第18話 「始まり」
天保八年二月十九日。西暦に直せば、1837年3月25日午前7時。
まず、平八郎は集まった塾生らの前で自ら邸に火矢を放った。
早朝の大坂の空に黒炎が立ち上る。
燃え始める建物を塾生たちは唖然として見守り、そのうちのひとりが言った。
「先生。何もここまでなさらずとも」
「これはな、退路を断ついうことや。もうわしらに戻る場所なぞない、いうこっちゃ」
平八郎は毅然として松明の火を思い出深いわが家に投げ込んでいった。
狂気を覗かせた平八郎について行くのは、塾生や元同僚が中心の二十五名だった。
大塩邸が完全に焼け落ちた頃、平八郎は武者震いする一党に向かって宣言した。
「これよりわれらは、御政道を正すために決起する。旗頭は、これや!」
美吉屋五郎兵衛が染め上げた「救民」の幟を、格之助が掲げた。
「えい、えい、おお!」
総員が大音声で鬨を上げた。
(始まるんだ。カクメイが)
カイもまた身震いしながら声を上げた。
祭りの始まりのような喧噪の中、平八郎の側に大井正一郎がすり寄る。
「先生。宇津木は、私の手で始末しておきました」
そう囁きかけたのだ。
ぎょっとして大井を見ると、気が利くでしょう?と言わんばかりにニコニコ笑っている。
「あのような日和見がいては、士気に関わりますからな」
刀についた血脂を見せる。
誰もそんなことは頼んでいない。
宇津木は医者だ。
軍医として帯同してもらわねばならない人材だった。
だが、今ここで大井を叱責してはそれこそ全体の士気に関わるだろう。
平八郎は忸怩たる気持ちを押し殺して「うむ」とだけ答えた。
先行き不安な船出なのかもしれない。
果たして自分は彼らを制御できるのか?
午前九時。
一党二十五名が行列をなし、天満橋を渡った。
町人たちが興味津々とその列を見物した。
先頭にはあの大塩平八郎がいる。
中盤に鉄砲を肩に担いだ門下生たち。
さらに後段には大砲四門(銅製大筒二門、木筒二門)と指揮官・格之助の姿があった。
このときの風景は後に絵画に描かれ「出潮引汐奸賊聞集記」の挿絵に使われている。
歴史の教科書で見かけるあの絵だ。
この絵を見る限り、四百以上あるという砲術流派の中で、彼らが習得していたのは中島流と思われる。
というのも、重火器として「木筒」を装備していたからだ。
これは丸太を二つに割って中をくり抜いた砲身を、縄でグルグル巻きにして架車に固定するという一見して原始的なものだった。
大砲というよりは、花火を上げる時に使う大筒に近い。
当然金属製の炸裂弾などは発射できず、炮烙という火薬の玉を目標に打ち込む。
謂わば、特大の火矢と考えた方がよい。
木製なので炮烙を四、五発も撃てば使用不能となる使い捨ての重火器だ。
その頃大坂近隣の田畑には、農民たちが空腹を抱えしゃがみ込んでいた。
彼らはこの数か月、草や虫を食べて飢えを凌いでいた。
そんな彼らがふと見上げると、天満方向から煙が昇っている。
「あ。あれ」
大塩様の跡取りがいつか話していたことを思い出し、誰かが檄文を取り出した。
「合図や。大塩様がとうとうやらはったんや」
「確か、米を取りに来い言うてたな」
わしら百姓風情が行ったところで足手まといになるだけ、というためらいがある。
だが、ここでこうしていても食い物が降ってくるわけでもない。
「みんな、行こうで」
大塩一党が難波橋を渡り北船場に向かう頃には、駆けつけた農民たちも加わり、七十名になっていた。
北船場での標的は鴻池屋本店である。
一党が隊列を組んだ。
細筒や大筒を組み合わせた砲術隊、そしてその後方に白兵を並べるという布陣だった。
隊列が整うのを確認した平八郎が、砲術隊の前に出た。
「これより戦闘態勢に入る。一同、気を引き締めよ」
平八郎は太く重い声でそう宣言してから、大店に向き直った。
「鴻池屋善右衛門! 出て参れ!」
しかし、建物の中からは何の音沙汰もない。
「また居留守か? ほんなら、こっちから行くで!」
平八郎の合図で、先鋒の数名が細筒を構える。
砲術隊の指揮は格之助が執っている。
「目標、正面の鴻池屋本店。細筒、構えい」
この半年、表向きには百姓一揆の鎮圧に備えるという名目で塾生たちは訓練してきていた。
だが、これは訓練ではないし標的は百姓ではなく悪徳豪商である。
総員にピリッとした緊張が走った。
「射!」
格之助の号令とともに、大店の門に向けて一斉射撃が始まった。
達筆で描かれた鴻池屋の看板が蜂の巣になった。
けたたましい銃声の後、反動のような静寂がしばらく広がった。
ゴトン。
看板が地に落ちるのをきっかけに野次馬たちから歓声が湧き上がった。
「天誅! 天誅やあ!」
間違いなく大きなことが起きる。
もしかすると天下がひっくり返るような何かが……彼らは確信した。
やがて鴻池屋の奥の本屋から、奉公人たちが飛び出して来た。
銃撃されるとまで思っていなかった彼らは思わぬ展開に大慌てだ。
しかし、飛び出してきた集団の中に善右衛門の姿はなかった。
「商人衆。よう聞け。お主らの主人・鴻池善右衛門は米を買い占めて値を吊り上げ、飢え死にする者を横目に暴利を貪る悪徳商人や」
つづく




