第52話 海の向こうの決断
イタリア・トリノ。
歴史ある街の一角に建つユヴェントスのクラブ事務所。
机の上には、一通の航空便が置かれていた。
差出人は日本。
『読んだか?』
初老の職員ラウロが封筒を指差した。
『もちろん』
向かいの若い男性ブルーノが苦笑する。
『どう思った?』
『明日からでも社長秘書として採用したい』
部屋に笑いが起きる。
『相手は十一歳の女の子だぞ』
『だから困るんだ』
男は肩をすくめた。
『これだけの文章を書ける大人を、この街でもそうそう見たことがない。論理的で、礼儀正しく、それでいて押しつけがましくない』
さらに一枚めくる。
『自分たちの売り込みだけじゃない』
そこには、日本市場の将来性。
日本企業の成長。
これからサッカーが発展する可能性。
ユヴェントスが先行して関係を築く価値。
そんな内容まで丁寧に書かれていた。
『十一歳が考える内容じゃないな』
『まったくだ』
男は笑う。
『で、どうするんだ?』
『今日の定例会議に議題として追加しておいた。それ次第だな』
◇
ユヴェントス定例会議。
『……問題は前例がないことです。外国人の子どもを受け入れた例はありません』
役員の一人が腕を組んだ。
『セリエAは外国人登録が認められていない』
別の役員も続ける。
『もちろん、ユースも外国人はいません』
室内が静かになる。
『規則はどうなっている?』
オーナーが口を開いた。
『確認しました』
法務担当が資料をめくる。
『外国人登録を禁止しているのはセリエAです。ユースやジュニアについては規定がありません』
『つまり、規則違反ではない?』
『はい、連盟事務局にも確認済みです』
それでも空気は重かった。
『前例がない以上、反発はあるでしょう』
『市民たちも外国人を受け入れるかどうか不透明です』
慎重論が次々と出る。
その様子を見ていたオーナーが静かに言った。
『だから何だ』
一同が視線を向けた。
『私は日本人という民族を高く評価している』
少し間を置く。
『先の戦争ではイタリア同様に敗戦国となった。しかし、その後の復興を見れば分かる。勤勉で、約束を守り、仕事に誇りを持つ』
役員たちは黙って聞いていた。
『わが国とも縁が深い』
三国同盟。
口には出さなかったが、その場にいる誰もが何を指しているのか理解していた。
『私は、日本人だからこそ一度会ってみたい』
慎重派の一人が口を開く。
『しかし、オーナー。前例を作るということは……』
『前例は、誰かが最初の一人にならなければ永遠に生まれない』
オーナーは言葉を続ける。
『世界の流れを見れば、いつまでも閉ざされた制度は続かない』
だが、その一言で会議室の空気が変わる。
『まずは試してみるのもいいかもしれませんね』
『輝くものをもってなければ帰国してもらえばいい』
『見てもいないものを判断するのは早計というものでしたな』
会議の流れは好意的なものに変わっていった
◇
『ゴーサインか』
『鶴の一声ってやつらしいよ』
ラウロのつぶやきにブルーノが答える。
『例のジュニア育成計画の発表は今週末だったな?』
『予定通りです』
ブルーノは静かに頷いた。
『なら』
手紙を見つめる。
『返事はお前にまかせるぞ』
『一つだけ気になることがあります』
『何だ?』
『この少女のイタリア語です』
流暢だった。
文法も美しい。
それだけではない。
『少しだけこのあたりの言い回しが混じっています』
『トリノか』
『ええ』
ブルーノは少し笑う。
『それだけなら珍しくありません』
だが。
『時々、不思議な表現が出てくるんです』
『例えば?』
『昔、叔父が使っていた言い回しです』
叔父はもう亡くなった。
職業も詳しくは知らない。
ただ。
夜になると黒い車で迎えが来るような人だった。
『あれは……一般家庭ではまず使いません』
『どこで覚えた?』
『さあ』
ブルーノは肩をすくめる。
『きっと映画か、小説でしょう』
そう結論づけると、誰もそれ以上は気にしなかった。
やがて一通の返事が封筒へ収められる。
宛先は、日本。
この時、彼らはまだ知らない。
その一通の手紙が、二人の運命を大きく変えることになることを。
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