第2話 熱田の依頼
金曜日の朝、まだ「消火器の子」になる前に、雲野晴は二年B組の「おはよう」をストップウォッチで計っていた。
挨拶、二十三回。平均一・四秒。
週末をかけて、自分の挨拶もきっかりその長さにすると決めた。普通の生徒は、一・四秒でおはようと言う。
普通の生徒は挨拶の長さなど計らない。だが、その点は彼の頭から抜け落ちていた。
月曜日、午前八時二十五分。恋塚律はもう席に着き、生徒手帳を開いていた。
晴は鞄を置き、頭の中で数えた。
「おはよう。今日も、差し出すものはない」
一・四秒。完璧だ。
ただし二文目は別だった。誰にも頼まれていないのに、しゃっくりのように勝手に出てきた。
恋塚律が、手帳から目を上げた。
今日。差し出す。
丸二日、心の中で意気地なしと呼び続けてきた。なのにその意気地なしは、この週末、勇気を溜めていたのだ。差し出すものはないと言いながら、その声は、何もかも抱えている人の声だった。
(今日が、その日)
彼女は丁寧に生徒手帳を閉じた。
「おはようございます、雲野くん。予報では、今日の日の入りは十八時十六分だそうです。それまで、まる一日ありますね」
晴はゆっくりと腰をおろした。
(十八時十六分。彼女が見張る旧校舎。それまで、まる一日ある)
期限。天気予報つきの最後通告だ。
前の席の恋塚律は生徒手帳に戻り、もう三十秒も目次を読んでいた。
一時間目は数学だった。
晴はノートの新しいページを開き、いちばん上に『敵情観察』と書いた。
鍵は、そこにあった。制服の襟の下に消えていく細い紐。後ろからしか見えない。彼の席からは、とてもよく見えた。
二十分後、ノートには三行が並んでいた。
『数学の授業中、鍵に触れた回数 0』
『先生、木曜のテストを予告 0』
『女子二人、三年の男子の話 4』
晴は眉をひそめた。
(恋愛の話に反応している。市場を監視しているんだ)
真ん中の列で、金曜日に手紙を没収された男子が、隣の席の友人を肘でつついた。
「おい、雲野見てみろよ」
「雲野がどうしたって?」
「二十分も委員長のうなじを見ながら、ノートに何か書いてる」
意味ありげな間。
「……詩だ」
「マジで?」
「税関にもファンがいるんだな」
噂は四つ折りの手紙に乗って教室を横断し、誰にも没収されなかった。回ってこなかったのは、クラスで委員長ひとりだけだった。
休み時間、恋塚律は立ちあがってクラスのほうを向いた。だが、その目はいちばん後ろの列で止まった。
「皆さんにお知らせです。本日の昼休み、私は委員長の業務で職員室にいます。その間、旧校舎は一切の監視がありません。一切、ありません」
後ろのほうで、誰かが手を挙げた。
「なんでそれを俺らに言うの?」
「透明性のためです」
彼女は着席した。
晴はノートに『旧校舎に行かない』と書き、下線を二本引いた。
(遠くにいると言って、俺を行かせる気だ。そして、どこかのドアの陰で待ってる)
恋塚律は水筒に水を汲みに出た。教室の入口で、女子が二人、声をひそめて話していた。
「雲野くんって、委員長のこと好きらしいよ」
「雲野くん? あの誰とも喋らない?」
「今朝、委員長におはようって言ったんだって」
「……じゃあ、本当なんだ」
恋塚律は何も聞こえなかったかのように、水飲み場まで歩き続けた。
(彼の手紙は……)
(……私宛て?)
水筒から水があふれて、手を濡らした。
(ありえない)
(第零条)
席に戻り、背筋を伸ばして座る。手が勝手に、襟もとへ上がっていった。
その後ろで、雲野晴はノートに一行書き足した。
『理由不明 5』
♡
そのカラオケ店は、川越駅から歩いて三分、階段に揚げ物の匂いがこもる雑居ビルの二階にあった。
七号室。いつも七号室だ。
この十一か月、雲野晴と円山満は週に三回、ここに集まっていた。マイクは今もビニールに包まれたままだ。
画面の中では、アイドルグループが音もなく踊っていた。
満はメニューの半分を注文していた。フライドポテトを一本ずつ口に運ぶ。生まれてこのかた急いだことがなく、今さら急ぐつもりもない人間の落ち着きで。
「新しい証拠、あるんだ」
スマホをくるりと回す。ひまわり畑で、麦わら帽子の女の子が笑っていた。
「その写真、透かしが入ってるぞ」
「彼女の作風なんだよ」
ふたりが知り合ってからずっと、満の彼女は他校の生徒で、光の加減が完璧すぎる写真の中にしか存在しなかった。
満はポテトを一本、皿に置いた。
「委員長のこと好きって、本当?」
晴は固まった。
(こいつのクラスまで届いたのか。七時間で)
否定するには、なぜ数学の授業中ずっと彼女のうなじを見ていたのかを説明しなければならない。それを説明するには、鍵のことも、四十四番の下駄箱のことも、赤い封蝋のことも話さなければならない。
そんなことを、誰に話すつもりもなかった。ただひとりの友達にも。
「……複雑なんだ」
世界中のラブコメにおいて、「複雑なんだ」はイエスを意味する。
満はそれを知っていた。ラブコメはたくさん観てきた。
「まあまあ」ポテトをまたつまむ。「やっとかあ」
テーブルの上で、晴のスマホが震えた。
矢のないキューピッド宛てのDM。手書きの手紙の写真だった。大きな字が、紙を破りそうな筆圧で書かれている。
満が腕を伸ばしてスマホを取り、口いっぱいに頬張ったまま読みあげた。
「この熱田正義、二年D組、剣道部二段、血液型A型、ここに匿名の助言を願い出る次第であります」
「匿名」と、晴が繰り返した。
「二年C組に、ひとりの女子がいる。彼女こそ、我が一石二鳥! 四月より、我が心は四面楚歌! 剣士の誇りにかけて告白したい。いかにすべきか!」
満はごくりと飲みこんだ。
「追伸もあるよ」
「読め」
「追伸。同じ手紙を四十四番の下駄箱にも送った。良き助言が勝たんことを」
画面の中で、アイドルたちが音もなく跳ねていた。
晴は写真を見つめた。この手紙が一字一句そのまま、今この瞬間、四十四番の下駄箱の中にある。二日のうちに、恋塚律が首から下げた鍵で、それを開けるのだ。
敵の郵便物が、この手の中にある。
「きれいな場所に行かせるはずだ」満にというより、自分に向けた言葉だった。「正確な時刻に。暗記した台詞を持たせて」
「どうしてわかるの?」
「統計だ」
満のポテトが、口へ向かう途中で止まった。
「なんで誰も、その子に彼のこと好きかどうか訊かないの?」
「それは方法じゃない。ただの質問だ」
「ふうん」満はしばらく考えた。「それって、だめなの?」
晴には答えがなかった。だから攻撃した。
「お前の彼女は実在しない」
「いるよ。埼玉の子なんだ」
「俺たちも埼玉に住んでる」
満は最後のポテトを口に入れた。
「……もう片方の埼玉」
♡
木曜日、午前七時四十分。氷川神社。
縁結び玉を待つ列は、すでに玉砂利の境内をぐるりと一周していた。一日二十個、配られるのは八時から。二十一番目に並んだ者は、信仰だけを抱えて家に帰ることになる。
マスク程度では、変装にならない。列の半分がつけているのだから。
恋塚律は、さらに先を行っていた。
つばの広い帽子。サングラス。首には父親のカメラ。英語の川越ガイドブックを、適当なページで開いている。どこから見ても外国人観光客であり、今朝六時五十分から、日本語をひと言も知らなかった。
熱田への返事は、もう書いてある。足りないのは、石ひとつだ。
前に並ぶ人数を数えた。
二十人。
彼女は二十一番目だった。
(……)
すぐ前の女性も、つばの広い帽子にサングラス、英語の市内地図という格好だった。肩には布のトートバッグ。そこから、紙の束がのぞいている。
『数学テスト 二年B組』
恋塚律は首を痛めそうな勢いで目をそらした。
(何も見てない)
(問三を見た)
その同じ一瞬に、結城待子先生は肩越しに振り返り、背後に、川越でいちばん背筋の伸びた観光客を見た。
あんな姿勢で列に並ぶ人間は、この街にひとりしかいない。
ふたりとも気づいた。そしてふたりとも、気づかなかったことにした。
先生は国際的な笑みを浮かべて向き直った。
「エクスキューズ、ミー。ユー……ツーリスト?」
「イエス。ベリー、ツーリスト」
「ミー、トゥー」
「フロム、ウェア?」
「フロム……ファー」
「ウィッチ、ファー?」
先生は大陸を探すように空を見あげた。
「……ユーロップ」
「オー。ミー、トゥー」律は戦略的な間を置いた。「ウィッチ、ユーロップ?」
「ザ、ビッグ、ワン」
先生は帽子を直し、反撃に出た。
「ユー、ウォント、ザ、ストーン? フォー……ラブ?」
「ノー。フォー、カルチャー」
「ミー、トゥー。ベリー、カルチャー」
八時ちょうど、授与所から巫女がひとり、木箱を抱えて出てきた。列が進む。箱の中の石が、ひとつ、またひとつと減っていった。
「残り二つでーす!」
ふたりの外国人観光客は、同時に日本語を理解し、完璧にそろって身を震わせた。
先生のひとつ前の女性が、最後から二つ目を受け取った。
先生が受付にたどり着いた。巫女が、網に包まれた最後の石を手のひらにのせて差し出す。
先生は受け取らなかった。振り向いた。
「アフター、ユー」
「ノー、ノー。アフター、ユー」
「プリーズ」
「プリーズ、プリーズ」
お辞儀はどんどん深くなった。三度目で、二つの帽子のつばが触れ合った。巫女は石を差し出したまま、ますます営業用になっていく笑顔で待っていた。
腰を折ったまま、先生が小声で訊いた。
「フォー、フー? ザ、ストーン」
律は考えるより先に答えていた。
「フォー……マイ、フレンド」
先生は体を起こした。石を見た。サングラスが目を隠していた。口もとは、隠れていなかった。
「プリーズ。フォー、ユア、フレンド」一歩下がる。「アイ……ハブ、タイム」
恋塚律は両手で石を受け取り、人生でいちばん深いお辞儀をした。
先生は地図を手に、鳥居のほうへ去っていった。地図は逆さまだった。
♡
午前八時二十九分。ふたりの人間が、別々の門から、帽子なしで学校に駆けこんだ。
一時間目、結城先生は髪にサングラスを挿したまま、数学のテストを配った。
クラスの誰も、何も訊かなかった。
先生の目と委員長の目が、〇・五秒だけ合った。どちらも何も言わなかった。その日も、そのあとも、ずっと。
恋塚律は、問三を白紙で出した。
信条として。
♡
放送室は三階にあった。音楽室と掃除用具入れのあいだだ。
恋塚律は毎日そこで昼食をとっている。校内でただひとつの静かな場所だった。十二時四十分から十三時十分までを除いて。
「全校のみんなー、こんにちは! ランチラジオ、一日でいちばんアツい時間だよ!」
音無すずは、蜂蜜色の短い髪をサイドテールにまとめ、首にヘッドホンを掛けていた。興奮すると八重歯がのぞく。つまり、いつものぞいている。なぜこの子の名字が音無なのか、学校の誰にも説明できなかった。
彼女の後ろのホワイトボードに、スコアが書かれていた。
『四十四番の下駄箱 12対11 矢のないキューピッド』
律は弁当箱を開け、三十分間、透明人間になる準備をした。
ドアが、派手な音を立てて開いた。
筆で描いたような眉の、背の高い男子が、竹刀を肩に担いで入ってきた。
「二年D組、熱田正義! 放送時間を要求する!」
すずは迷いもしなかった。マイクを彼のほうへ押しやった。
「全校に告ぐ!」その声に、放送室のガラスが震えた。「俺は四十四番の下駄箱と、矢のないキューピッドに手紙を書いた! 下駄箱からは、もう返事が来た! キューピッドからは、まだだ! 俺の恋は、自業自得だ!」
「さあ、みなさん!」すずが椅子から立ちあがった。「決闘です! 春の決闘だーっ!」
「そして、彼女の名は……」
熱田がそう言いかけたところで、律はミュートボタンを押した。
ON AIRの赤いランプが消えた。
「第九条。校内放送における個人情報の公開を禁ずる」
ご飯を頬張ったまま、弁当箱から目も上げずに言った。
「検閲だーっ!」すずは、もう何も流れていないマイクに向かって叫んだ。「ランチラジオに検閲です!」
熱田は床につくほど頭を下げた。
「委員長の言うとおりだ。彼女の名は神聖である」
そして、入ってきたときと同じように、ドアを叩きつけて出ていった。
すずが音声を戻した。目が輝いている。マイクを弁当箱のほうへ向けた。
「本日はスタジオに、二年B組の委員長、恋愛の公式な敵をお迎えしております! 四十四番の下駄箱について、ひとことどうぞ!」
律は箸を置いた。
校内のすべての教室で、五百人の生徒が、彼女の喉がごくりと鳴る音を聞いた。
「四十四番の下駄箱は、校内の秩序に対する脅威です」
「正体がわかったら?」
「没収します」
「聞いたか全校生徒! 委員長が伝説を没収するぞーっ!」
律はふたたび箸を取った。たった今、生放送で、自分で自分を没収すると約束したところだった。
休憩の音楽が流れはじめた。放送は切れていた。
すずは椅子にもたれ、満足げな顔をした。
「ねえ、知ってる? 雲野が、律に詩を書いてるんだって」
「噂なら、いくらでもあります」
「調べてあげよっか?」
「結構です」
答えは、質問が終わる前に返ってきた。
♡
午後四時二十分、職員室には温め直したコーヒーの匂いが漂っていた。
結城先生は数学のテストを採点していた。ちょうど、問三が白紙の一枚にたどり着いたところだった。ほかの欄の字は、とてもまっすぐだった。
顔を上げると、その字の持ち主が目の前に立っていた。
「先生。屋上の鍵をお借りしたいです。委員長の自主的な取り組みとして、フェンスの安全点検を行います」
「いつ?」
「明日の、夕方です」
「日の入りのころ?」
「光の条件が、より……規則に適っていますので」
先生は赤ペンを置き、指を折って数えた。
「屋上。日の入り。金曜日」
「暦の偶然です」
三十四歳。婚活の食事会を数えきれないほど重ねた結城先生は、百メートル先の恋の匂いでも嗅ぎ分けられた。これは五十センチ先にあった。
「屋上がどうして閉鎖されてるか、知ってる?」
「例の事件のせいです」
「どんな事件?」
「誰も知りません」
「でしょうね」先生は、適当な書類に判を押した。「私、そのときここにいたの」
律は続きを待った。だが、続きはなかった。
委員長の目が、勝手に先生の頭のてっぺんへと上がった。
サングラスが、まだそこにあった。髪に挿したまま。一日じゅう、そこにあったのだ。三つの授業でも、教科会議でも、コーヒーの列でも。
先生はその視線を追った。頭に手をやる。サングラスを外し、上の引き出しに、ゆっくりとしまった。
下の引き出しを開け、机の上に鍵を一本置いた。
「月曜に返してね」
♡
木曜日、十二時四十分。放送と同じ時刻、購買の列。
焼きそばパン三十個に対して、生徒は五百人。
雲野晴は列の真ん中で、サッカー部の五人に囲まれていた。いちばん小柄な部員でも、百八十センチある。晴に見えるのは、彼らの背中と肘、そしてはるか遠くの天井だけだった。
何も聞こえなかった。
彼のイヤホンにはノイズキャンセリングがついている。音楽を流さなければ、聴くためのものではない。静けさを作るためのものだ。そして晴は、この一年、その中で暮らしてきた。
ピッ、と音がした。
バッテリー切れ。
世界が、一度に流れこんできた。
叫び声、足音、床を転がる空き缶。そしてそれらすべての上に、天井のスピーカーから、ランチラジオ。
「……正体がわかったら?」
「没収します」
「聞いたか全校生徒! 委員長が伝説を没収するぞーっ!」
晴は手で口を覆った。喉の奥から何がこみあげてくるのか、自分でもよくわからなかった。笑いかもしれない。あるいは別の何か。感心に似た、しまう場所のない何か。
(自分で自分を没収する気か)
周りでサッカー部員たちが喋っていた。盾を失った晴には、すべて聞こえた。
「今日のさそり座、恋愛運最高だってさ」
「俺、さそり座」
「じゃあ、いいことあるな」
「もうあった」
「数学の問三、解けたやついる?」
「問三は誰も解けてねえよ」
「いちばんうまいのは焼きそばパンだろ」
「メロンパンだって」
「レーズンパンは論外」
列が進んだ。晴はカウンターにたどり着いた。
購買のおばちゃんが、気の毒そうに彼を見た。残っているパンはひとつ。レーズンパンだった。
レーズンパンは、いつも売れ残る。
晴は敗北の代金として百二十円を払い、出口のほうへ向き直った。
背後で、サッカー部員たちの話は続いていた。
「熱田のやつ、かわいそうにな」
「剣道部の?」
「一か月前から、C組のあの子を刀でも見るみたいな目で見てる」
さそり座が肩をすくめた。
「さっさと告りゃいいんだよ。その子、昨日俺に告ってきたけど」
「で、オーケーしたの?」
「した」
「その子、どこでそんな勇気出したんだよ」
晴は、レーズンパンを手にしたまま立ち止まった。
「四十四番の下駄箱に言われたんだってさ」




