屋敷に巣食う蛇
グレイは意を決し、扉をノックした。すると、中から女性の声で了承の返事がある。聞き慣れた声を耳にし、今一度気合いを入れなおすとその扉を開いた―――。
「おかえりなさい、グレイ」
両手を広げてグレイを出迎えたのは、深い新緑色のドレスを纏った女性だった。赤みの強い金の髪を高く結い上げている。緩く抱擁を交わすと、グレイは女性の頬と自分の頬を軽く触れさせた。元から背が高いのか、もしくはドレスに隠れて見えないヒールの効果なのか分からないが、それなりに長身であるグレイと並んでも遜色ないバランスだ。
「母さん、ただいま戻りました」
「遠征先からもろくに連絡も寄越さないお前が、ついに屋敷に帰ってくる気になったというから、わたくしも旦那様も喜んでいるのですよ」
にっこりと微笑んでグレイと目を合わせる。グレイの母ということであれば、恐らく年の頃は40代半ば辺りだと思われるが、その磨かれた美しさは彼女をより若く見せていた。
「父上、ご無沙汰しています。屋敷を任せて申し訳ございません」
グレイは母との抱擁から離れ、居間の椅子から動かずにいた父親に近寄った。
「構わん。辺境の任務も大事な仕事だ。その間、爵位を譲ったお前がいないのであれば、屋敷や領地の管理をするのはわたしの役目だからな」
「ありがとうございます」
そう言いながら頭を下げ、父親の足元を見る。
彼の足は、片方無い。実際は義足がついているため、座っている姿は健常者となんら変わることはないのだが、取って付けただけの飾りでしかない義足では、自由に歩き回ることは出来ないのだった。歩くときは必ず杖が必要だし、場合によっては本人は渋い顔をするが、車椅子も使用する。なんらかのポリシーに反するのか、車椅子は本気で嫌がるのだ。
親子の再会を見届けた母親は、一歩下がると椅子に座った父親の後ろに控えた。行動だけは立派な貴婦人の姿なのだが、その口は止められない。
「それにしても、旦那様のお怪我があって爵位を譲ったのに、それからすぐに辺境ですもの。まして国境付近の警備だなんて、いくらグレイが【魔法士】として優れているからと言っても、ファーラル様も人が悪いわ。グレイに何かあったらどう責任を取るおつもり―――」
「ミラビリス、黙りなさい」
母親ミラビリスは、静かだが威厳ある声に諌められ、その口を閉じた。しかしその顔はまだ言い足りないようで不満をありありと現している。
「わたしの足がこうなってしまったがばかりに、グレイには窮屈な思いをさせているんだ」
「いえ、そんな……」
父親からの思ってもみなかった言葉に、グレイは慌てて言葉が出ない。
「それよりも、客人がいるのなら紹介しなさい」
ずっと気になっていたのだろう、扉前に佇む少女の姿に視線を移した。
無防備に眼前で始まった親子劇場にぽかんとしていたライナは、屋敷の主とぱっちりと視線が合ってしまった。今さら視線をそらすこともできず、ライナはただ困った顔をしつつ立ち尽くすしかない。
「ライナ、おいで」
「……」
呼ばれて困惑していたライナだったが、横にいたジュネスがそっと背を押してくれたのでようやく歩き出せた。自分がひどく緊張しているのを実感する。そのままジュネスは部屋から出ていってしまった。バーガイル家の人間ではないジュネスは、身の置き場に困っていたのに、ライナのために傍にいてくれたのだろう。
グレイの隣に並ぶと、二対の瞳がライナを捉えた。
「父さん母さん、彼女は数日前に保護したライナです。怪我のため声が出せませんのでお許しください」
「声が。それは不便だろう」
グレイの紹介に、父親は表情を和らげ憐憫の視線を送った。自分も片足の機能を損なった身として、同情のような気分が起こったのかもしれない。
「まぁ、そのストールは包帯隠しだったのね」
しかしミラビリスは、あまりそういった感情に頓着しないようだった。事実をあるがままに受け止め、声が出ないことについても特に同情のようなものは感じなかった。
「ライナ、俺の両親だ。父のファヴォリーニ・バーガイル。母のミラビリス・バーガイル」
「―、―、―、―」
ライナは声が出ない状態だったが、口パクで挨拶を返し頭を下げた。その様子をグレイは優しく見つめており、ファヴォリーニはそんなグレイを驚きの視線で眺めていた。
「ライナは東の別館で住まわせます。俺が保護したのでこの屋敷で身を置かせることにしました。事後報告になりますが、決めたことなのでご了承ください」
「それは、ジュネスからも聞いてますけどね……」
ミラビリスは顔からも態度からも、面白くなさそうな雰囲気を醸し出している。先程までライナのことなど何とも思っていなかったはずだが、どうやらグレイがライナに甘い顔をしているのに気付いてしまったようだった。だが、ファヴォリーニは特に気にしていないようで、あっさりと頷き返してくれる。
「構わん。が、それなら侍女をつけねばな」
「クレールに一任しようと思いますが」
「それがいいだろう。お前は別館に行くのか」
ぽろりと零れた言葉に、グレイの顔色が一瞬で喜色になった。元々、人を魅了する美貌だというのに、そのめったに見られない微笑の威力は我が子ながら恐ろしいものを感じた父だった。
「許されるなら―――」
「許されません!」
身を乗り出して『是非っ』とでも言いたかっただろう、グレイの言葉は、突然割って入った第三者の声によって遮られた。あまりの大きな声に、ライナはびくりと肩を揺らし、その場で固まってしまった。甲高い女性の声は、奴隷商人に自分を売ろうとした村の女の大きな声と、なにか重なるものがあったのだ。早まる鼓動に身を縮ませてしまう。
「アンヌ……久しぶりだね」
グレイのため息交じりの声を聴きながら、ようやく体の硬直が解けたライナは、背後に視線を動かした。
出入り口の扉の前で、仁王立ちになっている淑女がいた。ピンクゴールドの艶やかな髪。波立たない湖面のような薄い水色の瞳。唇は魅惑的なほど潤っている。茶色を基調とした格子柄と優しいピンク色を合わせたドレス。首元を飾る煌めくパールネックレス。絵に描いたような美しさと愛らしさだ。
「アンヌ、客人の前だ」
ファヴォリーニは少し声を苛立たせ、現れた淑女を諌める。その声音にアンヌはわずかに怯えた表情を見せたが、すぐに気を取り直したように笑みを浮かべた。
「申し訳ございません、おじさま。グレイ様がお戻りになられたというのに、なぜだかクレールがなかなか屋敷に入れてくれませんでしたの。やっと入れたと思ったら、この部屋の扉の前でもジュネスが邪魔をしてくるし、本当不思議な日ですわね」
ふふふと笑いつつ、足音も立てずにアンヌはグレイの傍まで寄ってきた。そして当然のように手を差し出す。悠然とした笑みを浮かべたアンヌと、その様子を見守っているミラビリスの視線。ファヴォリーニはなにも言うまい。ライナも大きな声に驚いていたが、特にどうというわけでもない。クレールもジュネスもこうなっては当てにできない……。
つまり、この中でそれらしく振る舞うことが一番の近道だと判断したのだった。
グレイはアンヌの手を取ると、その甲に唇を寄せ軽く触れた。それでアンヌは漸く満足そうな空気を纏いなおすことにしたようだ。悠然と構え、小首を傾げているライナを見下ろす。
「グレイさま、わたくしにも彼女をご紹介くださいませんか?」
「……そうだな」
きょとんと見上げてくる小動物のような瞳に、思わずグレイの頬が緩みそうになるが、なんとかそれを耐えてやり過ごす。
「アンヌ。俺の預かりとなったライナだ。怪我のため声が出ないから、返事は容赦してくれ」
「まぁ声が。ご不便でしょうね」
「ライナ、こちらはアンヌ・ジル・リグリアセット嬢」
正しくはリグリアセット公爵家の娘なのだが、貴族階級など無縁だっただろうライナのため、そのあたりは大きく省いた。だが、アンヌは少なからずその対応に不満だったのだろう。グレイの横顔を見ている瞳は不満そうだった。だが、そのすぐにその唇は弧を描く。
「グレイ様。もっとしっかり紹介してくださいませ」
アンヌは枝垂れかかるようにグレイに身を寄せたあと、彼が戸惑っている間にライナに顔を寄せ、その瞳を射抜くように目を眇めた。
「わたくし、グレイ様の婚約者ですの。よろしくお願いいたしますわね」
優しく慈愛に満ちた表情は得意だ。
この笑顔は誰の警戒心も解いてしまう。この笑顔を習得するために、興味もない慈善活動を行ったり、教会へボランティアに行ったりしているのだから―――こういう時に役に立たなければ、意味がないのだ。
しかし、ライナの表情は晴れなかった。それどころか強張ってさえいる。
その瞳にあるのは、戸惑いと……恐れ。
「ふぅん……」
この笑顔が効果がないとは、もしかすれば手強いかもしれない。
―――このバーガイル家の一員となり、グレイの妻の座を射止めるために、今まで自分がどれほどの根回しをしてきたかを思い出せば、苛立ちが募る。
ライナはこうもあっさり屋敷に入れられ、あまつさえ別館への居住をグレイ自ら進めていることに、アンヌが苛立ちを覚えていないはずがなかったのだ。
「可愛らしい方ですわね、グレイ様。けど、時にはわたくしも構ってくださいませね」
「そうですよ、グレイ。美しい婚約者を辺境任務の為とはいえ、ずっと放っておいたのですから。埋め合わせをするためにも、明日にでも二人で出かけていらっしゃい」
ミラビリスは美しく自分に従順なアンヌのことを気に入っていた。アンヌがバーガイル家の懐に入るために、最初に懐柔したのはミラビリスなのだから。
「嬉しいです、おばさま!」
「それは出来ません」
喜びの声を上げたアンヌとは対照的に、冷たいと感じるほどの声でそれを遮ったのはグレイだ。拒絶の言葉に、思わずアンヌはグレイではなくライナを見てしまう。
「明日はライナをファーラル議長の元に連れて行かねばならないし、他にも色々準備があります。……暫くは俺個人の時間を割く余裕はないんだ」
前半は父と母に向けて、後半はアンヌに向けてきっぱりと言い放つ。その堂々とした物言いに、アンヌは悔しげに俯いた。俯きつつ、ライナを睨む。
その視線の強さに、ライナは無意識に一歩引いていた。
アンヌのその歪んだ顔はライナにしか見えず、バーガイル家の面々には気づかれていないようだった。
「仕事優先は仕方ないことだ。戻ってきたばかりで届けが必要なものもあるだろう。役所などにも行かねばならないだろうしな」
「はい」
ファヴォリーニの言葉は、グレイにとっては助け舟だった。いや、実際助けてもらったのだろう。バーガイル家の爵位はすでにグレイに渡っているが、実質的にはまだまだファヴォリーニが実権を握っている。その人物の言葉に否を唱えられる人物は、この室内には存在しなかった。
「仕方ないわね。アンヌ、ごめんなさい。グレイの休暇は必ず知らせますからね」
「はい、楽しみにしています」
ミラビリスの言葉に、アンヌは困ったような目元のまま、微笑んだ。それはまるで、自分の想い人の我儘を仕方なく聞いてあげるわ、とでも表現できる仕草だった。
「では、わたくし屋敷に帰ります。お見送りは結構ですわ、家族団欒なさってくださいませ」
「本当に気が利く優しい子。クレール、馬車の用意を」
「かしこまりました」
廊下に控えていたクレールが慇懃に頭を下げ、馬車の準備を申付けるために姿を消した。アンヌはその場で優雅に腰を折り、退出の挨拶とした。そして思わず恐怖から一歩引いていたライナに視線を合わせると、その耳元に優しく言葉を紡ぐ。
「グレイ様が優しいからと言って、勘違いなさらないほうがよろしくてよ」
小さな囁きはライナにしか届かない。ただ怨嗟を含んだその声は、ライナを怯えさせるには充分なものだった。
というわけで、怖い女が出てきました。
ライナ、とばっちりです




