21 激昂と呆れ
由樹は呆然としたまま、ドアへ背を預けていた。
普段の由樹なら、失言はしない。〝必要なことを言わない〟のはよくあれど、〝余計なことを言う〟ことは殆どなかった。
亜里沙を傷つけたいわけではなかった。最悪の形で、彼女からの信用を失墜させてしまった。
人生で初めて自らの意志で、他人からの歩み寄りを拒絶した。
動悸と汗が引けば、やっとまともに呼吸ができるようになる。頭がずきずきと痛んで、胃の中のものが出てきそうだった。
やがて、ぱた、ぱた、とゆったりとした足音が近づいてくる。真っ白だった頭を叩き起こし、その存在を認める。
「……海地」
「サボりとはいい趣味だね。由樹くん」
普段笑みを絶やさないはずの海地が、感情を殺した顔で、一段、また一段と階段を上ってくる。どうしてここが分かったのかは知らないが、どうせ亜里沙のことだ、告白の計画くらい他者に話していてもおかしくない。
「……ねえ。あれ何?」
「は?」
「亜里沙ちゃん、走ってったけど。何したの」
「何って。……お前には関係ないだろ」
全部知っているくせに、と由樹は歯ぎしりした。普段こういうときは用件だけ手短に話して、伝えたからね、と去っていくような男だ。長く一緒にいたから分かる、これは海地なりの喧嘩腰なのだ。
「フッた、んだよね?」
「だったら何?」
「あの子、泣いてたよ」
「だから?」
道徳の授業のような、答えが暗にあるような問いばかり投げられる。由樹はかなり苛ついていた。ただでさえ不本意に亜里沙を酷い扱いをしたのだ、一人になりたかった。
しかし気が立っていたのは由樹だけではない。チッ、と海地が舌打ちをする。
「どうせ君のことだ。相当酷いことを言ったね? あの子の気持ちに気づいていただろうに」
「は? 知るかよ。分かるわけないだろ」
「……どうしてそんな軽い態度を取れるわけ?」
「軽いだの重いだの勝手に決めつけんな。こんなこと、したくてしたわけじゃない」
こんなはずではなかった。由樹なりに、その葛藤や後悔はちゃんとしていた、できていた。海地は由樹よりずっと人の気持ちが分かる筈だが、聞く耳を持たない。
人間、恋をするとここまで歪むのか、と恐ろしくなった。
海地が亜里沙を好きだったことはよく噂になっていた。想い人が泣かされた〝程度〟で、相手にこうも正義擬きを振りかざせるのか、そして由樹自身もいずれこうなるのだろうか、とおののく。
突如、ぐしゃりと海地の顔が歪む。数歩で詰め寄り、由樹の胸ぐらを掴みかかった。
「――亜里沙ちゃんは、君のことを誰より、誰よりも! それを由樹、お前は!」
激昂した海地は至近距離で怒鳴った。由樹も思わず海地の肩を掴み返し、大声で言い返す——これは先に殴った方が負けの喧嘩だ。
「うるせえ! 亜里沙、亜里沙って! 俺はじゃあどうなんだよ!? 俺の、気持ちはっ!」
「お前がどう思おうと、泣かせるまでしなくていい!」
「そんなに心配なら、海地が今すぐ走って追いかければいいだろ!? あいつのこと好きなんだろ、なあ!? そんなことすらできないで俺に突っかかってくんじゃねえ!」
「——ッ! でもッ……!」
話の通じない海地を見て、急に由樹は冷静になる。
彼にこれ以上話しても無駄だ。
そう思った瞬間、先程までの苛立ちも消え去り、ただ呆れ返って、腕の力や体のこわばりがスッと抜ける。
海地も表情の失せた由樹を見て、はっと我に返る。カッターシャツを掴んでいた手をゆるゆると解いた。
「……だからって八つ当たりすんなよ。俺もう帰るから。退け」
「由樹く――」
「黙れ。暫く顔見せんな」
由樹は冷淡に、有無を言わさぬ圧力で告げる。放心する海地を押し退け、足早に階段を下りていった。
生徒会室へ戻ろうとドア前まで来ると、伊知郎が廊下で呼び止めた。
「由樹」
彼の手には、由樹の鞄が握られていた。
「亜里沙が中で泣いてる。帰っとけ」
「ん……ありがとう」
鞄を音もなく受け取り、由樹は言われるままに踵を返す。伊知郎は心配そうに、静かに見守っていた。
「大丈夫か?」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で問われる。由樹はただ一言だけを返した。
「……疲れた」




