17 甘えと抵抗
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冬休みが明けて新学期になれば、おはようの代わりに明けましておめでとうが飛び交う。まだうんと寒い日々が続いているものの、秋までと比べれば行事もなく、穏やかに過ごすことができた。
だが、1月の終わりになりだんだんと欠席者が増え始め、2月の頭にはクラスで5人ほど休む日が出てしまう。そして昨日、とうとう数日間の学年閉鎖が言い渡されたのだった。
『学年閉鎖、チョー暇だね! 遊びに行こーよ』
突然の休みでも亜里沙のメールは賑やかだ。インフルエンザに罹るのが怖くないのだろうか。由樹は一言「ダメ」とだけ返して、山積みになった自習課題のプリントとひとり向き合い始めた。
そのとき、不意に携帯が鳴る。背面パネルの通知表示を見ると、美織からのメールだった。いつも夕方に届くはずだが、今はまだ昼を食べたばかり。訝しんで、携帯を開く。
『ゴメンね、仕事がヤバくて、しばらく帰れなさそう。ご飯は大丈夫です』
丁寧に泣き顔の絵文字までついている。心配になって、由樹はガチガチとメールを打ち始めた。
『帰ってこないってことですか』
『帰るのが0時とかになっちゃうってだけ! 徹夜とかはしないようにするから、安心してね』
『学年閉鎖になったので、ちょっと夜遅くなっても大丈夫です。嫌じゃないならご飯作ります。お仕事頑張ってください』
『ありがとう! 全然無理しないでね!』
日付が変わる頃など、美織は相当疲れて帰ってくるのではないだろうか。体も冷えてしまっているだろう。夜遅く帰って朝早く出るなら、疲れた体にするっと入るものがいい。例えば鍋——出汁も淡い味の、メインは鶏を、そうだ柚子とか——美織が苦労しているのは少々気の毒だが、彼女の立たされている状況を思えば、献立のアイデアも自然に湧いて出るのだった。
タオルで鍋を保温してしばらく放置していれば、ガチャリと玄関の開く音がした。時計を見ると、もう0時半だった。
「うう、さむ……ただいまあ」
「おかえりなさい。飯できてます、あと風呂も一応沸かしてます」
「ありがとうねえ。由樹くんはもう食べた?」
「まだです」
「そんな。お腹すいたでしょ? 早く食べよ」
自分のことだけ考えてくれればいいのに、こんな時まで人を気遣えるのか。由樹は配膳を済ませれば、美織が食べ始めるのを待ってから、自分もゆっくりと口にし始めた。
「仕事。……大変なんですね」
「うん、ちょっとね。一昨年は毎日これくらいの時間に帰ってたから慣れてるけど、久々にしっかり残業すると、いやあ堪えるよ」
「毎日……」
由樹は絶句してしまう。そして美織と初めて会った日を思い出す。インスタントや栄養ドリンクをレジ袋に大量に詰めて、美織は笑っていた。今も薄く笑みを浮かべているが、取り繕うような強張った笑みではなく、ただ緩んで安心しているような笑みだった。眠いのか、まばたきもいつもよりゆっくりだ。
「由樹くんが食事を作ってくれるようになってから、早く帰るようにしよう、って思うようになったんだ。ありがとね」
「……俺の方こそ。早く帰ってきてくれて、ありがとうございます」
本当の気持ちなのに、オウム返しのようになってしまう。由樹のためという建前であれ、これほど多忙な美織が、生活するための時間を優先してくれるのは嬉しかった。
仕事の愚痴を聞きながら食事を終えれば、美織は風呂へ入り、由樹は洗い物を済ませる。やがて食器をすべて水切りカゴへと掛け、ローテーブル前で携帯を見ていれば、ドライヤーの音がいくらか響き、私服の美織が脱衣所から出てくる。風呂上がりの美織を見るのはこれが初めてだった。
「まだいてくれたの?」
「ん……まあ」
単純に帰るタイミングを見失っていただけだ。あまりまじまじ見ないほうがいいか、と由樹は机の縁に視線をやって、帰り支度でもするかと立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ――」
「――もう遅いし、危ないよ?」
甘えるような声音だった。
献立のリクエストをするときと同じ、ゆっくりと、わずかに舌足らずな話し方。表情を見れば、胡乱な目が由樹を捉えていた。ただ心配されているだけだというのに、由樹の本能が危険だと叫んでいる。
「大丈夫ですよ。街灯も、携帯もあるんで」
「でも。……明日も休みなんでしょ? 外も寒いし……」
「大丈夫、大丈夫ですから」
「泊まっていきなよ」
聞きたくない言葉を言われてしまった。こういうときだけ察しが良くなる自分を恨んだ。さっきまで目を逸らしていたはずなのに、美織の目を見てからは、釘付けになって離せないでいた。
「駄目です。帰ります」
後頭部が煮えきって、良くない液体が吹き出してしまいそうだった。美織の願いは叶えられる範囲で聞いてきたし、できることは何でもしてあげたかったが、いよいよこればかりは断らざるを得ない。
だが由樹の必死の抵抗は、ただ一言で容易く手折られてしまう。
「……寂しいよ。由樹くん」
その瞬間、由樹は全身の緊張を抜かれ、その場に腰を下ろしてしまった。




