32 自由と幸せ
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紅葉の目立つ頃、一大イベントである修学旅行は呆気なく終わる。行く前は事前学習だの準備だのが億劫で仕方なかったが、行ったら行ったでそこそこ楽しめるものだ。
深夜の恋バナは勿論由樹の話で持ちきりだった。生徒会メンバーはともかく、クラスメイトからはまだまだ謎の多い奴だと思われていた由樹だ。ひとたび〝年上の親戚の家に通っている〟〝その相手に片想いをしている〟と話せば誰もが食いついた。最初は心無い言葉でからかう者もいたが、由樹の動じなさを前にすれば、その口を閉じせざるを得なかった。
日中も、由樹の周りでこそ大きなトラブルはなかったが、どうやら葉音の班では相当な揉め事があったらしい。旅行の終わりには彼女はしれっと由樹の班に居座り、そのまま馴染んでいた、なんてこともあった。
お土産は家族の為に日持ちするものを、そして美織には可愛らしい置物を買った。……由樹にとっての一番の思い出は、置物を贈ったときの美織のはにかんだ笑顔だった。
それからやや暖かい日が続いて、急にうんと冷え込めば、すぐに冬休みが訪れる。
例年通り、由樹は両親を迎える筈だったが、いよいよ母は戻らなかった。父と過ごす年末年始は初めてだった。
「お母さん、なんで帰ってこなかったか聞いてる?」
「シドニーで年越しだってさ。寂しいよなあ」
由樹よりもしょぼくれる父を見て、なんだか自分まで気が重くなる。父は由樹のことを想ってくれているが、それ以上に母のことを愛していた。
「由樹がいてくれるから頑張れるんだがなあ。とはいえ、お前も干渉されたくないお年頃だろう」
「……帰ってきたいなら、帰ってきたらいいじゃん」
今まで言葉にしなかったことをぽろりと零した。しまった、と由樹は思う。似たようなことを言ったあとの、母の困り笑いが思い出される。
しかし予想は裏切られ、父は目を丸くして由樹を見た。
「気を遣わなくていいんだぞ? 由樹」
「え。……そんなつもりないんだけど」
「帰ってきてほしかったのか?」
それを直接息子に訊くのか、と思ったが、由樹も同様の経験をした心当たりがありすぎるので黙った。代わりに、ん、と喉奥だけで返す。
「……それは、悪いことをしたなあ。もっと無理にでも休みを取って、帰ってやるべきだった」
「お父さんはそうしない方がいいと思った?」
「ああ」
父は笑みを浮かべながら目を閉じて、話しだした。
「お前、父方の爺ちゃん婆ちゃんと会ったことないだろ」
「喧嘩したんだっけ」
「教育熱心で、自分の時間がなくて。耐えきれず、高校卒業と同時に飛び出したんだ」
それから、父の思い出話が始まる。由樹は初めて聴く話だったが、それは由樹が大きくなったから話せるのだという。
今でこそ恥ずかしくないよう育てるために、必死だったのだと理解できるものの、若き父はそれが窮屈で仕方なかった。飛び出してから自分でなんでもするようになって、初めて自分の人生が自分のものと思えるようになった。
間もなく由樹の母と出会い、自分よりずっと自由に過ごす彼女に憧れと好意を抱いた。彼女の気まぐれで結婚でき、また気まぐれで愛する子を作ることができた。——由樹だ。
だからこそ由樹には、何も押し付けたくなかった。最低限の行儀だけ教えて、あとはモノでも体験でも欲しがるままに与えようとした。しかし、あまり欲さない子どもだったという。もしかしたら知らない間に抑圧させていたかもしれない、そう悩んでいた頃に丁度良く転勤の話が入った。そして由樹を自由にさせるために——そして孤独にさせてしまったのだという。
「——由樹はな、もともと父さんが名付けたんだ」
「え?」
「シアワセと書いて、〝幸〟と。でもそれは母さんにダサいと怒られて。幾つも名前の漢字を考えて、やーっと認めてもらえたのが、〝由樹〟なんだ」
父さんは国語が苦手だからな、と笑う。由樹は自分の名の由来を聞いたことがなかった。
あまり多くの言葉を知らない父がただ願っていたのは、由樹自身の幸せ、それだけだったらしい。
「……俺はさ」
由樹はあまり父の顔を見ないよう、気恥ずかしさを隠しながら、ぽそりと呟く。
「お父さんに仕事のこと教えてもらったり、こうやって話したりするのが。……幸せだから」
「そうかあ」
父は隣に座る〝息子〟の頭をそっと撫でた。
「今までごめんな」
「ん」
よし、と父は父自身に言い聞かせた。
「頑張って早く、日本に居られるようにする」
「別にいい」
「……な、何でだ?」
明らかに単身赴任を止める流れだったのに、急にハシゴを外されて、父は慌てた。
由樹はふっと不敵に笑う。
「美織さんと今すごくいい感じだから。邪魔しないで」
父は目をぱちぱちとし、驚きを隠せないでいた。
「お前の好きな人って、まさか——」
「まあね。お茶、取ってくる」
由樹はひらひらと手を振って、冷蔵庫へと歩いていった。ぶっ飛んだことをやるのは母さん譲りか、という言葉は、敢えて無視しておいた。




