4 帰宅と放任
「ただいま、由樹ー、居る?」
声がした。由樹は自室の照明すら消さずにパタパタと階下へ走って迎える。
「おかえりなさい、お母さん」
「ありがと。元気にしてた?」
「ん、まあ」
母はニコリと笑って、由樹の頭を数度撫でた。もう撫でられるほど幼くないと言いたくなるが、きっと母の中の由樹は、中学二年生のままで――いや、もっと前で時が止まっているのだろう。母がこんなならば、父はもっと。
「……お父さんは? 帰る日とか聞いてる? ゴールデンウィークは帰ってこなかったけど」
「早くて盆だろうね。また聞いておくわ」
「なんていうか、単身赴任って大変そう」
「由樹にも大変な思いをさせてるわね。ごめ――」
「ううん。いつもありがと」
寂しそうに笑う母の顔を見たくなかったので、謝罪の言葉を遮った。謝るくらいならもっと帰ってきてくれと思うが、それもまた幼稚で甘えた願いなので、そっと飲み込む。
日が落ちてだいぶ経ったか。由樹は夕食――以前リクエストされたビーフシチューと、その付け合わせ――を皿に盛り、電気ケトルに水を汲んでスイッチを入れる。
母は食卓について、食前のあいさつをして食べ始めた。また腕を上げたね、と母に褒められ、ん、と喉奥だけで返事をした。
やがて湯が沸けば、由樹はスクールバッグに入れておいた箱を出す。近所のスーパーで買える一番良い紅茶だ。箱の側面には、精算済みを示すテープが直に貼られている。その中からひとつだけティーバッグを取り出し、マグカップに放り込んで湯を注いだ。
「紅茶なんて飲むようになったの?」
「いや、これはお母さんの分」
母の手元へとマグカップを添え置いて、自身も向かいに座り夕食をいただく。にこにこと笑む母を前にしていると、味わうのを忘れる。
「最近どう?」
母から投げられる、当たり障りない話題の、当たり障りのない切り出し方。最後に会ったのはいつだったか、あれからどのような変化や出来事があったか、ええと、と思い出す。
「生徒会に入った。美化委員長になった」
「責任ある仕事ってことだね。しっかり者の由樹にはぴったりだ」
「1年生で早くも副会長になった奴が居て、よくそいつと昼飯を食べてる。他にも3人くらい同級生がいるけど、まだいっぱい話せてない」
「賑やかなんだね。お昼もしっかり食べてるみたいでよかった」
うんうん、と母は頷く。
「あと、こないだ美織さ――美織お姉ちゃんに会った」
もう〝お姉ちゃん〟なんて呼ぶ歳ではなかったが、できるだけ母にとって馴染みある呼び名で話す。母は目を丸くして、椅子から少し腰を浮かせて驚いた。
「えっ!? どこで?」
「そこのスーパー。俺もびっくりした。最近越してきたんだって」
「へぇ~、また話したいな」
「お母さん、いつまでここに居られるの? まだ日があるなら、連絡しようか」
「あら、連絡先知ってるの?」
「アドレス交換した」
以前会った時に、良ければ、と交換したのだ。中学時代からキッズケータイは持っていたが、いわゆる普通の携帯になってアドレス交換が許されたのは高校に入学してから。両親と生徒会の同級生以外で、初めてアドレス帳に登録したのが美織だった。
◇
「久しぶりね! 美織ちゃん!」
「ご無沙汰してます、高津おばさん」
数日後、美織はわざわざ時間を作って由樹たちの家に来てくれた。
顔を合わせれば間もなく、きゃあきゃあと話し始める女性二人。いち男子高校生が口を挟める訳もなく、由樹はただ黙って母の横に座り、大人しくしていた。自分と話すときよりも母はハツラツとしていそうに見える。美織については――前に会った時よりも少しぎこちなさそうだ。
「こないだ由樹と会ったんだって?」
「はい。ご飯作ってもらっちゃって」
「えっ! ……由樹、やるわね」
小声で、しかし美織に聞こえるように耳打ちしてくる。何が、とだけ答えて、目線を外した。ませた子どもだと言いたいのかわからないが、下らないジョークを飛ばす母より分別はある。
「いやあ、でも、ほんと美味しくて。毎日でも作ってほしいくらいです」
「あら。ねね、これから晩ごはんでも作ってあげたら?」
「お母さん、すぐそういうこと言う。美織さんにだって生活があるって」
「私は、全然――」
遠慮がちに手を振る美織を見て、思わず同情してしまう。しかし母の無茶振りは止まらなかった。
「由樹のこと、いつも家に一人にしちゃってるから。そうだ! 美織ちゃんの口座番号教えてくれる? 由樹の生活費を振り込んでおくから、おばさんの代わりに渡してあげてよ。食費とかもそこから使っていいし、ね? 色つけたげるから、余ったら好きに使って」
「へ!? それはあんまり、その、ちょっと……」
「良いわよね、由樹」
流石にそれは強引だと言ったものの、母の目には二人が遠慮しているように映っていたらしい。とうとう押し切られ、由樹は今後、美織から生活費を貰うこととなった。そして無理のない範囲で、毎晩美織の夕食を作る約束も結ばれてしまった。




