10 知らない敬語とよく知る顔
「高校に来るなんて何年ぶりだろう。っていうか、通ってない高校に行くのが初めてかも? 入ったことなんてない場所なのに、懐かしい気持ちになるね」
職員玄関で来賓用スリッパを借りた美織は、首がちぎれんばかりに辺りを見渡した。由樹にとって日常の光景だったが、美織が何年前に高校を卒業したのか考えると、なるほど確かに見ていて面白いだろうと納得する。
面談時間に余裕があったので、美織を連れてのんびりと教室へ向かう。彼女は掲示板の前を通るたび、廊下に置き去りにされた椅子を見るたび、また古びたお手洗いの前を通るたび、その足を止めては由樹に話しかけた。
「由樹くんは、いつもここに通ってるんだねえ」
なんと返事すべきか悩んで、ん、とだけ喉奥を鳴らした。授業は昼で終わって誰も居ないのに、楽しげな美織を見ていると、どことなく賑やかな廊下に感じられる。
やがて時間が経ち、面談の時間になる。前の順のクラスメイトが教室から出てきたので、軽く会釈して入れ替わる。
「高津です。宜しくお願いします」
「再従兄弟の大沢美織です。本日は宜しくお願いいたします」
どうぞ、と担任は二人に着席を促す。いつも家でゆるゆると過ごしていた美織が、この瞬間から突然凛として見えた。きっと職場の彼女はいつもこんな様子なのだろう。
とはいえ一年生の面談で話すことなど、大した中身はない。中間考査までの成績や、普段の学校の様子などについて、当たり障りのない話がされるだけだ。
「――ということで、彼はいつも真面目に提出物も出しますし、遅刻や欠席も少ないですから、このまま。少し化学が弱いですが、それくらいですかね」
「ありがとうございます。彼の母へ申し伝えます」
淀みなく紡がれる敬語に、由樹は横でおずおずと会釈するしかできない。
「ところで。お母様かお父様、来年度には戻られるんですかね?」
「さあ……どうにも、ハイとは言えないのが正直なところです。もし彼の母へ急ぎ伝えることがあるのでしたら、ここで電話を掛けましょうか」
「特には無いんですが、ご両親にお話したという記録を残したいのは事実ですね……数分でも、繋いでもらえますか?」
わかりました、と美織が言い、由樹に視線を寄越す。
「由樹くん、おばさんに電話してくれる?」
「えっ」
「携帯持ってるんじゃ――」
「持ってないです、不要物なので」
嘘だ。
毎日のように持ってきていた。もちろん今も右ポケットに入っている。美織や母からの連絡を逃さないためにしか持ち歩いていないので、普段むやみやたらに開くことはないが。
「……高津。持ち物検査のとき、いつも靴下の中に入れていただろ。素行が良いから黙っていたが」
その一言を聞いて、由樹はしぶしぶポケットから携帯を取り出した。バレていた悔しさと見逃してくれていた有難さで、無意識に口をきゅっと結んでしまった。
「結局、おばさん出なかったねえ」
数度由樹が電話を掛けても、結局母が電話を取ることはなかった。
教室を出た途端、美織は由樹のよく知る美織になった。ふわふわと笑って、目を離すとどこかへ行ってしまいそうな、いつもの美織だ。
「教室、いっぱいロッカーの上に物が積まれてたけど、あれは何かに使うの?」
「ん、文化祭が近くて」
おおっ、と美織が目を輝かせた。目に見えてテンションが上がっているのがわかる。
「そんなのあったね! いやあ、青春って感じだ。私の高校時代は一学期にやってたからなあ、クラス替えの直後だよ? もうそれはそれはバタバタで――」
身振り手振りを用いて、当時の思い出を教えてくれる。由樹はそれを黙って聞いていた。美織もかつては自分たちと同じように、制服を着て、授業を受けて、部活へ行って――そんな生活をしていたのだろう。
「由樹くんのクラスは何かするの?」
「一年はみんな教室展示。うちはトリックアートみたいなやつ。三年が模擬店か演劇か選べて、二年はそれの余った枠です。一年は皆、地味だからやる気なさそうにしてます」
「じゃあ、遊び回れるじゃない」
「逆に一年生なのをいいことに、文化部とかの人はめっちゃ手伝いに出るらしいですね。……俺ら生徒会も走り回ってるだろうな」
美化委員長としての由樹は、当日に専任でやることと言えば校内のゴミ処理くらいしかない。とはいえ人手として、演劇ステージの運営業務や父兄・来賓の対応などをすることとなっている。そのことを伝えると、すこし残念そうな顔をされた。
「いいなあ。行ってみたい。でも由樹くんと会えないんじゃなあ」
「……来ますか? 時間、作ります」
「いいの?」
無言で頷けば、美織は今日一番の笑顔を見せた。




