23 社会人と高校生
翌日から、由樹は生徒会にも顔を出さなくなり、美織の帰宅を待たなくなった。彼女への食事だけは作り続けた。
一線を超えてしまった由樹は、すべてがどうでも良くなり、食事も睡眠もまともに取らなくなる。美織の食事を作り終わって帰宅したあとは、暇つぶしに外を走ったり、最低限の提出物だけをこなしたりしていた。昼食もいつしかスーパーの惣菜パンに置き換わり、弁当の仕込みもやめてしまった。深夜になれば、燻ぶらせた情愛を排泄しては自己嫌悪して、ジュースを多量に呷り、気絶するように眠った。
そんな生活を一週間ほど続けた頃だった。
いつも通り、エントランスに鍵を挿しこんで回せば、入口のドアが開く。今日も何か簡単なものでいいや、と思いながら、美織の部屋まで辿り着く。玄関の鍵を回せば、カチャンという小気味よい音が——しなかった。
鍵は既に開いていた。
美織が朝出勤する時、鍵を掛け忘れたのだろうなと一人納得する。しかし入口も、リビングも、眩しく明るいままだった。
由樹がいま最も会いたくない人間が、そこに居た。
「——おかえり。由樹くん」
「あ……」
懐かしい姿を見た瞬間、由樹の体ががっと熱くなる。
9割5分の罪悪感と、なけなしの歓びが由樹の思考を奪い、占拠した。
ああ、恋しているのか、と自身を侮蔑する。
「……何で。まだ帰る時間じゃ」
「嘘ついてごめんね。でも由樹くんと話したかったの」
耳馴染みの良い声に思わず陶酔する。視線だけは美織に注ぎつつも、両足はたしかに後ずさりし、抵抗していた。
「……嫌です」
「嫌じゃない」
「帰ります」
「帰らないで。こっちに来て」
由樹は目を伏せ、薄い呼吸を繰り返しながら、よたよたとローテーブルの前まで歩く。強い力で引っ張られるような感覚だった。辿り着けば、ジェスチャーで床に座るよう促され、ぺたんとその場に座り込む。
美織のせいにしたかったが、美織に従うことを選んだのは、他でもない由樹だった。
「……何かあったの?」
「何も……ないです」
美織はいつかのように、由樹に手を伸ばし、頭を撫でようとする。反射的に由樹は体を反らし、両手で己が身を庇った。
「来ないでっ、駄目です、来るな」
「由樹くん……」
必死の抵抗に、美織は手を引っ込めた。撫でる代わりに、由樹の様子をじっと観察する。
「眠れてる?」
「……はい」
「ご飯はちゃんと食べてる?」
「はい」
「じゃあどうして、そんなにぼろぼろになっているの」
「それは……」
「私の目を見て」
胸がぎゅっとなって辛い。心拍が上がって辛いのに、目を見ろと言われれば抗えない。その綺麗な顔立ちを見ているだけでどうにかなりそうだった。
「本当に忙しいのかもしれないけど。……こんなことを言っちゃ駄目なんだけどね。最近の由樹くんのご飯、美味しくないの」
「……すみません」
「由樹くん。……動かないでね」
もう一度、美織の手が伸びてきた。振り払いたいが、動くなと命じられたので動けない。躱せず、華奢な手指が由樹の頭に乗った。その手はさらさらと髪の上を滑っていく。
「……やめてください」
「やめない」
「やめて……」
由樹はただ懇願した。社会人と高校生が、親戚が、両想いになれるわけがない。叶わない恋だと理解して、なお与えられる蜜にこれ以上溺れたくなかった。
だが、美織はその手を止め、離した次の瞬間、由樹の両肩を掴んで引き寄せた。
「——え」
由樹は前のめりになり、美織に上体を預けてしまう。
ハグと言えないほどに浅い抱擁。
互いの両肩が触れる程度の、ひたすらに健やかな、ごく浅い抱擁をされる。
「由樹くん。……頑張ってたんだよね」
その言葉を聞いて、由樹はとうとう、堪えていたものを決壊させた。目を開いたまま、視界が潤んでいく。
「……美織さん、俺、俺ッ——美織さんの、こと——」
「黙って!」
強く制止され、由樹はびくりと体を震わせる。
「……分かるから。何も喋らないで。動かないで」
何が分かるんですか、何も言ってないのに何が伝わるんですか、そう抗議しようとしても、無理だった。体の動きに加え、声まで奪われてしまった。
「辛い思いさせてたよね。……ごめんなさい」
ふるふると由樹は首の動きだけで否定した。美織のせいで辛くなった訳ではない。謝らないでほしかった。
「でもね、由樹くんの気持ち、絶対に行動に、言葉にしちゃだめだよ。……由樹くんは賢いから、その理由はわかるね」
痛いほどに分かっている。表に出せば、自他ともにこの想いがあることが、揺るがぬ事実となってしまうからだ。
「……だからどうか、苦しまないで。抱え込まなければいけないけれど、〝お互いに〟——」
そう言って美織は少し体を離して、由樹の頬に自らの頬で触れた。
「……これ……」
「喋らないで。どうか。……お願い」




