20 好きな人と母親代理
斜陽の差す踊り場へ上がると、俯いて立っている亜里沙がいた。屋上へは鍵が掛かっており出られないので、ここには人の出入りもない。薄くホコリが積もっており、時が止まっているような雰囲気だった。
「あ——由樹。急にごめんね」
「……どうした」
「ええと……聞いてほしい話が、あって」
相対して立っていてもよかったが、一向に亜里沙が目を合わせないので、気まずくなって隣に立ち、登ってきた階段を眺めた。
「……あたしね。その。入学したときはそんなじゃなかったんだけど、いつも優しくしてくれて、ありがとうっていうか」
歯切れ悪く、要点を得ない話し方。由樹はふと、中学時代を思い出していた。
(——多分、告られるやつだ)
一度だけ経験がある。後輩の女子に、あのときは廊下で呼び止められたのだ。同じように口ごもりながら、相手の目を見ずに、相手の話をするのだ。
「由樹は。本当にどんな話にも付き合ってくれて。重いもの持ってくれたりもして。クリスマスイブだって話してくれて——」
仮定とはいえ察した瞬間、由樹はもう〝断り文句を考えていた〟。どのように言えば関係が壊れないだろうか、生徒会に迷惑をかけないだろうか。亜里沙の話は耳に入るが抜けていく。
しかし、だが、なぜ? 由樹には交際を断る理由がない。かつてのように受け入れてもいいのに。自問自答が止まらない、なぜ今回は断ろうとしている?
「だから。あたし——」
片想いの相手なんかいないはずだ。生徒会内で交際するのがまずい風潮はない。亜里沙の容姿や性格が悪いわけもなければ、友人として親しく接するのは楽しかったはずだ。なぜ、なぜ、なぜ。
「由樹のことが好きです。……付き合ってください」
「……ご、めん……」
頭が真っ白になっている間に、相手へのケアを考える間もなく、決めていた答えをそのまま出した。
「……そうだよね。由樹は、そう、だもんね。うん」
誰の声も聞こえない踊り場に、ぱたりと涙の落ちる音が響いた。ホコリを吸って固まった涙は、灰色の粘土のようになって、また新たな水滴が落ちてくるのを迎える。
顔を拭い続けるその白い手を取れれば、どれほど良かっただろうか。抱きしめてあげられれば、その口元に夢を見せられれば、きっと由樹は、亜里沙は、ともに幸福でいられた。
(だけど、俺が本当にそうしてあげたかったのは、——ッ!?)
自覚する。
ヒュ、と息を詰まらせ、由樹は口元を押さえた。
(今、俺は、誰を考えた?)
その答えは、さめざめと泣く亜里沙の口から、容赦なく告げられた。
「……もしかして。……美織さん……?」
頷くことも、否定することもできないまま、由樹は固まった。過熱と過冷を高速で繰り返す血が、由樹の全身を駆け巡る。
亜里沙を目の前に置きながら、別の人間のことで頭がいっぱいになった。幾度も幾度も深夜に眺めたあの寝顔が、由樹の網膜を支配していた。パニックになっているのは亜里沙もらしく、嗚咽を漏らしながら、わざと鋭利にした言葉を叩きつける。
「……違う。由樹はね、勘違いしてる、んだよ……きっと、歳上だから、お母さんがいないからって、美織さんを、代わりにしてるんだよ……っ! ほんとに好きなんかじゃない! じゃなければ、あたし、あた、しっ……!」
不幸にもこの言葉が、由樹の不定形の感情の正体を暴く。
「……ああ。そうか」
もはや由樹には、相手を慮る余裕など微塵もなかった。
彼が美織の世話をしていた、その理由は。
彼が亜里沙を受け入れていた、その理由は。
悪癖が手助けし、みずからの思考がそのまま口から滑り落ちる。
「俺が……好きなのは……美織さんだ」
「そんなわけ——」
「……母代わりに甘えてたのは。——亜里沙だった」
「——あ、あ……」
ゆっくりと亜里沙は顔を上げ、はじめて由樹と目を合わせた。真っ赤になった双眸が、ただ由樹を捉えれば、アハ、と息を吐くだけの笑いをこぼした。
「じゃあ。勝ち目、なかったってこと、じゃん」
「……それは」
「一人で舞い上がって。ッ、馬鹿じゃん。あたしさあ!」
刹那、由樹は胸元に衝撃を受けた。一瞬の浮遊感ののち、背中が屋上へのドアに叩きつけられる。突き飛ばされた、と理解する頃には、亜里沙は階段へと走り出していた。
「亜里沙っ!」
「——死ねッ!!」
亜里沙は絶望と軽蔑の笑みを浮かべながら、最後の力を振り絞って由樹に殺意を投げかけ、階段を駆け下りていった。
その感情の裏に拭いきれない情が残っていることまでは、由樹は察することができないままだった。




