22 幼い再従兄弟と理性
早くに自宅に帰った由樹は、鞄を玄関に投げ捨てて、そのままフローリングに倒れ込む。気力を使い果たしていたので数十分ほどうつらうつらとしていると、ふと右ポケットのバイブレーションが由樹を起こした。
こんな日でも美織は変わらず、帰宅時間を知らせてくれる。
由樹は鉛のように重い体をなんとか起こして、シャワーを浴びて家を出た。
慣れた道、慣れた部屋番号。玄関を開ければ、よく慣れた人間の生活の痕跡。由樹は冷蔵庫の残りを思い浮かべながら、献立を考え始める。暑いし冷しゃぶにでもしようか、付け合わせや汁物は、と頭を捻っていれば、幾分か気が紛れた。
調理に入る前に、手洗いとうがいを済ませておくため、いつも通り洗面所へ入る。習慣化された行動だが、由樹の目は捉えてはいけないものを捉えてしまう。
脱衣カゴの中に、鮮やかな色の下着が入っていた。
普段ならそっと見ないようにしていたが、視線が外せない。誰もいないのに、由樹はかぶりを振った。亜里沙の時と同じように、自身の想いに反して、行動が言うことを効かなくなっている。そんなつもりはないのに、ワイヤーのラインを瞳がなぞって、所有者の影と重ねてしまう。
吐き気を抑えながらなんとか手を洗ってうがいをして、キッチンへ戻る。
朝に使ってそのままのコップのふちに、唇の痕が残っていた。
シンクに残されたコップでさえ、由樹を追い詰める。
由樹はもう、頭がおかしくなりそうだった。
何度も見つめた寝顔が思い出される。癖で口元を押さえれば、指に自分の唇が当たる。ぞわり、と鳥肌が立つ。
(……今、完全に俺は、美織さんを——)
由樹はそこで思考するのをやめた。何も考えたくなかった。
野菜を雑に切りつけ、肉と炒めて、何も考えず適当に味付けする。名前のない炒め物が出来上がれば皿に盛り、ラップをして冷蔵庫に入れておいた。
由樹は完全に疲弊していた。ローテーブルの横に座り込み、頭を抱える。しかし、容赦なくベッドの景色が襲いかかった。——人の形にシワを残した、シーツがそこにあった。
「やめてくれ……」
独りごち、がくがくと震え、怯える。
一切触れたこともないのに、その肢体の柔らかさを感じた気がした。
拒否しているのに、脳裏に映像が流れる。
シーツの上で、由樹は美織を抱き止める。美織はふふと微笑んで応える。その小さな顎に手を添えて、キスをして、首筋に顔を埋めて、そのまま——。
「……やめろ……」
掻き消えない幻覚へ向けて、ひり出すような呻きをあげた。
肉体の残滓が無防備に残されるなど、美織は由樹の存在など何も気にしてはいないのだ。自分は彼女にとってただの、幼い再従兄弟でしかない。
そう理解したとき、あのうつくしい人を、自分の汚らわしい感情でぐちゃぐちゃに塗りつぶしたくなった。
実現なんて簡単だ。壁だろうが床だろうが、あの細い腕を縫い止めることなんて容易いだろう。だからこそ由樹は、これ以上ここにいてはいけない、と判断した。
もう誰の理性をも信用できなかった。
すべての居場所を由樹は失った。
メモ用紙を一枚拝借し、「忙しいので帰ります。冷蔵庫の中の物を温めて食べてください。すみません」とだけ書き残す。熱を持った涙腺を強く閉ざしながら、由樹は自宅に逃げ帰った。
自分の愚かさから目を背けるために、数学の問題集を開く。普段なら解ける基礎問題すら、教科書を見ても分からない。文字と図形がバラバラになって解け、机や床に散らばっていく。
好きだった漫画を取り出す。繰り返し読んだ場面は先の展開を知っており、脳をうまく埋められない。友情も努力も勝利も、今はただ説教にしか聞こえなかった。
リビングのパソコンを点けてブラウザを立ち上げる。検索窓にカーソルを合わせて、入力すべき言葉が思いつかず、馴染みの動画サイトへ移ってサムネイルの羅列を眺める。刺激の強い広告が、由樹にとどめを刺す。
楽になりたい。
そう思ってしまった瞬間、由樹の中でプツリと何かが事切れた。
ブックマークの隅から馴染みのポルノを呼び出す。
映された人物と実在の女性とを脳内で置換して、由樹はとうとうジャージのゴムに手をかけた。




