第3話 聖騎士の誕生
去年の四月から、矢のないキューピッドは四百十二通のメッセージに答えてきた。
書き直しが必要だったことは、一度もない。
その木曜日、午後十一時四十分。雲野晴は三十七稿目を書いていた。
一稿目を書いたのは、午後八時十五分だった。
『ご相談者様。日の入りの時刻、四月の川越における卓越風、学校の屋上で成功した告白の過去事例など、十四の変数を分析した結果……』
それが丸一ページ続いた。冷たく、隙がなく、脚注までついていた。
長すぎるので消した。
十一稿目は箇条書きだった。
『屋上で告白する際のリスク。一、風。二、鳩。三、外から鍵のかかる扉』
二十三番まであった。それも消した。
十九稿目は一行だけだった。
『彼女は水曜日から、もう別の人と付き合っています』
事実だった。晴はそれを、ほかの全部を合わせたよりも速く消した。
二十六稿目は、こう始まっていた。
『一年前、ある人がこういう助言に従って……』
文はそこで途切れ、「て」のあとで、カーソルが長いあいだ点滅していた。
一文字ずつ消した。
二十七稿目から三十六稿目まで、一稿ごとに言葉が減っていった。
三十七稿目は一行だった。
『諦めてください。成功確率、低いです』
送信する前に、晴は机の引き出しを開けた。
一年前と同じ場所に、それはあった。角が少し黄ばんだ白い封筒。赤い封蝋は、真ん中で割れている。
引き出しを閉め、送信を押した。
その瞬間、既読がついた。
三秒後、返信が来た。
『青天の霹靂』
熱田正義が生涯で唯一、正しく使えた四字熟語だった。
♡
木曜日、午後五時十分。一稿目の三時間前。
川越の菓子屋横丁は、焦がした砂糖と醤油の匂いがした。観光客、子どもたち、そして天井まで駄菓子の箱を積みあげた古い木造の店。
その山のひとつの陰に、雲野晴がいた。
二十メートル先を、二年C組の女子とサッカー部の男子が、せんべいの袋を分け合いながらゆっくり歩いていた。
晴はノートを開いた。
『二人の距離 11センチ』
『手をつないだ回数 3 平均8秒』
(確定)
「何か買うのかい、坊や」
店の主は八十歳ほどで、何世代もの生徒を追い払ってきた目をしていた。
晴はコーラ味の飴をひとつ取り、十円払った。
一分後、店主がまたこちらを見た。晴はガムをひとつ買った。
三十分後、彼の手には駄菓子四十個の入った袋と、ひとつの確信があった。
横丁の反対側で、恋塚律が丁寧に金平糖を選んでいた。
砂糖の星。屋上の舞台に散らすためのものだ。日の入りに食べられる星空。十一歳のとき漫画で読んで、ずっと忘れられずにいた。
色を確かめようと袋を光にかざしたとき、偶然、ふたりが通りかかるのが見えた。
二年C組の女子。二週間前、四十四番の下駄箱に、サッカー部の男子への告白の仕方を尋ねる手紙を入れた依頼人。
そのサッカー部の男子と、手をつないでいた。
(うまくいった)
ささやかで温かい誇らしさが、胸に広がった。
誇らしさに続いて、向かいの店の駄菓子の山に気づいた。そしてその陰に隠れた男子にも。ノートを開き、あの女子の一歩一歩を数えるような目で見つめている。
(……雲野くん?)
ノート。隠れ場所。女子と、その手を握る男子に、張りついたままの目。
(彼の手紙は、あの子宛てだった)
(そしてあの子は、別の人と一緒にいる。私の助言のせいで)
(また)
そのすぐあとから、もっと小さくて、もっと奇妙な思いがやってきた。
(……私宛てじゃ、なかったんだ)
安堵の味がするはずだった。しなかった。
彼女は金平糖の代金を払い、横丁を渡って向かいの店へ行った。晴はレジの前で、駄菓子四十個の袋を手にしていた。
「四十個ですか、雲野くん。それはもう、おやつではありません。在庫です」
「市場調査だ」
「駄菓子の?」
「全部の」
彼女は通りを見た。ゆっくりと遠ざかっていくふたりを。
「市場は、もう閉まりましたよ、雲野くん」
晴は入口の札に目をやった。
「六時までだ」
「……そうですね」
目の端で、晴は彼女の袋を見た。色とりどりの、砂糖の星。
(星。日の入り。屋上)
帰り際、恋塚律は横丁のいちばん端の店で、一メートル近い麩菓子を買った。看板によれば、日本一長いらしい。
それを、通りを歩きながらひと口ずつ食べていった。
理由もわからないまま、これほどの恨みをこめて菓子にかじりついた者は、川越にひとりもいなかった。
♡
金曜日、ランチラジオ。
「二年D組からリクエストが届いています!」すずは審判のようなおごそかさで紙を広げた。「『諦めた。キューピッドが正しかった。悲しい曲をかけてくれ。熱田正義』」
二秒の間。放送では永遠に等しい。
「キューピッドのゴール! 後半九十分!」
九十年代の失恋バラードが、校内すべての教室に流れはじめた。
恋塚律は、箸を宙に浮かせたまま止まった。
諦めるなんて、計画にはなかった。屋上がある。鍵がある。星の袋がある。そして早朝の石がある。お辞儀ひとつと、ついに答えなかった問三と引き換えに手に入れた石が。
彼女は弁当箱の横に箸を置いた。寸分の狂いもなく、そろえて。
(まだ、間に合う)
午後三時四十分、廊下の角から、雲野晴は二年B組の委員長が二年D組の下駄箱の前で立ち止まるのを見た。
彼女は左右を確かめた。下駄箱のひとつに封筒を入れ、コピーでも取りに行くような足取りで去っていった。
封筒には、赤い封蝋が押されていた。
中には、丸みを帯びた字でこう書かれていた。『運命は、棄権を認めません。屋上、十八時十七分』
(委員長は、諦めない)
♡
午後六時五分、雲野晴は二階の踊り場で、消火器の前に立っていた。
誰なのか見えるより先に、足音が聞こえた。足の裏全体を一度に下ろす、剣道の足音だった。
熱田正義が、竹刀を肩に担ぎ、赤い封蝋の封筒を手に、階段を上ってきた。
「どけ」
「無理だ。消火器を点検してる。俺は消火器の子だ」
「は?」
「……忘れてくれ」
晴は踊り場の真ん中で両腕を広げた。
「屋上は、例の事件以来閉鎖されてる」
熱田は封筒を、晴の目の高さに掲げた。
「運命が開けた」
そして通り抜けた。横に一歩、肩をひねる。雲野晴は回転扉のように、その場でくるりと一回転した。
止まったときには、熱田はもう最後の階段に差しかかっていた。
♡
午後六時十一分。学校の屋上における戦力配置は、以下のとおりである。
地点A、貯水タンクの裏。恋塚律。午後六時着。屋上の鍵と、金平糖の袋と、口から飛び出しそうな心臓を携えて。
地点B、半開きの階段室の扉の陰。熱田正義。午後六時十分着。外から声が聞こえ、本能的に身を隠した。
地点C、地点Bの後ろ。雲野晴。午後六時十一分着。息も切れ、作戦もない。
三人とも、見ているのは自分だけだと信じていた。
ラブコメにおいて、屋上は告白が起こる場所だ。この学校では、何年も閉鎖されていた。一度だけ開けたら、間違った告白が起こった。
屋上の真ん中、フェンスのそばに、早川心と星野がいた。
ふたりのまわりでは、コンクリートの上に散らばった何百もの砂糖の星が、夕方の光を受けていた。フェンスには、網に包まれた小さな石がひとつ、置かれていた。
「これ、全部熱田くんが?」
心は胸に手を当てて、あたりを見まわした。
「彼氏ができたって、伝えに来たの。ちゃんと、傷つけないように。あの人、すごく……」言葉を探す。「すごく、まっすぐだから。なのに来ないし、こんなにきれいだし、どうしたらいいかわかんない」
貯水タンクの裏で、恋塚律は手の感覚をなくした。
(心さん?)
(ここに?)
(熱田くんって、言った?)
(熱田くん)
(心さん)
(二通の手紙)
(私が、やった)
星野は足もとの星を見た。体育館の上へ沈んでいく夕日を見た。そして、隣の女の子を見た。
「昨日は、そっちから告白してくれただろ」頭をかく。「今日は、俺から言いたかったんだ」
午後六時十七分、陽が体育館の屋根にかかった。
「早川さん。俺と、付き合ってください」
心は両手で口を覆い、何度も、何度もうなずいた。
扉の陰で、熱田正義が叫ぶために胸いっぱいに息を吸った。
それより先に、晴の手が届いた。
片手で口をふさぐ。もう片方の手で襟首をつかむ。痩せた男子が剣道部の二段にぶら下がるようにして、好きな子の前で恥をさらそうとする男を止めていた。
涙で濡れた晴の手のひらに向かって、熱田は、神聖だったはずの名前を口にした。
「……心さん」
こうして雲野晴は、彼女の名前を知った。
フェンスのそばで、心が石に気づいた。
「見て! 氷川神社の縁結び玉!」両手で拾いあげる。「この人だって相手が見つかったら、ふたりで返しに行くんだって」
星野が笑った。
「じゃあ、行こうか」
早朝の行列と、ひとつのお辞儀と、時間ならあると言った先生がくれた石。それが、貯水タンクの裏から見える先で、間違った手に乗って去っていった。
恋塚律が扉のほうを見たのは、そのときだった。
隙間から、熱田の肩越しに、雲野晴の顔が見えた。真剣で、固く閉ざされた顔。心と、彼女に交際を申し込んだ男子を見つめている。
彼が友人を押さえていることを、彼女は知らなかった。
この一週間、彼がポケットに入れていた手紙が誰宛てなのかは、知っていた。
彼女の手の中で、金平糖の袋がくしゃくしゃに握りつぶされ、中で星が割れる音がした。
心と星野が、扉のほうを振り向いた。
晴は熱田を引きずって階段を駆けおりた。三段飛ばし。しゃくりあげる剣道二段。ポケットから落ちるノート。二階の踊り場にたどり着き、ふたりは消火器の陰に身を縮めた。
星野と心は手をつなぎ、小さく笑いながら階段を下りていった。消火器の陰のふたりには、気づかなかった。
熱田は立ちあがり、袖で顔をぬぐうと、何も言わずに走り去った。
晴は少しのあいだ、しゃがんだままだった。それから、もう一度上った。
扉の前から、屋上が見えた。
恋塚律が、ひとりで床に座っていた。散らばった星の真ん中で。さっきまで石があったフェンスのあたりを見つめている。背筋は、いつもどおりまっすぐだった。
晴はその姿を見ていた。彼女が顔を上げる前に、階段を下りた。
♡
午後六時五十分、用務員がバケツとほうきを持って上がってきた。
屋上の扉が開いていた。妙なことだった。扉を開けた本人は、開けっぱなしにして帰るような人間ではない。
外には、もう誰もいなかった。風と、コンクリートに散らばった何百もの砂糖の星だけ。
用務員は帽子を脱ぎ、胸に当てた。
「ああ。もう、終わったんだな」
黙って掃いた。星がほうきに当たって、乾いた小さな音を立てた。
「去年は花びらで、今年は星か」
ほうきにもたれて手を止め、砂糖の粉を見つめた。
「この学校には、よっぽど演出が好きなやつがいるんだな」
♡
月曜日、午前八時十分。旧校舎の廊下。
雲野晴は始業の二十分前に来ていた。上着のポケットには白い封筒。封蝋もなく、手書きの字もなく、印刷された文面だけ。何にも似ていない封筒だった。
四十四番まであと三メートルというところで、膝が床を打つ大きな音がした。
熱田正義が、下駄箱の前で正座していた。竹刀を体の前に横たえている。道場の作法どおりに。
熱田が振り向いた。晴を見た。
「おまえ! 消火器の子だな!」
(覚えてたのか)
「証人が要る。そこにいろ」
晴はそこにいた。矢のないキューピッドの手紙をポケットに入れたまま、世界で誰よりも矢のないキューピッドを憎む男から、一メートル半の距離に。
熱田は、額が床につきそうになるまで、下駄箱に頭を下げた。
「四十四番の下駄箱よ! おまえは行けと言った。キューピッドは諦めろと言った。俺はキューピッドに従い、間に合わなかった! 今日から、この剣はおまえのものだ!」
拳を突きあげた。
「誓う! 矢のないキューピッドに、俺の以心伝心を思い知らせてやる!」
長い沈黙が落ちた。
熱田は、待つように証人を見た。
晴は咳払いをした。
「……記録しておく」
ふたりのまわりで、朝練帰りの生徒たちが足をゆるめていた。テニス部の女子が写真を撮った。野球部の男子が友達に小声で言った。剣道部のやつが下駄箱に告白していて、もうひとりは仲人らしい、と。
ラブコメの歴史には、人への告白も、手紙への告白も、そして有名な一例として切り株への告白もある。下駄箱への告白は、一度もない。
熱田は立ちあがり、竹刀を取ると、窓が震えるほどの足音で廊下を去っていった。
四十四番の前に、晴ひとりが残された。
ポケットから封筒を取り出し、隙間に差し入れた。
中に落ちる音が聞こえた。知っている音だった。
♡
十二時四十五分、すずの声が全教室のスピーカーを満たした。
「春の決闘、公式結果発表! 四十四番の下駄箱、十二! 矢のないキューピッド、十二! 引き分けです! この戦争、延長戦に突入だーっ!」
二年B組で、恋塚律は襟もとに手をやった。
その後ろで、雲野晴はノートの『敵情観察』のページを開いた。
何も書かなかった。
閉じた。
♡
午後六時二十分、誰もいない旧校舎で、恋塚律は首から下げた鍵で四十四番の下駄箱を開けた。
新しい手紙が六通。五通は色とりどりで、ハートやシールで飾られ、字はどれも震えていた。
そして、白い封筒が一通。封蝋もなく、名前もない。何にも似ていない封筒。
彼女はその場で開けた。
印刷された紙が一枚。真ん中に、二行だけ。
『1対0。次は、まずその子に訊け』
『矢のないキューピッド』
恋塚律はそれを二度読んだ。二度目に、指が紙に折り目をつけた。その折り目は、二度と消えなかった。
紙をたたもうとしたとき、下の隅に、もう一行あるのに気づいた。もっと小さな字だった。何かを書きかけて、途中で後悔した人のように。
『追伸。星は、きれいだった』




