対等の相手
「あ、テントのことだが、ジグのところが開いてたよな。そこでいいか?」
「大丈夫ですよ、塹壕の中で寝たこともあるんですから。……まぁ、いろいろありましたけど」
レオンのことを思い出す。彼は、初めての戦場に押しつぶされ、狂い、やってはいけないことをしてしまった。
あの時の恐怖は、身に染みていて、完全に抜けきっているわけではないが、それでも何とか耐えることが出来るようになっている。だからきっと、ジグと同じテントでも、寝ることは出来るだろう。
「グレンのとこでも起きるのか? いや、どうせ新兵がやらかしたんか」
「……いい思い出じゃないんですけど」
「確かにそうだな、悪かった。ジグ、襲うなよ」
「こっちから願い下げですよ、こんな女なんて」
オーランド軍曹にそんなことを言われて、ジグが目くじらを立てて文句を言った。
別に、女性のように扱われたいわけでもないし、そういう目で見られるのは嫌いなのだが、ジグの言い分を聞いていると、胸の奥にひやりとしたものが沈んだ。
「ジグ、喧嘩売ってんの?」
「あのな、俺と互角に殴り合えるような女がいてたまるか。短気だし」
「へぇそう。ふーん」
頭の奥で、ぷちんと音が鳴った気がした。
それでも、所詮は子供の戯言。前世を含めたら、わたしのほうが年上なんだから、ジグの言うことは大目に見てあげないといけない。
きっと反抗期なんだ、ジグは。だからこうして、いろんな人に噛みついて、痛い目を見る。そういう所が、どうにも目についしまい、わたしはこのように煽ってしまうんだ。
決して、久しぶりの対等な立場で話し合えていることに、喜んでいるからではない。
「ほどほどにしろよ、おまえら。じゃ、また明日な」
「はい。オーランド軍曹、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
そうして、わたしはオーランド軍曹を見送った。その背中は、大きくて頼りになる。そのせいで、一瞬グレン小隊長の背中が思い浮かんでしまい、視界が涙で滲んで来る。
でも、あの人は、グレン小隊長ではなく、オーランド軍曹であり、もうグレン小隊長はこの世にいない。
だから、わたしは、別れを済ませた死者よりも、これからも関わってくる生者のを向かなければならない。
涙を指先で拭い、深く息を吸う。
夜気は冷たいのに、胸の奥だけが妙に熱いその温度差が、現実へ引き戻してくれる。
「……行くよ、ジグ。案内して」
声をかけると、少し離れたところで待っていたジグが、気まずそうに肩をすくめた。
わたしが泣いていたことに気づいたのか、気づかないふりをしているのか、そのどちらともつかない表情だ。
「何で、ちょっと上から目線なんだよ」
「敬語をやめろって言ったのは、ジグのはずだけど?」
「あのな、他にも言い方があるだろ」
「そう? じゃあ、どう言えば満足なの?」
ジグは口を開きかけて、結局閉じた。
言葉を探しているのか、ただ面倒になったのか、そのどちらともつかない顔だ。
「……もういい。ついてこいよ」
そう言って歩き出したジグの背中は、妙にせかせかしている。
わたしは少し遅れて歩き出す。足音が重ならないように、ほんのわずかに間を空けた。
「おい、遅いって」
「歩幅が合わないだけ」
「合わせろよ」
「そっちが合わせれば?」
ジグが振り返り、何か言い返そうとしたが、結局肩をすくめて前を向いた。その仕草が、どうにも落ち着かない。
夜風が吹き抜ける。冷たいはずなのに、頬のあたりだけじんわり熱い。その温度差が、さっきの涙の名残を思い出させる。
「……ほら、ここだよ。」
ジグがテントの入口を指さす。
わたしは頷き、布をめくった。中は思ったより広く、寝床も二つ並んでいる。
今まで、ジグがこんなにも広いテントで寝ていたと思うと、無性に胸の奥がざわついた。
「なんだよ」
「別に、良いところで寝ていたんだなって思っただけ」
「おまえがいるせいで、今日から良いところじゃなくなったんだがな」
ジグが嫌味を言ってきたが、顔色変えず、わたしは使われていない方の寝床に腰を下ろす。
何か言い返せそうかなとは思っていたけど、何も口から出てこなかったからだ。
「……」
「……」
沈黙が続く。わたしからジグに話しかける必要は無いし、ジグもまた、わたしに話しかける必要が無いからだ。
別に、この沈黙が気まずいわけではない。塹壕に数日籠った時は、話すことが出来るほどの元気が無いことが多く、最後の日には一日中話さないことだってあったのだ。たったこれだけの沈黙は、わたしの心に響かない。
それはきっと、わたしだけじゃない。
前線に行ったことがある兵士の中で、塹壕にこもったことが無い人なんているはずもなく、ジグも塹壕で戦ったことがあるはずだ。
だから、この程度の沈黙で、揺らぐような相手ではない。
――と思っていなのに。
「なぁ」
ジグは、寝床に転がったまま、こちらを見ずに声をかけてきた。
その呼びかけは、いつもの喧嘩腰でも、嫌味でもない。ただ、沈黙に……いや、もっと別のものに耐えきれず、漏れてしまったような、そんな声音だった。
わたしは毛布の端を指でつまんだまま、返事をしなかった。
返す必要があるとも思わなかった。
「あの時、なんで森の中で倒れていたんだ?」
「え……?」
ジグの言葉に、息が詰まった。
胸の奥で、何かがきゅっと縮む。毛布をつまんでいた指先に、力が入ったのが自分でもわかった。
ジグは寝転んだまま、天井を見ている。
こちらを見ているわけでもないのに、その問いだけがまっすぐ刺さってくる。
「森で倒れているおまえを見つけた索敵隊に、俺もいたんだよ。結構驚いたんだぞ、腹から血も出てたんだし」
「……そんな相手に、喧嘩を売ったんですか」
動揺を隠すために、憎まれ口を叩いてしまう。
口調も慣れた敬語に変わってしまっているし、もうどうしようもない。
けれど、ジグは今回に限って、喧嘩を売ってくることは無かった。
「……いいだろ、別に。そんなことより、教えてくれないか。何があったのか、軍曹を見て、何を思ったのか」
「見たんですね、あの時のこと」
どうやら、オーランド軍曹を見て、グレン小隊長を連想していた時のことを見られていたらしい。
ジグは寝返りも打たず、天井を見たまま続ける。
「……ああ。なんか、ただ事じゃねぇ顔してたから」
その言い方は、いつもの軽口とは違っていた。
わたしは毛布を握る指先をゆっくりほどき、呼吸を整える。
「別に、大したことじゃありませんよ」
声は思ったよりも平静に出た。
けれど、ジグはすぐには引き下がらない。
「大したことじゃねぇなら、あんな顔しねぇだろ」
淡々とした口調なのに、妙に刺さる。
わたしは視線を落とし、寝床の縁を指でなぞった。
「……軍曹の背中が、少し似ていただけです」
「誰に」
「誰でも」
即答したのに、言葉の重さだけが残った。
ジグは短く息を吐く。
「そっかよ」
それ以上は聞かないらしい。けれど、沈黙はさっきよりもずっと近くに感じた。
ジグが寝床の上で体勢を変える。布が軋む音が、やけに大きく響く。
「……別に、話したくねぇならいいけどよ」
その言い方は、投げやりでも優しさでもなく、ただ不器用な距離感のままだった。
わたしは毛布を胸元まで引き寄せ、目を閉じる。
「気にしないでください。もう終わったことですから」
そう言った瞬間、胸の奥で何かがわずかに揺れた。
ジグは返事をしなかった。ただ、寝息でもない浅い呼吸だけが、静かなテントの中に漂っていた。
「……いつか、話します。だから、死なないでください」




