15 名付けと憧れ
恋愛に関する語のいずれもが遠く感じられたのに、魅了というその語だけが、由樹の実感を伴った。
思わず新たに立ち上げたブラウザで、その言葉の意味を調べる。
——人の心を圧倒し、離さないこと。
そこまでじゃない。普段どおり生活を続けられている。授業も、生徒会の活動も、余暇もそこそこに楽しめている。お互いの生活のためにあの人を支えているのだ。
——魔法にかけられたように心を奪われること。
魔法なんてあるわけない。劇的なイベントなんてなかった。いつもと自分は変わらない。ただあの人と生活の一部をともにするようになっただけだ。
——性的に強く惹きつけられること。
そんな風に考えたことなんて微塵もない。あの人もそのように自分を扱うはずがない。自分を盛った屑呼ばわりするな。
由樹は小さく呻き、うなだれる。辞書の喋る説明文など、いずれか適切な一項目だけを拾い上げればよいということは、とうに忘れていた。
読み下した全ての文章が由樹の醜さを引きずり出し、刺し、責め、抉り、追い立てた。どれだけ理性で否定しても、また如何ほどにその理屈が正しくても、自らの血肉が応えてしまう。
名前がつけられてしまった。
自身の心を理解してしまった。
ラベリングされた瞬間に、そのような振る舞いをしてしまった。直視してしまった情動に、由樹は耐えられずにいた。
「……違う、俺は……」
ただひとつ倫理的な救いだったのは、由樹はこれを恋と呼ばなかったことだ。しかしそれは、甘く淡い夢に溺れることなどできないという、たしかな宣告でもあった。
◇
以降、由樹はどうしようもなく美織を目で追ってしまうようになった。
食べるときの箸の持ち方、座り方。口に食事を運んだときの、美味しいと言いながら顔のほころぶ様子や、または好みでない味だったときに困ってしまう様子。血管が浮き始めた手の甲。ぱさついた髪の先。すっかり落ちてしまった化粧でさえも。
恋をすると世界が色づくというが、恋と名付けなかった由樹の視界は明らかに彩度が跳ね上がり、色相も歪み、明度も狂ってしまった。
それでも由樹はひとつも態度を変えなかった。距離を置くこともない。届かないものをわざわざ拒絶することもない。
眩しい憧れの中にある永遠に手に出来ない花に、なおも花弁を開き続ける花に水をやるように、変わらず食事を作り続けた。
いずれ冬が来て、寒さが厳しくなり、年の瀬が近くなる。終業式が目前となり、期末試験前にもかかわらず、クラスや生徒会内の話題は冬休みの予定で持ち切りだった。それは由樹も例外ではない。
曇りで少し暗い生徒会室で、由樹と海地はいつも通り昼食を取っていた。
「由樹くんは、年末年始の予定は?」
「ん、親が帰ってくるから一緒にいる。副会長は?」
「海地だからね。由樹くんを誘ってどこか行きたいなと思ったけど、予定があるなら仕方ない」
「別にお前、クラスの奴らと仲いいだろ。そいつらと行けばいいじゃん」
実際、海地はいわゆるカースト上位の人間たちとも仲が良かった。制服も着崩さず、校則をきっちり守るというのに、少しハメを外した人間ともうまくやれている。
「由樹くんと行きたいんだよ。僕の知る限り、最も気のおけない人が君だからね。嫌われないようにって、色々深読みしなくて済むんだ」
「……好かれようとしてんの? みんなから」
「そうかもね」
よくやるものだ、と由樹は感心した。由樹には絶対に真似出来ない。最悪、疎遠になるまで相手からの好意や悪意に気付けないままだろう。
海地はなるべくして副会長になった男だ。いずれ誰の反対もなく会長となるのだろう。約束された未来が少し見えた。
放課後、早めに生徒会が終わったので下校しようとすれば、亜里沙に呼び止められる。
「由樹! 一緒に帰ろっ」
「逆方向だろ」
「えへへっ。寄り道は女子高生のロマンなんだよ。近くにジューススタンドが出来たらしいから、行ってみない?」
「まあ、いいけど」
「やった! 由樹、大好きっ」
ガッツポーズをする亜里沙に、ふと疑問が湧いた。
「……どういう意味?」
「え?」
「好きなの? 俺のこと」
思ったことを口にすれば、亜里沙がぽかんとする。やがて失言に気づいたと言わんばかりに、顔を真っ赤にしてぶんぶんと手を振って焦る。
「違くて、その、お願い聞いてくれてありがと! って意味だからっ」
説明を受けた由樹は、ん、と喉奥で返事をしてそのまま歩き出した。
靴箱で靴を履き替え、校門を揃って出れば、周りの人間がすぐにいなくなる。学校から距離が離れていくたび、亜里沙の面持ちが真剣なものへと移り変わっていく。
「ね、由樹。……今月の24日とか25日とか、空いてたりしない?」
「親が帰ってくるんだよな。遊びの誘いならごめん、また今度で」
「そ、そっか。親御さんと居るんだもんね。ゆっくりしてね」
気まずそうに目を逸らす亜里沙に、由樹は一抹の罪悪感を抱く。タイミングが悪かったが、あまり落ち込んでほしくなかった。
「……電話とかメールでいいなら、夜できるかも」
「ほんと!? 電話、掛けていい?」
「ん、大丈夫。空けとく。——あ」
ぱっと笑う亜里沙を見て、由樹は安心する。携帯を開いて、カレンダーを見れば、〝クリスマス〟の文字が目に飛び込んできた。少しまずいかと思ったものの、一度した約束を取り下げる気も起きないでいた。




