18 寂しさと堕落
「私、床で寝るからさ。由樹くんは布団使っていいよ」
「……駄目です。仕事がある人が……ちゃんと寝てください」
由樹は床に座ったまま、美織のベッドの縁に背を預け、着ていたコートで身を包んだ。
「電気。……消しますね」
「うん」
テーブルの上に置かれていたリモコンで、由樹はシーリングライトの明かりを消す。暗くなった部屋の中で、辛うじて見える爪の隙間をただ眺めていた。
「……大人でも、寂しいって思うんですか」
不意に思ったことが口から漏れる。大人という存在は、とうに自立して、寂しいなどという幼稚な感情は持ち合わせていないと思っていた。少なくとも由樹からしたら、とうに棄てて忘れてしまった感情だ。
「思うよ。変かな」
「いや……よく分からないです」
「……由樹くんが帰っちゃうとね。一人で照明を落とすんだ。さっきまであんなに楽しかったのに、自分しかいない世界になるの」
微睡みに落ちていっているのか、美織の声は蕩けていた。じっと耳を傾けていると、突然、美織の指先が由樹のつむじに乗った。全神経がその一点に集中し、僅かなその指の重みと、髪の毛の一本一本の変形さえをも感じ取る。微かな水蒸気の香りがふわりとして、遅れて石鹸の香りの存在を認める。
「由樹くんがいるから、頑張れるけど、由樹くんがいないとね——寂しいんだよ」
そのまま、美織は由樹の頭を数度撫でた。麻酔を塗り込まれたかのように、頭皮に淡い痺れが走る。由樹はぴくりとも動けないでいた。触覚で、聴覚で、嗅覚で、美織の全てを受け止めるので必死だった。
やがて、美織の手がズルリと由樹の肩にまで落ちた。それは数度ぴくぴくと蠢いたあと、ぷつりと動かなくなる。眠ってしまったのだろう。
「……おやすみなさい」
とうに冴えきった目を押さえながら、由樹は掠れた声で呟いた。
部屋が明るくなったらしく、由樹はふと目を覚ます。いつも通り体を起こそうとすると、フローリングの固い感触が腕から伝わる。体の痛みに顔を歪めながら、眠い目を擦り開ければ、視界いっぱいに知らない世界が広がっていた。
「……明る……」
日中の美織の部屋は見たことがない。由樹がいつも来る夜の、あの無機質さと疲れが目立つ部屋とは全く印象が違っていた。
生活する部屋だ。
統一感のない家具だとか、照明が眩しいだとか思っていたが、自然光がひとたび差せば、この部屋の家具はそのような意図で置かれていないのだと気づく。
どれも安っぽい家具だが、引き出しが沢山つけられている。天板は広く、奥行きは狭く。僅かな隙間にも、おそらくリビング用ではない棚が収められている。なけなしの給与で揃えたのだろう、たくさん大事なものを仕舞いたかったのだろう。そんな背景を察せられた。
床に散らばる小物も、きっと使いやすい位置に転がしているのだろう。ゴミだけはきちんと捨てられている。上着はまだ仕舞うのが苦手らしい。
ローテーブルの上の化粧品はまた出しっぱなしで、蓋の開いているのもあった。初めて招かれた時と同じように、慌てて出ていったのだろう。——そこまで考えて、ふと美織のことを思い出す。
美織はとうに家を出ていた。代わりに、由樹の体に布団がかけられていた。由樹は数秒布団を見つめて、現実を整理しようとしたとき、ふわあと大きな欠伸をする。
瞬間、由樹の肺を空気が満たした。
美織の部屋の空気だ。
粉っぽい化粧品の香り、洗剤やシャンプーの香り、そして〝人間〟の香り。
「……生きてんの。ここで」
何故こんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。
この日を引き金として、由樹は堕落の泥濘へと沈んでいった。
はじめは学年閉鎖期間だけだった。
しかし、1週間空いた後、5日後、3日後——だんだんと週に数日ほど、由樹は美織の部屋で寝泊まりするようになる。
美織が少し遅くなっちゃったね、と言えば、いつも由樹は逆らえなくなる。遅いし、寒いし、疲れたし。いつか否定したその言葉を言い訳に利用している自分から目を背け続けた。
いつしか美織の家に行くとき、制服と学校用の鞄を持っていくようになった。洗面台に歯ブラシを置くようになった。来客用の布団を借りるようになった。美織の寝顔を暫く眺めてから布団に潜るようになった。慣れていなかったはずの布団で、自室よりも深く眠れるようになった。
良くないことだと思いつつも、彼女を置いて帰ることのほうが辛かった。美織も美織で、だんだんと家に帰る時間が遅くなっていた。
由樹は自分から泊まりたいと望むことはしなかったが、帰る時間を意図的に遅らせることはした。それから無垢な子どものふりをして、「今日はどうしますか」と卑怯にも判断を委ねていた。




