12 痛みと痛くなる必要
美織を見送ってからというもの、由樹はさっきまで何を話していたのかよく覚えていない。
ただ視界に映していた、美織の唇や歯、舌先、鼻筋や瞳、眉——それらひとつひとつを覚えていた。
由樹の顔とパーツの数は同じ、恐らく殆どの身体特徴や内臓の数も位置も同じ。なのに全く違って見えるのは、由樹にとって歪な感覚だった。
彼女も生きていて、心の臓で血を巡らせて、生きるために食べて、寝ているのだ。
「……暑」
まだ二学期になったばかり。屋外はまだまだ夏を残している。行きたいところももうなく、人の目を盗み続ける行為にどっと疲れていたので、インカムを嵌め直して生徒会室へ戻ることにした。
「よす。由樹」
同じことを考えていたのか、伊知郎がすでに中に居た。インカムすら机に投げ出して、代わりと言わんばかりに袖からイヤホンを出していた。
「怒られるぞ。会長はお前と同類だろうけど、我らが副会長に」
「『伊知郎くん。生徒会なんだからしっかりしなよ』、って?」
「違う、こう——『全く。君は生徒会としての自覚があるのかい? 少なくともここで音楽なんて聴くものじゃないよ』」
「ワハハ、めっちゃ似てる! 最高!」
ガタガタと揺れる古い扇風機を浴びながら、その場にいない人間のモノマネをして、ダラダラと過ごす。その後もくだらない話をしていると、また新たに人影が見えた。
「ん、小浦場さん?」
「……少し、休ませて」
葉音だった。しかしひどく顔色が悪い。暑さによるものではない汗が流れているのがわかる。呼吸は浅く、ふらついている。
瞬間、葉音はガクンと膝をついた。
「小浦場さんっ!」
「おい、大丈夫か?」
「……痛い……」
片手で腹部を押さえながら、その場にうずくまる。
「こんな汚いところで休むなって。小浦場さん、もう少しだけ立てる? 保健室行こう」
「少し休めば大丈夫……だから」
ふるふると首を振る葉音を無視して、伊知郎はためらいなく彼女の空いていた片腕を取り、彼自身の肩に回させる。
その間、由樹は一歩も動けなかった。心配していないからではなく、女子の側に不用意に近づくことはない、まして本人が大丈夫と言うならば——その気持ちが一瞬の躊躇いを生んだのだ。
「ダメだ。横になろう。マジで歩けないなら担架呼んでくるから」
伊知郎は彼女を担ぐ姿勢を取る。流石にそこまで事を大きくしたくないのか、しぶしぶ葉音は伊知郎を頼って歩き出した。
「高津くん。……わたしの、カバンのポケット、痛み止めが……」
「ああ、探して持ってく。悪いけど漁る」
由樹は彼らを見送ることなく、葉音の鞄に飛びついた。
数錠分の銀シートを見つけられたので、彼女の水筒も持って遅れて保健室に入る。先生に一言断りを入れ、ベッドの内側を隠すカーテンを開けた。
「小浦場さん、体調……どう?」
「起きれる? 由樹が薬持ってきてくれたから飲も」
「……あり、がとう……」
心配そうに見つめる伊知郎の傍ら、葉音は顔をぐちゃぐちゃにして痛みに耐え続けていた。真っ白の枕が湿るほどに多量の汗をかいている。由樹は水筒のフタを開け、薬とともに手渡してやる。なんとかといった様子で、やや体を起こした葉音はそれを1錠飲み下した。あまりお茶で薬を飲むのは望ましくないが、仕方がない。葉音はすぐにどさりとシーツに倒れ込み、ふうふうと苦しそうに息を繰り返した。
「由樹。オレと小浦場さんが離脱するって伝えといてくれる? みんなに」
「伊知郎も?」
「ちょっとな、居てやりたい」
ふと伊知郎の右腕が目に映る。彼の手首から少し上のあたりを葉音が強く握り込んでいた。爪を立てられているまであるかもしれない。しかし伊知郎はそれを振りほどくことなく、ただ受け入れていた。
「……わかった。けどインカムだけは付けとけ、持ってくるから。それくらいサボんな」
「ハハ、バレたか」
葉音もあまりこんなところを見られたくないだろう、と察して、由樹はもっともらしい理由でここを離れることにした。ベッドのカーテンを閉める直前、伊知郎にこう言い残した。
「あんま、その。痛いならそれ解いて、布団掴ませとけよ」
「大丈夫。オレより小浦場さんのがずっと痛いだろ」
「……小浦場さんが痛いからって、お前まで痛くなる必要はない」
由樹の言葉を受けて、伊知郎は少し困ったように視線を彷徨わせる。彼らしくなく、どことなく影のある表情だった。それから彼はフッと力なく笑んだ。
「でも、オレはこうしてやりたいんだ」




