊士(仮)』とまぁ……あまり上等なものはついてこない。自分という存在がちっぽけなものだと、自分の事は分かっているのに、このベルを鳴らせば有能な伯爵家の執事がやってくるという。そうしてもらえる価値もなければ、見合う代償を支払う余裕もないというのに。
――― よし!
悶々と考え込んでいても仕方ないと決心したライナは、金色のベルをふるりと振り鳴らした。
結論から言えば、ベルを鳴らしたからと言って世界は何も変わらない。音に気付いたクレールが迎えに来てくれて、ライナがベルを鳴らしたことを素直に喜んでくれていた。これで伯爵家の一員でございますね。と言っていたがどういう意味なのか分からない。
分からないままにクレールと二人でリビングに向かうと、すでに車椅子に座って待機していたファヴォリーニがそこにいた。ちょこんとお辞儀をしたライナの姿に相好を崩し、微笑さえ浮かべる。今まで気難しそうな姿しか見ていなかったので、その優しげな表情にライナの肩の力が抜けた。
中庭まで三人で連れ添い歩く。車椅子はクレールが押していき、ライナはファヴォリーニの杖を持って先導した。朝靄がかかり幻想的な中庭の森に着くと、ファヴォリーニはライナに手渡された杖を使って立ち上がる。そしてゆっくりと足をかばいながら歩き出した。
「ライナ、ここの生活には慣れたか」
〔はい〕
隣からの問い掛けに、ライナは素早く黒板に返事を書いて掲げて見せた。それを読んで満足そうに頷くと、その場に立ち止まり大きな手をライナに伸ばした。
「ライナ」
伸ばされた手は、そのままライナの頭に触れる。小麦色の髪を撫でつつ言うことを考えているようだった。
――― 父さんの手みたい。
大きくてごつごつとした手。ファヴォリーニも、足を負傷するまでは戦場の第一線で陣頭指揮を執る立場だったのだ。いまは隠されたその腕や足。いや体中にきっと無数の傷があることだろう。いまは衰え始めてしまった筋力だったが、それでも掌の皮の厚さがそう変化するわけがない。ディロの掌もまた、働く男の手だった。剣を振るっていたわけでは無い。持っていたのは鍬や斧だった。だが同じ働く手だと実感できた。
「……故郷に身寄りがないのなら、ここにいればいい」
「……」
身寄りは確かにいない。母方の親戚も父方の親戚にも会ったことはなかった。物心付いたときから、ライナの世界はあの森に囲まれた村だけだったから。そしてその村がなくなり家族全員を亡くしてしまった今、ライナは天涯孤独だった。少し前までは考えただけで涙が浮かんできていたが、最近は深く考えすぎなければ涙を抑えることが出来た。それは自分なりの進歩だと思う。
「バーガイルの娘になればいい」
頭を撫でながら聞こえた言葉に、ライナは思わず振り仰いでファヴォリーニを見てしまった。だが、彼の視線は穏やかで思ったことを口にした。という風であった。ライナはただ単純に受け入れられている事実が嬉しくて、笑顔を返したのだった。
ライナとの朝の散歩を終えたファヴォリーニとクレールは、朝食までの時間仕事があると伝えると、書斎に閉じこもった。
「……グレイはどうした」
地鳴りのように低く響く声に、思わずクレールは後ずさりたくなったが、執事の矜持を総動員してそこにとどまった。
「まだご帰宅されていません」
「連絡は」
「ございません」
「無断か」
「はい」
唸るような怒気を含んだ声が突き刺さる。昨日、アンヌの屋敷に行ったグレイは今に至るまで無連絡であり、当人の帰宅もない。成人した男が一晩くらい帰ってこないからと言って、父親が目くじらを立てるなど情けない話だ。だが、ファヴォリーニが怒りを蓄積させているのは、息子の無断外泊が原因ではない。すべてはライナの為だった。ライナを自分の権限で保護した責任を放棄している息子に立腹しており、何も知らずに微笑んでいたライナが哀れだったのだ。
「アンヌの屋敷に使いを出せ。まだぐずぐずしているようなら、引っ張り出して連れてこい!」
「かしこまりました」
発せられた怒声は私室のドアと壁を通り越し、通路にまで響き渡っていた。
その頃公爵邸では、思いがけない事態になっていた。
アンヌはグレイにと宛てがった部屋に入れず、私室で悔しさに任せてクッションを壁にぶつけていた。
「どういうことよ!なんなのよ、もうっ」
昨夜、予定が大幅に狂った時も大暴れしていたが、一晩経ってまた、苛立ちが復活したようだ。ロージィはあまり触れないでおこうと思い、声をかけずに部屋の前を通り過ぎる。その時、催促するようにベルの音が響いた。アンヌの部屋にあるベルの音ではない。
ロージィは表情には一切感情を出さず、ベルが鳴ったその部屋に向かった。
「お呼びでしょうか」
「入っていいよー」
なんとものんびりとした声が聞こえてきたが、口調も声もグレイのものではない。分かっているがなんとも腹ただしい。眉間に皺が寄りそうになるのを抑えつけ、ロージィはその扉を開いた。
「失礼いたします」
「おはようロージィ。そろそろお腹空いちゃってさ。簡単なものでいいから運んでくれる?もちろん二人分だよ。あとお茶も頼むよ。いやミルクがいいかなー」
あはははと笑っているのは、ここにいるべきでない人物。いるはずのない人物。ロットウェル最高権力者ファーラル本人であった。
「かしこまりました。ご用意いたします」
頭を下げつつ、ちらりとグレイを盗み見る。グレイは目を充血させて書類を仕上げさせられていた。あの様子だと一睡もさせてもらっていないだろう。そしてその前の席を陣取っているファーラルも昨夜突然現れた時から、服装どころか髪型の乱れすらない。同じく一睡もしていないと思われるのに、両者の憔悴の差は歴然としていた。
「あと、朝食を頂いたらお暇するよ。グレイを送ってから城に行くから馬車を一台用意しておいてくれるかな」
口調も声も楽しげなのに、その視線は凍り付くような冷たさだ。ぞわりと鳥肌が立ち、背中に冷たい汗が流れる。
「ご準備いたします」
了承の返答だけを返し、ロージィは静かにドアを閉め姿を消した。
完全に閉まったドアを確認し、ファーラルは目の前で計算と格闘している弟子の頭をぶん殴ることにした。小気味よい音が鳴り、グレイは思わず体を傾がせる。
「師匠……」
「まったく情けない。情けないにもほどがあるっ」
「説教は昨夜思いっきり聞きました……」
「言い足りるわけないだろう!」
頭を押さえ、項垂れるグレイを丸めた書類でさらに叩いた。それを甘んじて受け入れるしかないグレイは、大きな体を縮ませて何度目かわからない謝罪の言葉を繰り返す。
「すいませんでした……」
「身の危険だって精霊が飛んできたとき、わたしがどれだけ驚いたかわかるか」
「すいません」
「しかも閉じ込められて脱出できないとか伝言を付けて」
「すいません」
「身の危険じゃなく、貞操の危機だと!?閉じ込められたじゃなくて、扉の前に寝間着のアンヌが立ちふさがってて手が出せないだと!?」
「いやもう、本当に……どうしたらいいのかと……」
二階くらいだったら窓から飛び降りて逃げだそうかと思ったのだが、押し込まれた部屋は三階で、さらに窓が小さくてグレイの体格では潜り抜けられるサイズではなかった。室内はそれなりに広いのに、部屋の一角を巨大なベッドが占領しているのだ。色んな意味で恐怖だった。ジュネスを帰してしまったことを、あれほど悔やんだことはなかっただろう。
既成事実だけは絶対避けなければならない。そして、致していなかったとしても、周りがそう思ってしまう行動はしてはならない。だが、あの時グレイは八方塞がりだった。アンヌが心情を吐露し、落ち着くまで話の続きを待ってほしいと言われ、ロージィに別室でお待ちくださいと案内されたのがこの部屋。正直その時はアンヌの私室から脱出できて安堵さえしていた。だが、次に現れたアンヌはまだ日も高いと言うのに透けたネグリジェ姿で登場してきたのだ!
淑女の心得を思い出せと叫んだが、アンヌは扉を閉めてその唯一の入り口をふさいでしまった。叫んでも怒鳴ってもアンヌには通用しない。さらにこの公爵邸の使用人たちは全員アンヌの味方だ。助けなど来るはずもない。力任せにアンヌを突き飛ばして突破することも考えたが、軍人の端くれとして、伯爵という地位にいる男として女性に手荒な真似をしたくないという矜持もある。精霊を使って防ぐと、予期せぬ怪我をさせてしまうことも考えられ、グレイは八方塞がりになった結果―――ファーラルに精霊伝いに救難信号を送ったのだった。
弟子からの近年稀にみるほどの慌てふためいた精霊からの伝言に、ファーラルはその時持っていた資料を抱えたまま精霊が案内する場所、公爵邸に乗り込んできたのだった。屋敷に突然現れたファーラルに驚き、慌てて追ってくるロージィだったが、彼を視線だけで威圧すると、精霊が指し示すドアを蹴破った。突然現れたファーラルに、あられもない姿を晒していたアンヌは悲鳴を上げて逃げて行き、安堵したグレイはそのままファーラルに蹴り飛ばされたのだった。
「こんな下らない呼び出しは二度とするな」
「はい……」
深いため息をついたファーラルは、徹夜で弟子に仕上げさせた資料をかき集めて中身を精査し始めた。その姿を見ながらグレイはぽつりと言葉をこぼした。
「でも師匠……本当にありがとうございました」
「……いい加減一人立ちしろ」
「頑張ります」
なんだかんだと言いつつ弟子に甘い師匠は、ロージィが朝食を運んでくるまでそっぽを向いて資料を眺めるに徹した。そして用意された食事を向かい合って食べていたところへ、バーガイル伯爵家の馬車が到着し、ジュネスによりグレイは回収されたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
そして同じころ―――
「どういうことですか」
男は苛ついた声を隠しもせず、向かいに座る客人に厳しい視線を逃げた。
「なんのことでしょう」
「わたしの耳に届いていないとでも?あなた方が探している娘を、無理やり連れ去ろうとしたらしいですね」
壮年の男から言われた言葉に、客人は頬の肉をびくりと痙攣させた。そして一瞬その眼光に鋭さを滲ませたが、すぐに低姿勢な仕草と声音に変化させる。
「いやぁ……申し訳ございません。部下が早合点したようで」
「引き渡しは穏便に行うと言ったはずでは?」
反省のない声音に、壮年の男は憎らしげに口元を歪ませた。
今日は週に一回と決めた報告の日だ。客人の男はずっと『調査中で娘の足取りは不明』と毎回報告してきていたのだが、違ったらしい。
そしてその思いは客人も同じ気持ちだった。『探させているがロットウェルは広い。まだ見つかっていない』と聞かされていたのだった。お互いがお互いを騙しあいしていたということである。
それにしても今日の出来事は警らも来ていなかったし、この壮年の貴族の男はそれをどこで嗅ぎつけたのか。客人はその事の方が気になった。もしやずっと見張られていた?しかしそのような視線も気配も感じなかったし、この屋敷を出た後も尾行されないよう細心の注意を払っている。
「勝手な行動は慎んでもらいたい」
「それにしても娘の居場所、ご存じだったんですね?」
有無を言わせぬ口調であったが、客人には通用しなかった。
「君はわたしがどこに所属しているかわかっているのか?どんな小さな出来事も逃すはずがないだろう。それに、なかなかに目立ったようだしな」
「……」
確かに目立っただろう。なにしろ大好評開催中の花祭り会場での事件だ。さらに人気の出し物である雑技団の傍だった。突然小さな竜巻が現れたり、一目で貴族と分かる娘が乱入して来たり。それで目を引かないと考える方がどうかしている。
「わたしにも立場がある。手筈はいづれ整える。それまでは見張りのみに徹したまえ」
壮年の男は苛ただしげに吐き捨てると、これ以上言うことはないと示し、客人の男を部屋から追い出した。
「そろそろ仕掛けてくるか……?」
一人残った男は肩までの黒い髪をかき上げ、近いうちに起こるかもしれない騒動に目を眇めたのだった。
いつもご訪問ありがとうございます。
やっと区切りつきました…花祭り編。
次回から一気に動かします。たぶん




