静けさ
「よし、今日で撤退だ。敵の追撃が来る可能性があるから、気を抜くなよ」
あらから数日が経った。その間、ずっと訓練を続けていて、魔力の盾も、実戦でぎりぎり使えるほどの能力になってくれた。
とはいえ、それは実戦でぎりぎり使える程度のモノであり、まだ訓練が必要だと判断されていたため、わたしはまだオーランド軍曹の元に所属することになっていた。
オーランド軍曹は、いつも通りの声量で指示を飛ばしている。
その背中を見ていると、胸の奥がわずかにざわつく。けれど、あの日のように視界が滲むことはなかった。
「おい、セラ。ぼーっとすんなよ」
横からジグが肘で小突いてくる。
わたしは軽く身を引き、視線だけ向けた。
「わかってる。実践は何度も経験しているしね」
「そうかよ。せいぜい、俺の足を引っ張るなよ」
「そっちこそ」
そして、ジグとの関係は、未だ変わらず、何かにつけて張り合ってしまう。
そのせいで、オーランド軍曹の下で戦っている先輩たちには、わたしたちがライバルのような関係だと勘違いされてしまい、よくからかわれる羽目になっていた。
「ほら、行くぞ。軍曹が前進って言ってんだろ」
ジグがわざとらしく先に歩き出す。わたしは歩幅を変えず、少し遅れてついていく。
「撤退って、どういう感じでするか知ってるの?」
「あ? そんなの、最後尾で敵を引きつけながら下がるんだよ」
「……それって、危ないよね」
「当たり前だろ」
ジグの言葉は軽い調子なのに、落ちてくる響きだけが重かった。
わたしは歩みを止めず、肩の位置をほんの少しだけ直す。背中にかかる荷物が、いつもより重く感じる。
「おまえ、殿が嫌なのか?」
「嫌ってほどじゃない。重要なことだって、分かってるし。でも、殿をしたことは一度も無いんだよね」
「あー、なるほどな」
ジグはわたしの言葉を聞いて、ほんの一瞬だけ歩調を緩めた。すぐに元の速度に戻るが、そのわずかな変化が、言葉の意味をどこかで受け取ったことを示していた。
「まぁ、初めてなら重く感じるのも普通だろ。殿なんて、慣れてても面倒だしな」
声の調子はいつも通りなのに、言葉の端だけが柔らかい。
「……別に、怖がってるわけじゃないよ」
「分かってるよ。おまえ、そういう顔してねぇし」
ジグは前を向いたまま言う。視線は動かないのに、声の温度だけが少し落ち着いていた。
そのおかげなのか、身体が少しだけ軽くなったような気がして、歩幅がほんのわずかに整った。意識して合わせたわけではないのに、足音がさっきより静かに地面へ落ちていく。
そんなやり取りをしながら、わたしたちは進んでいた。
兵士たちの足音が、乾いた地面に一定の間隔で落ちていき、周囲の空気を押しのけるように響いていた。
風が吹いているはずなのに、草の揺れる気配がない。鳥の声も、虫の羽音も、どこにもなかった。耳を澄ませば澄ますほど、足音以外の音が消えていく。
前を行く兵士たちの背中が、同じリズムで上下している。
その動きに合わせて、足音だけが規則正しく続く。列は乱れず、誰も言葉を発しない。
(良い隊だなぁ)
まだ新兵であるわたしが言えることでは無いと思うけど、オーランド軍曹の隊は、本当に良い隊だと思う。
誰も余計な動きをしない。誰も勝手に前へ出ない。全員の息が揃っていて、グレン小隊長の隊とは大違いだった。
(前は、グレン小隊長に追いつくので精いっぱいだったからなぁ)
グレン小隊長の下で戦っていたのは、少し前だったはずなのに、遠い昔のように感じられる。
あの時は、グレン小隊長が敵部隊に向かって跳び出し、周りがそれをカバーするという戦い方をしていた。列なんてあってないようなもので、誰もが走りながら位置を変え、息を切らし、地面を蹴る音が常に混ざっていた。
今でも、その戦い方は頭がおかしいと思っているし、もう一度あの突撃をしたいかと聞かれたら、したくないと即答できるくらいだ。
でも、その時のことが、ふと胸の奥で温度を持って浮かび上がるのだ。
どれだけ辛かったとしても、あの記憶は、わたしにとってただの苦労話では終わらない。あの記憶は、尊敬出来る先輩たちと暮らした大切な記憶なんだ。
「何笑ってんだよ、気持ち悪い」
「……気持ち悪くて、悪かったね」
どうやら表情に出ていたらしく、ジグがわたしのことを見て言ってきた。
その目つきは鋭いのに、どこかいつものことみたいな気安さが混ざっている。わたしのことを、何だと思っているんだ。
「それで、急に笑顔になってどうしたんだ? さっきまで、不安になってたってのによ」
「ちょっと、昔のことを思い出しただけ」
「昔って何だよ」
歩幅は変わらないのに、返事を待つような間だけがわずかに伸びた。
「……別に、大したことじゃないよ」
「言いかけてそれかよ。気になるだろ」
「……前に所属していた隊のことを思い出しただけ。小隊長が、三倍くらい人数に差があっても、突撃するような人だったから」
「なんだそれ、ばっかじゃねえの」
わたしもそう思う。けれど、小隊長はそれで結果を残していたんだ。だから、彼にとっては、ソレが正解だったのだろう。
「……そんな突撃よりも、殿の方がマシじゃね?」
「そうかな。いつ攻撃が来るか分からない殿の方が、わたしは苦手だけどね」
「まじかぁ、俺は逆だな。わざわざ死地に、突っ込みたくねぇよ」
どこまでも、わたしたちの意見は反対だ。
でも、そのおかげで、沈んでいた空気が、ほんの少しだけ明るくなった気がする。
そんな時だった。
「おまえら、準備しろ! 敵が来るぞ!」
通信機で、連絡を受けたオーランド軍曹が、わたしたちに向けて短く叫んだ。
その声は、いつもの調子と変わらないはずなのに、落ちてくる響きだけがまったく違う。
(来たんだ、本当に)
頭の奥が、急激に冷え、思考が冴え渡っていく。
さっきまで胸のどこかに残っていたざわつきが、音もなく引いていった。代わりに、必要なことだけが、ひとつずつ輪郭を持って浮かび上がる。
まるで、わたしがわたしに切り替わるみたいだ。
でも、それでいい。
今の状態でなら、あの時と同じくらい戦える。むしろ、盾を使えるようになったから、より戦えるようになっているはずだ。
「気を付けろよ、馬鹿女。殿は突撃と違うぞ」
「そっちこそ、わたしよりも先に死なないでよ。先輩」
ジグが鼻で笑い、わたしは前を向いたまま歩幅を整える。その一瞬だけ、足音のリズムがふたり分だけ揃った。
前方で、オーランド軍曹が手を上げる。隊列がわずかに沈み、空気が張り詰める。
風の音が消えた。
草の揺れる気配も、鳥の声も、虫の羽音もない。ただ、地面を踏む音だけが、静かに深く沈んでいく。
もう、会話は必要なかった。




