第1話 四十四番の下駄箱
二年B組の二時間目が始まる時刻になっても、先生はまだ来ていなかった。
窓際のいちばん後ろの席で、雲野晴はイヤホンをつけていた。
何も聴いてはいない。聴いていたためしがない。
机の下のスマホには、一年生の女子からのDMが表示されている。テニス部の部長に、メッセージで告白するべきかどうか知りたいらしい。
晴は表情ひとつ変えずに、返信を打った。
『いいえ。成功確率、低いです』
送信。
ひとつ前の席では、恋塚律が何かを読んでいた。
伸びた背筋。細いフレームの眼鏡。まっすぐな黒髪が、背中に流れている。手にしているのは、色とりどりの付箋がびっしり貼られた生徒手帳だ。
好きで校則を読んでいるのは、全校で彼女ひとりだった。クラス委員長になって十日。対立候補は、ひとりも出なかった。
真ん中の列で、男子がノートを一枚破り、何か書きつけて四回折りたたんだ。ふたつ前の席に座る女子のうなじを見る。
立ちあがり、ゴミ箱へ行くふりをして、通りすぎざまに手紙を放った。
紙は、机三つ分の上に完璧な弧を描いた。
弧の途中で、消えた。
恋塚律が、それを指二本で挟んでいた。
生徒手帳から、目も上げずに。
教室じゅうが静まりかえった。彼女は手帳を閉じて立ちあがり、男子のほうへ向き直った。
「第十二条。授業時間中における、学業と無関係な文書のやり取りを禁ずる」
男子は笑ってみせようとした。
「でも、先生まだ来てないし」
「二時間目は九時五十分に始まっています。遅刻しているのは先生です。あなたは違います」
その笑みが崩れた。
「放課後、職員室まで取りに来てください」
男子は、手紙も反論も失って席に戻った。
晴はイヤホンを片方外した。
(あれは委員長じゃない。税関だ)
恋塚律はファイルを開き、手書きのラベルが貼られた茶封筒を取り出した。
『没収品 四月分』
手紙を、読みもせずにそこへ入れる。
今日は十七日。封筒は、もう閉まらなくなっていた。
彼女は、また腰をおろした。
晴は前に身を乗り出した。
「そんなに恋が嫌いなのか、恋塚さん」
彼女は振り向かずに答えた。
「何も嫌ってなどいません。校則を守っているだけです」
「校則には、人の手紙をラベル付きの封筒にしまえなんて書いてない」
ページがめくられる。
「整理です」
「ラブレターの?」
「証拠品の、です」
恋塚律が、ようやく首を回した。眼鏡のレンズに窓が映っているのが、彼に見える程度に。
「まるで雲野くんが、まだ恋を信じているみたいな言い方ですね」
晴はまばたきした。
「『まだ』?」
「言葉のあやです」
彼女は前を向いた。
ちょうどそのとき、十分遅れで先生が入ってきた。化粧は完璧に決まっている。金曜日だった。
もし晴が彼女の後ろではなく前に座っていたら、恋塚律が授業のあいだじゅう、生徒手帳の同じ一行を見つめていたことに気づいただろう。
♡
授業は午後三時半に終わった。
雲野晴は図書室へ行った。棚から適当に一冊抜き取り、いちばん奥の机に座って、百十二ページを開いた。
そのまま二時間半、百十二ページから動かなかった。
恋塚律は二年B組の教室に残った。机の列をそろえた。黒板を消した。机の列をもう一度そろえた。一台が二ミリずれていたからだ。
ふたりとも、相手も待っていることを知らなかった。待っているものは同じだった。学校から、人がいなくなること。
午後六時十分、書道部の最後の部員が旧校舎を出た。
恋塚律は、下駄箱の廊下に北側から入った。
ゆっくりと進みながら、手当たりしだいに扉を開けては閉め、誰に頼まれたわけでもないのに、咎めるように首を振る。
四十四番の二メートル手前で、彼女はしゃがんだ。右の靴紐をほどき、横目でうかがいながら、結び直しはじめる。
左、誰もいない。
右、誰もいない。
前方五十センチ、雲野晴がしゃがんで靴紐を結んでいた。
ラブコメには古くからの決まりがある。ふたりが同時にかがむと、頭をぶつけ合う。
雲野晴と恋塚律は、頭をぶつけなかった。
しゃがんだまま、靴紐を手にして、ただ見つめ合っていた。
晴は三十秒前に、南側から来ていた。足音を聞いて、反射的にしゃがんだのだ。一年かけて鍛えた反射だった。あの桜以来、雲野晴はどうしていいかわからなくなるたびに、靴紐を結んできた。
全校で、彼ほど靴紐がきつく締まっている生徒はいない。
(雲野くん)
内心、恋塚律は思わず計算していた。
(ここで。今日。十七日に)
表向きは、指一本で眼鏡を押しあげた。
「雲野くん。旧校舎は六時半に施錠されますし、この廊下に下駄箱がある二年B組の生徒はいません。委員長として、ここで何をしているのか訊く義務があります。答えを信じる義務があるのは、それが筋の通ったものだった場合に限りますが」
「靴紐を結んでる」
「それは見ればわかります」
「なら、筋は通ってる」
「いつからですか」
晴は靴紐に目を落とした。
「俺の靴紐、結ばれるのが怖いんだ。空気が真剣になると、決まってほどける」
「靴紐は何も怖がりません」
「俺のは怖がる。前に一度、思いきり固く結ばれたことがあるんだ。うまくいくって約束した誰かに。それ以来、こいつらは誰のことも信じてない」
天気予報を読みあげるような口調だった。
恋塚律は一秒、黙った。
自分の靴紐を引き、交差させ、下にくぐらせて、締める。
「なら、ほどけない結び目が必要ですね」
船乗りの結び目だった。
(船乗りの結び目? 靴紐をそんなので結ぶやつがどこにいる)
晴はそれを、「委員長に関するどうでもいい情報」のフォルダにしまった。今日まで空っぽだったフォルダだ。
「恋塚さんは? ここに下駄箱はないだろ」
「委員長ですから。理屈の上では、全部私の下駄箱です」
「そんなこと、校則には書いてない」
「校則の精神には書いてあります」
「その校則の精神ってやつは、夕方六時に、関係ない廊下で靴紐を結べって言ってるのか」
「勤務中です。下駄箱は、ラブレターのやり取りが行われる場所の第一位です。この学校の深刻な問題で、誰かが床の高さから見張らなければなりません」
「第一位って、誰調べだよ」
「統計によれば、です」
「どの統計だ」
彼女は正面から彼を見た。
「私の、です」
晴の胸に、一年ぶりの感情が湧いた。職業的な憤りだ。
(統計を捏造した。俺の目の前で。この俺に向かって)
晴は立ちあがった。
「恋塚さんが勤務中なら、俺も何か役に立つことでもするか」
廊下を横切り、壁に掛かった消火器の前で足を止めた。四十四番の真向かいだ。
「それ、消火器ですよ」
「使用期限を確認してる」
「それは用務員さんの仕事です」
「用務員さんの腰は、知ってのとおりだろ。誰かが目の高さで消火器を見張らないと」
そして、使用方法の表示を一行ずつ、真剣に読みはじめた。
目の端に、彼女の姿が映っていた。
恋塚律は、しゃがんだままだった。彼から目を離さない。
その指は、動き続けていた。
六歳のころから、船乗りの結び目を結んできた指だ。監督はいらない。
輪を作る。下にくぐらせる。引く。
恋塚律がようやく目を落としたとき、右の靴は左の靴と結ばれていた。
船乗りの結び目で。
船乗りなら誰でも知っているとおり、決してほどけないために考え出された結び方で。
(……)
(これは、緊急事態)
恋塚律は、もうその場から動けなかった。
動きたくても。
♡
晴は消火器の使用方法の一行目を読んだ。
『安全ピンを抜く』
背後で、恋塚律は動かない。
(なんで帰らないんだ)
雲野晴には、何にでも使える方法があった。一年間DMに答え続けて学んだのは、人間の行動はすべて三つの仮説に収まるということだ。
仮説A。誰かを待っている。
可能性は低い。二年B組の委員長は誰も待たない。待つのは周りのほうだ。たいていは職員室の前で、没収されたものを取り返すために。
仮説B。俺とふたりきりになりたい。
晴は計算すらしなかった。インクの無駄になる数字もある。
仮説C。
消火器の二行目を、読むともなく読んだ。
仮説C。俺が『矢のないキューピッド』だと疑っている。
うなじが、急に冷たくなった。
すべてに当てはまる。ラブレターの話。挑発するために捏造した統計。床の高さでの見張り。
一年間、完璧な匿名を守ってきた。そして今、学校一恐れられている委員長が、三メートル先でしゃがみこみ、こちらがボロを出すのを待っている。
(ここで離れたら、全部認めることになる)
残った。三行目を読む。
『火の根元をねらう』
三メートル後ろで、恋塚律にもまた方法があった。その名は、運命。
そしてその運命は今、雲野晴の上着のポケットからのぞいていた。
白い封筒。封がしてあり、半分に折られ、何食わぬ顔でポケットからはみ出している。
(手紙)
(ちょうど一年。同じ日。同じ廊下。そして彼が、手紙を持っている)
恋塚律の内なる世界に、花びらが舞いはじめた。
外から見れば、その顔は廊下を見張る委員長のままだった。
一年前、彼女の手紙が、あの少年を切り株の前で告白させた。
(今度こそ、失敗しない)
雲野晴があの手紙を四十四番に入れるまで、ここを動かない。彼女はそう決めた。簡単な決断だった。靴が、とっくに決めてくれていた。
晴が振り向いた。
見張られているなら、追い払う手はある。二年B組の委員長がラブレター以上に恐れている、ただひとつのものを突くのだ。
恋愛疑惑を。
「恋塚さん。校則を隅から隅まで読んでるなら、第零条を知ってるはずだ。委員長は、授業時間外に男子生徒とふたりきりになってはならない。恋愛に発展するおそれがあるため」
両足がつながったままでは、立ちあがって追及から逃げることもできない。残されているのは、口だけだった。
「第零条、ただし書き」
「ただし書きなんてあるのか」
「ただし、当該生徒を監視中の場合は、この限りでない」
憲法を引用するような確信に満ちた声だった。
「じゃあ、俺を監視してるって認めるんだな」
恋塚律は、一瞬遅れて、自分がどこへ誘いこまれたのかを悟った。
「校則がその可能性を認めている、ということは認めます。私が何を認めて、何を認めないかは、もう雲野くんには関係ありません」
「そのただし書き、三十秒前に恋塚さんが作ったやつだろ。見てたぞ。左の眉が上がって、条文が出てきた」
「そして雲野くんは、それを一度で覚えました。雲野くんに言わせれば存在すらしない条文を、もう私よりうまく暗唱しています」首をかしげる。「さて、雲野くん。容疑者は、どちらでしょう」
廊下に沈黙が落ちた。
晴は今、委員長の言葉を一字一句覚えていると証明してしまった。
恋塚律は今、人気のない廊下で夕方六時に男子を見張っていると、声に出して認めてしまった。
どちらも勝っていない。ふたりとも、それをわかっていた。
彼女は封筒に目をやった。低くなった声には、もう校則はひとつも入っていなかった。
「雲野くん。差し出したいものがあるなら、それを禁じる条文はひとつもありません。なかなか差し出せないものもあります。そういうものほど、たいていは差し出す価値があるんです」
(差し出す)
(……知られてる)
(身柄を差し出せ、ってことか)
「差し出すものなんて、ない」
「誰にでもあります」
晴は消火器に向き直り、四行目を読んだ。
『いざというときは、落ち着いて』
♡
沈黙は長く続かなかった。
廊下の奥から、バケツのキャスターが転がる音が聞こえてきた。
用務員がモップを肩に担いで角を曲がってきて、足を止めた。
夕暮れの光のなか、下駄箱の前に立つ少年がひとり。そこから三メートル離れて、彼のほうへ顔を上げ、ひざまずいている少女がひとり。
男はゆっくりと帽子を脱ぎ、国歌を聴くときのように胸に当てた。
「すまないね。邪魔するつもりはなかったんだ」
一センチも動かなかった。
「何も邪魔してません」
晴が答えた。
用務員は目を細めた。二歩前に出る。晴を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。
「待てよ。君、見覚えがあるな」
(やめてくれ)
「あの切り株の子だろう!」
一瞬で、晴の脳裏に切り株がよみがえった。花びらが見えた。「部活あるから」が聞こえた。
「用務員室じゃ、今でも君の話が出るんだ。一年前、桜の木のところでひざまずいてたのは君だった……」男の声が震えた。律のほうを見る。「それが今じゃ、この子が君のためにひざまずいてる」
ポケットからハンカチを取り出し、盛大に鼻をかんだ。
「人生ってのは、なんて美しいんだ」
「ひざまずいてなんかいません!」
恋塚律が旧校舎で声を荒らげたことは、一度もなかった。
「しゃがんでいるんです! まったく別の姿勢です! 目的も、体勢も、それに……」
「上から見たら同じだよ、お嬢ちゃん」
彼女は違うと証明するために、立ちあがろうとした。
船乗りの結び目が、右足を左足に引き寄せた。体がぐらつき、両腕が広がり、膝から床に落ちた。
今度は、本当にひざまずいていた。
用務員は帽子を目に当てた。
誰も気づかなかった。無表情の下で、恋塚律の手が結び目を握りしめていたことに。指の関節が白くなるほど強く。「切り株の子」というひと言は、どの校則も守ってくれない場所に命中していた。
「この廊下を掃除して、三十年だ」
男は天井を見あげた。
「この学校で、三百回の告白を見てきた。自分のは、ひとつもない」
長い間。
「うらやましいねえ」
もう一度、鼻をかんだ。
「あのときもな、桜の一件のあと、どこからともなく花びらが湧いてきてなあ。一週間、掃き続けたよ。どこから来たのか、とうとうわからなかった」
恋塚律の呼吸が止まった。
晴の仮説は、もう尽きていた。すべてを否定しようと口を開くと、別の言葉が出た。
「俺は切り株の子じゃありません。消火器の子です」
用務員は、感極まった顔で彼を見た。
「進化したなあ」
陣地を守りきれなくなったとき、戦略家なら誰でもすることを、晴もした。
逃げた。
足音が廊下に響き、階段に響き、中庭に響いて、やがて消えた。
用務員は帽子をかぶり直した。モップを手に取り、このうえなく優しい目で律を見た。
「戻ってくるさ、お嬢ちゃん。みんな、必ず戻ってくるもんだ」
そして古い歌を口ずさみながら、バケツを押して去っていった。
廊下には、恋塚律ひとりが残された。
ひざまずいたまま、自分で自分を結んだまま。
♡
旧校舎の反対側、中庭の角で、晴は膝に手をついて立ち止まった。
肺が焼けるようだった。
(逃げた)
止まることを知らない彼の頭が、残りを片づけた。
(逃げるのは、認めるのと同じだ。逃げたとなれば、彼女は仮説Cを確信する。明日の朝には、二年B組の委員長は『矢のないキューピッド』の正体を知っている)
(戻って、何食わぬ顔をしなければ)
足もとを見る。上履きのまま、中庭に出ていた。
用務員の言葉がよみがえる。必ず戻ってくる。
雲野晴は、行動を読まれるのが大嫌いだった。それでも、戻った。
旧校舎の外壁に背中をつけ、廊下の窓からそっとのぞく。
中では、恋塚律が、ひとりきりであることを確かめていた。
そして、ぴょんぴょんと跳ねて進みはじめた。
両足をそろえ、転ばないように両腕を広げ、跳ねるたびにスカートが揺れる。二年B組の委員長は、誰も見たことのない姿で、そしてこの先も誰も見ることのない姿で、旧校舎の廊下を横切っていった。
四十四番の前で止まる。
度の入っていない眼鏡を外した。
低い西日が窓から差しこみ、遮るもののない彼女の顔を照らした。
首もと、制服の襟の下から、紐に通した小さな鍵を取り出す。下駄箱を開けた。
中には手紙があった。色とりどりの封筒が、何十通も。その上に、赤い封蝋が押された小箱がひとつ。
恋塚律は、生き物を抱えるように、両手で手紙をすくいあげた。
一瞬、誰もいない廊下から、鉄の委員長が消えた。残ったのは、学校の伝説だけだった。西日に黒髪を輝かせ、みんなの手紙を抱えた伝説が。
彼の手紙を探す。一通ずつ。
なかった。
もう一度探す。
ない。
「入れてないの!?」
叫び声が、旧校舎に響いた。
「雲野くんの、意気地なし!」
最後のひと言の途中で、声が割れた。
ガラスの向こうで、雲野晴は小箱の封蝋を見つめていた。
赤い封蝋。
あれと同じ封蝋の封筒が、家の引き出しにある。捨てたことは一度もない。
ラブレターを没収する委員長。丸みを帯びた字。四十四番の下駄箱。
切り株の前で告白させた張本人が、この十日間、自分のひとつ前の席に座っていた。
雲野晴は、拳を固めた。
(見つけたぞ)




