第32話 「謁見」
案の定その日の午後に、祐筆が本丸まで出向いて、忠邦は西の丸に呼び出された。
すでに大御所となった家斉が御簾の中にいる。
そして側に侍らせているのは、間部と意留だった。
忠邦に苦い記憶が甦る。
この雁の間風情、あとで調べたら家斉公の最側近だった若年寄・田沼意正の嫡男というではないか。
大方後釜を狙っておるのだろう。
「首座殿。公務にご多忙なところ、ご足労頂き恐縮です」
西の丸老中は格で言えば忠邦の首座よりは下がるため間部は慇懃な挨拶をし、それから先程遠山から聞いた話を改めて説明した。
「首座殿はどう思われますか?」
「真贋のほどが測りかねますゆえ」
「ごもっとも。ゆえにその者を町奉行に紹介した田沼意留も同席させ、仔細確認してみました」
傍らで低頭する意留をしゃくって示した。
「その者は田沼の遠縁に当たる旗本で、男谷と申すなかなかの若武者。されば、信用に値すると僭越ながら申し上げます」
意留の釈明を聞いても、先入観を持つ忠邦は拒絶反応を禁じ得ない。
この男、また何かを企んでおるのではないか?
「ただこの若武者、旗本とはいえ未だ二十人扶持。此度突飛な行動をとったのも、おそらくは出世のための先走った所業。でき得れば、公方様の前で逆賊の首をご披露したい、などと申しておりまする」
なんと。
家慶様の前に、大塩の首を差し出すと言うか。
忠邦の警戒心が頭をもたげた。
「面白い!家慶ではなく、余が会おう」
忠邦のみならず間部までが驚いて、御簾を窺った。
「お、恐れながら」と、忠邦が口をはさむ。
「おんや。お主は反対か? 余がお主の頭越しに若年寄や雁の間の者らを重用するのが、そんなに気に食わぬかな? 老中首座どのは」」
「いえ、滅相も。ただなにぶんにも真贋の程が……」
「だから、その真贋をはかればよかろう?首実検となれば大塩を知る者が要るな。お主の弟の跡部何某とやらも同席させよ。忘れもせぬ顔のはずじゃからな」
まさかとは思うが倹約令の件を未だに根に持って、私に恥をかかせたいだけの茶番劇なのではあるまいか?
だが、と忠邦は思い直した。
突然の提案だが、現将軍の家慶に引き合わせるよりはよいのかもしれない。
私の後見人を厄介事に巻き込むぐらいなら、大御所に言い出しっぺの責任をとってもらおう。
不祥事が起きても困るのは間部、そしてこの腰巾着の田沼なのだから。
「御意」
あの日以来忠邦は、この老人に逆らうことをやめた。
本人の言う通り、大御所が薨ってから己の政を全うしようと決めた。
さすがにあと十年も生き長らえることはあるまい。
後日、カイは田沼意留とともに登城した。
異例の謁見だった。
意留の後見があったとはいえ、一介の旗本(詐称)でしかないカイが本丸の表御殿で実質トップの大御所に謁見することになったのだ。
表は本来将軍が居住する御殿である。
大御所の要件は西の丸で済ませるはずだが、ここでも家斉はゴリ押しをした。
どちらが真の江戸城の主か、幕閣どもにいま一度教えてやろうというわけだ。
控室として通されたのは、意留が普段務めを果たす雁の間だった。
傍らの風呂敷に包まれた大きな甕には、大塩平八郎の首が入っている。
カイ自身は、大紋付きの殿中礼装を誂えさせられた。
紋付はぶかぶかだし、異様に長い裾が邪魔くさいのなんの。
(だけど、いろいろ隠せるから好都合かもな)
隠したいもの……例えばこの右手。
今のカイの右手は、職人に作らせた木製の義手である。
隻手というのは印象に残りやすい。
万が一にもカイが叛乱に参加したあの短筒撃ちだと悟られぬように、と意留の意見を容れたのだ。
「家譜を調達しておいた。お主は旗本小普請役の長男ということになっておる」
ずっと保護者のように付き添っていた意留が、巻物にしたためられた家譜をカイに見せる。
なんか色々ややこしいことが書かれてるけど、どうやら俺の名は「男谷義邦」ということになっているらしい。
しっかり覚えておかなきゃな。
「私ができるのは、ここまでだ」
「十分だよ。ありがとう。兄上」
カイは微笑んで感謝の意を表した。
言われた意留は急に照れ臭くなる。
「兄上、などと……こやつ。なんのつもりだ」
「いや。あの人に代わって言ったんだよ」
意留が少しだけ寂しそうな顔になると、仕えの者がすうっと襖を開けた。
「お改めをさせていただきたく」
奏者番と呼ばれる礼式を司る者ふたりが、カイの身体検査をしていく。
「ご無礼つかまつる」
カイはせっかく着込んだ礼服を脱がされ、全身そして褌の中までも念入りに検査された。
当然寸鉄も帯びていないことが確認された。
赤穂事件以来、殿中では刀剣はおろか釘一本持ち込んでもお家取り潰しだ。
「さて、これは?」
心配していた義手を見咎められた。
すかさず意留が口をはさむ。
「この者、生まれついての隻手にて。しかしながら大御所様のお目を穢してはなるまいと、それがしが用意した義手でござる」
ふたりの奏者番が顔を見合わせる。
大御所に対する配慮、と家斉の側近に言われては了解せざるを得ない。
ふたりはウムと頷き合う。
「されば、お導き申し上げまする」
つづく




