第0話 桜の木
四月十七日が、また川越にやってきた。
ほかの日と変わらない、ただの一日。そう思う人も多いだろう。
実際、そうなのかもしれない。
いや、間違いなくそうだ!
だが、雲野晴にとっては違う。
一年前のこの日、彼は恋をする能力を失った。
そしてこの日は、今なお続くひとつの戦争が始まった日でもある。
キューピッド戦争である!
♡
一年前、雲野晴は高嶺さくらに、どうしようもなく恋をしていた。
名字がすべてを物語っている。誰の手も届かない、高嶺の花。
高嶺さくらは窓際の列に座り、髪をリボンで結んでいた。授業が始まって三日目には、彼から消しゴムを借りていった。
その消しゴムは、いまだに返ってこない。
晴は、これを婚約とみなしていた。
翌週、彼は川越氷川神社へ行き、大吉が出るまで鯛みくじを釣り続けた。
当たりが出たのは十四匹目。そこまでに、一週間分の昼飯代が消えていた。
(神様のお墨付きだ)
十五歳の雲野晴は、ラブコメの主人公として完璧だった。
欠点はひとつだけ。その完璧さに気づいているのが、本人だけということ。
問題もひとつだけ。告白の仕方が、さっぱりわからない。
晴の考えでは、力になってくれる相手はひとりしかいなかった。学校の誰ひとり、姿を見たことのない人物だ。
校内には、ある言い伝えがあった。『旧校舎の四十四番の下駄箱に手紙を入れると、三日以内に返事が届く』
誰が答えているのか、知る者はいない。今いる誰よりも昔から、生徒から生徒へと受け継がれてきた伝統なのだという。そのアドバイスは決して外れない、という話もあった。
(これだ。今日、行く)
♡
放課後の旧校舎は、がらんとしている。
下駄箱の並ぶ廊下は、埃と古い木の匂いがした。夕方の光が窓から斜めに差しこみ、床にオレンジ色の四角をいくつも落としている。
その奥、そっくりな下駄箱が何十と連なるなかに、四十四番はあった。
名札には、どの教師にも心当たりのない名前。
晴は、入る前に校舎のまわりを三周した。
それから、地雷原を渡るように廊下を進んだ。一歩。止まる。もう一歩、さっきより長く止まる。
誰もいない。それでも念のため、しゃがんで靴紐を結び直した。
その手には、封をした封筒が一通。
中の手紙は、三十七回書き直したものだ。序論・本論・結論のそろった版があった。教室の見取り図つきの版も。彼女の長所を二十個、五十音順に並べた版も。
最終稿は、一行だけだった。
『どうやって告白すればいいですか?』
晴は封筒を、四十四番の下駄箱の隙間に差し入れた。中に落ちる音が聞こえた。
そして、逃げた。
♡
数時間後、空がすっかり暗くなったころ、別の靴が廊下を歩いてきた。
黒い革靴。天井の蛍光灯が映りこむほど磨きあげられている。
靴紐は、船乗りが使うような結び目で固く留められていた。
靴は、四十四番の前で止まった。
扉の軋む音。紙のこすれる音。
長い沈黙。
そして、小さな声。
「ああ……運命」
ラブコメなら、ここで彼女の顔が映る場面だ。だが、その瞬間はまだ来ていない。
♡
翌朝、晴はいつもより二十分早く登校した。
自分の下駄箱を開ける。上履きの上に、白い封筒がのっていた。赤い封蝋で閉じられている。
晴はあたりを見まわし、封筒を上着の内側に押しこむと、二階のトイレへ走った。いちばん奥の個室に入って、鍵をかけた。
爆弾処理のような慎重さで、封を開けた。
丸みを帯びた、きれいな字だった。便箋からは、かすかに花の香りがする。
『親愛なる差出人さまへ
恋に、大げさな言葉はいりません。必要なのは、ふさわしい場所と、ふさわしい瞬間です。
中庭の桜の木の下に、彼女を呼び出してください。
午後四時四十四分、陽が体育館の屋根にかかり、三枚目の花びらが散ったとき、彼女の目を見て、こう伝えるのです。
「君を見たその時から、僕の心はこの桜のように花開いた」
あとのことは、運命にゆだねて』
晴は、何度も何度も手紙を読み返す。
十二回目で気がついた。トイレの個室で、自分が泣いていることに。
その日の放課後、九百八十円の、ストップウォッチつきデジタル腕時計を買った。午後四時四十四分。一秒たりとも、ずれるわけにはいかない。
♡
翌日は、雲野晴の人生でいちばん長い一日になった。
八時十二分。トイレの鏡の前で、台詞を練習した。「花開いた」のところで、声が裏返った。個室から出てきた三年生に、大丈夫かと訊かれた。
十時三十分、休み時間。呼び出しの手紙を手に、彼女の鞄へ近づく。
高嶺さくらが振り向いた。
晴は、腕を宙に上げたまま固まった。それから、その腕を振りはじめた。
「蚊だ」
彼はそう言った。
「蚊なんて見えないけど、私アレルギーなんだよね」
「速いんだよ、すごく」
三秒後には、隣の席の男子にも見えていた。
一分後には、クラスの半分が立ちあがり、存在しない蚊を追いまわしていた。誰かが窓を開けた。丸めたノートを手に、椅子の上に乗る生徒まで現れた。
蚊は、ついに捕まらなかった。
四月の川越に、蚊はいない。そのことに、誰ひとり思い至らなかった。
「四月の蚊」は、今でもクラスの語り草になっている。
十二時三十分、昼休みのチャイムが鳴ると、全校の半分が購買へ駆け出した。焼きそばパン三十個に対して、生徒は五百人。高嶺さくらも、友達と一緒に出ていった。
鞄だけが、ぽつんと残された。
一・八秒で、手紙はその上にのっていた。ストップウォッチで計測済み。
『今日、午後四時四十四分。中庭の桜の木の下で。雲野晴』
♡
午後四時四十三分。中庭は静まりかえっていた。
遠くで、野球部のかけ声が聞こえる。風が、川の匂いを運んでくる。
目の前に、高嶺さくらが立っていた。
来てくれたのだ。
晴は腕時計に目をやった。
16:43:57
16:43:58
16:43:59
16:44:00
片膝をつく。
「高嶺さん。君を見たその時から、僕の心はこの桜のように花開いた」
沈黙。
高嶺さくらは彼を見た。横を見た。もう一度、彼を見た。靴の裏にガムを見つけたときの顔で。
「なんで切り株のところに呼び出したの?」
晴は、彼女の視線を追った。
すぐ横、中庭の桜が立っているはずの場所に、高さ五十センチほどの切り株があった。断面は、まっすぐ平らだった。
桜は先週、教職員用の駐車場を広げるために伐られていた。樹齢四十年。四十回ぶんの春の告白を、見届けてきた木だった。
切り株の前で告白したのは、雲野晴が初めてだった。
晴は長いあいだ、切り株を見つめていた。
「結局、アドバイスは正しかったわけだ。花開いたよ。この桜と、まったく同じに」
中庭の向こう、本校舎二階の窓から、ひとりの少女がその光景を見下ろしていた。
長くまっすぐな黒髪。ぱつんと一直線の前髪に、顎の高さで切りそろえた両サイドの髪。姫カットだ。
恋塚律は紙袋を握りしめたまま、すべてが終わるまで身じろぎひとつしなかった。
「部活あるから」
それだけ言って、高嶺さくらは去っていった。
晴は、ひざまずいたままだった。
桜の花びらが一枚、目の前をよぎった。もう一枚。すぐに何十枚もの花びらが、オレンジ色の空を背に、彼のまわりで渦を巻いた。
半径二百メートル以内に、花をつけた桜は一本もない。
だが、ジャンルが花びらを要求している。
そして、花びらは舞った。
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その夜、晴は制服のまま、ベッドに腰かけていた。
ストップウォッチは、午後四時四十四分から動きっぱなしだ。
6:12:31
6:12:32
ボタンを押す。数字が止まった。
腕時計は、外さなかった。
スマホを手に取り、SNSに匿名のアカウントを作った。
名前は『矢のないキューピッド』。アイコンなし。本名なし。
プロフィール欄に書いたのは、一行だけ。
『恋愛相談、受けつけます。運命なし。桜なし』
こうして、キューピッド戦争は始まった。
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一年後。四月十七日が、また川越にやってきた。
二年B組。雲野晴は、新しいクラス委員長のすぐ後ろの席に座っている。
彼は、彼女が何者なのかを知らない。
彼女は、彼が何者なのかを、はっきりと知っている。




