喧嘩
「今日から、コイツが訓練に参加する。まだ若いが、手加減する必要は無い。しっかりと鍛えろ。甘やかしたら、全員まとめて走らせるからな」
オーランド軍曹の声が訓練場に響いた瞬間、ざわついていた兵士たちの動きがぴたりと止まった。
兵士たちの視線がわたしへと集まり、慣れない緊張に喉がひりつく。
(そう言えば、こういうの、初日以来だっけ?)
兵士たちの注目を集めるのは、わたしが前線に着いた日以来だった。その時には、隣にアインがいて、この緊張に耐えることが出来たのだが、今はもういない。
けれど、わたしはあの時のわたしではない。死線を何度もくぐり抜けて来たし、いろんな人との別れも経験した。だから、もうわたしは一人で立てる。あの時のわたしは、もういない。
「名前を言え」
「……セラです。二等兵です。よろしくお願い致します」
出来るだけはっきりと、噛まないように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
わたしの声が訓練場に響き、静まり返った空気の中に落ちていった。
「今頃新人か……」
「軍曹が連れてきたってことは、ただの新人じゃなさそうだな」
ひそひそとした声が耳に届く。
けれど、さっきまでのような好奇の視線ではない。少しだけ、わたしを同じ場に立つ者として見る色が混じっていた。
「セラは二等兵だが、実戦で鍛えられてる。お前らが思ってるよりよっぽど動けるぞ。訓練を始めるから、さっさと位置につけ。セラは……おい、ジグ! お前がセラとペアを組め」
オーランド軍曹が兵士たちに呼びかけると、一人の少年がわたしの方へとやって来た。
その少年は、わたしより少し背が高いが、その顔つきから察するに、同年代くらいだと判断できた。けれど、同じ同年代であったアインやルカとは違って、戦場慣れしたような雰囲気を纏っており、彼もまた死線を何度もくぐり抜けたことが察せられた。
「……こいつとですか?」
ジグと呼ばれた少年は、わたしを見るなりそんなことを言ってきて、明らかに格下だと判断したような目を向けてきた。
その視線には、年齢への侮りと、経験への疑いと、そして“自分の方が上だ”という確信が混じっている。
「不満か?」
オーランド軍曹の低い声に、ジグは一瞬だけ肩を震わせたが、それでも視線だけはわたしから外さない。
「……いえ。ただ、俺はもっと動ける奴と組んだ方が効率がいいと思っただけです」
(は?)
ちょっとだけ、カチンってきた。
もちろん、わたしは勘が良いだけで、身体能力としては下の方だってことは自覚している。だから、先輩たちに、下に見られることは別に構わない。
でも、グレン小隊長の下で戦ってきた自負はあるんだ。わたしの動きを見たことない人に舐められるのは、正直――気分が悪い。
(でも、喧嘩は駄目だよね。我慢しないと)
ただ、喧嘩することは軍規に反する。だから、ここで言い返すわけにはいかない。
わたしはぐっと奥歯を噛みしめ、胸の奥で渦巻く苛立ちを押し込めた。
「気持ちは分かるが、セラは結構動けるぞ。訓練相手としては、ちゃんと成り立つはずだ」
「……オーランド軍曹は、俺のことを舐めてるんですか? 俺は、先輩たちに劣らないぐらい戦えるはずです!」
ジグは悔しさと苛立ちを隠そうともせず、拳をぎゅっと握りしめていた。
その目には、わたしを見下す色だけじゃなく、自分の実力を認めてほしいという、焦りのようなものも滲んでいる。
「実戦で鍛えられてるって言ってましたけど、どうせ塹壕の中で銃を撃ってただけですよね? そんなのが、俺の訓練相手になるとは思えませんん!」
「は?」
……その瞬間、胸の奥で何かがぷつんと切れた。
塹壕の中で銃を撃ってただけ? ふざけるな、グレン小隊長はそんな人じゃない。人数で上回る相手にも突撃し、戦果を挙げてきた人なんだ。
わたしだって、その突撃に何度も参加してきた。つまり、わたしに対して、塹壕の中で銃を撃ってただけって言うのは、グレン小隊長のことを馬鹿にしたってことだよね?
「……それって、同じ年の女に負けるのが恥ずかしいから、訓練したくないってこと?」
つい、口が勝手に動いていた。
言った瞬間、わたし自身が一番驚いた。喧嘩は駄目だって、あれほど自分に言い聞かせていたのに、こんなことを言ってしまうなんて。
でも、もう遅い。ジグは顔を赤くして、わたしのことを睨みつけていた。
(あれから、短気になっちゃったのかな? まぁいいや、この怒りは、本物だし)
あの森の中での撤退以来、わたしは何処か怒りっぽくなったような気がする。
胸の奥に溜まっていたものが、ちょっとしたきっかけで簡単に噴き出してしまうようになった。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないけれど、今だけは――この怒りを抑えるつもりはなかった。
「なに? 喧嘩売ってのか? おまえ」
「喧嘩売ってのはそっちじゃないの? それとも、客観的に自分のことも見れないのかな?」
わたしが言いそうにないことが、すらすらと口から出てきて、わたしがわたしじゃないみたい。
胸の奥に溜まっていたものが、勝手に形になって飛び出していく感覚があって、止めようとしても止まらなかった。ジグはわたしの言葉に一瞬たじろいだように目を見開いたが、すぐに悔しさを隠すように眉を吊り上げ、わたしを睨み返してきた。
「オーランド軍曹、後から処分は受けます」
「待――いや、いいか」
ジグの言葉に、オーランド軍曹が一瞬だけ怒りを見せたが、口を開きかけたところで、それを止めた。
けれど、今はそっちに意識を割いているどころではない。ジグが――
「――っ、軍規を……」
「うるせぇ、糞女!」
殴り掛かってくる。わたしは、何とかそれを避けることが出来たが、拳が頬をかすめた瞬間、空気が一気に張り詰めた。
ジグの動きは荒く、感情任せだったが、訓練をしていたおかげなのか、無駄に鋭く躱すことで精いっぱいだった。
でも――
(わたしだって、グレン小隊長の訓練に参加してたんだ。この程度で、勝てると思わないで)
態勢を低くし、拳を突き出す。彼が咄嗟に腕を下げたことで直撃は避けられたものの、衝撃でジグの身体がぐらりと揺れた。わたしの拳が当たった感触が手に残り、ジグの顔がさらに赤くなる。
「っ……てめぇ……!」
怒りで声が震えていた。悔しさと羞恥が混ざり合って、もう冷静さなんて欠片も残っていない。ジグは歯を食いしばり、再び踏み込んでくる。
でも、怒りのせいで、動きが大雑把だ。今度こそは、決めれるはず。
ジグの顎目掛けて、拳を思い切り突き上げる。
狙いは正確、怒りのせいで、大雑把な動きになっているジグには、避けらない……はずだった。
「なっ……」
「盾だよ、バカ女」
ジグが、顎下に魔力の盾を作り出し、わたしの拳を防いでくる。
グレン小隊長は、拳だけで盾を打ち破ることが出来ていたが、わたしにそんなことが出来るはずもなく、拳に返ってきた衝撃で腕がじんと痺れた。
ジグが、その隙を逃さず、踏み出そうとしてくる。
間に合わない。このままでは、殴られる。
けれど、盾を使えるのは、おまえだけじゃない。
私が作ることのできる盾は、極めて小さい。今まで銃弾を防ぐことが出来たのは、勘が良かっただけ。
きっと、この格闘戦で使ったとしても、躱されるのがオチだろう。だが、こういうのは使い方次第だ。
「コイツ――ッ!」
ジグの足元目掛けて、小さな魔力の盾を作り出す。その小さな段差に、彼は躓き、上体が倒れかかる。
けれど、殴ろうとしたところで、盾で防がれてしまうだけだろう。
だから――
「――ィ」
「落ちろ、馬鹿野郎っ」
腕をその首へと回し、力任せではなく、確実に気道を塞ぐ角度で締め上げる。ジグの体勢はすでに崩れていたため、抵抗する前に喉元へ圧がかかり、息が詰まったような声が漏れた。倒れかけた上体がさらに沈み、わたしの腕にその重みがずしりと乗る。
「っ……が……!」
ジグの指がわたしの腕を掴み、必死に引き剥がそうとするが、力が入っていない。呼吸が奪われ、焦りだけが先に立っているのが分かった。わたしは腕の角度を微調整し、より深く締まる位置へと滑らせる。
が、
「ぐっ……」
ジグの肘打ちが、わたしの脇腹にめり込んだ。締め上げていた腕が一瞬だけ緩むほどの衝撃で、肺の奥から空気が勝手に漏れ出る。
痛みが走り、視界が揺れた。だが、完全には離さない。離したら、次はわたしが倒される。
(……っ、痛い……でも、まだ締まってる……!)
ジグは苦しげに息を詰まらせながらも、必死に体勢を立て直そうと暴れる。
けど、わたしは絶対に離さない。
「離せぇ……」
「さっさと……落ちてぇ……」
わたしは絶対に離さない。ジグの声が掠れていく。腕の中で暴れる力が徐々に弱まり、指先がわたしの腕を掴む力も抜けていく。
わたしも何度も肘打ちを受け、意識が飛びそうになるが、あと少し、このまま締めれば――。
「――そこまでだ」
低く鋭い声が、空気を断ち切った。次の瞬間、わたしの腕に強い力がかかり、絞め落とす直前で強制的に引き剥がされる。身体が後ろへと引かれ、視界が揺れた。
「離せって言ってんだろうが、二人とも」
オーランド軍曹がわたしの腕を掴んだまま、ジグとわたしの間に割って入っていた。ジグは地面に手をつき、荒い呼吸を繰り返している。わたしの腕から離れた喉を押さえ、咳き込みながらこちらを睨んだ。
「ジグ、これで分かっただろ。セラの実力は十分だ」
「……ちっ」
「悪いな、セラ。コイツはまだガキなんだ。後から、死んだほうがマシだと思えるほど、訓練をさせるから、許してやってくれ」
オーランド軍曹はわたしの肩から手を離し、軽く息を吐いた。その声音には怒りよりも、呆れと、少しだけ申し訳なさが混ざっていた。ジグは喉を押さえたまま、悔しそうに地面を睨みつけている。わたしの方を見ようともしない。
胸の奥で渦巻いていた熱は、まだ完全には消えていなかったけれど、軍曹の声で少しだけ落ち着いた。呼吸を整えながら、わたしはゆっくりと姿勢を正す。
「……嫌いです。わたし、そいつのこと」
「はっ、言われてんぞ、ジグ」
オーランド軍曹に、笑いながら言われて、 ジグは喉を押さえたまま、悔しそうに顔を歪め、わたしを睨み返すことすらできずに視線を逸らす。
「……うるせぇよ」
かすれた声が地面に落ちた。怒鳴る力も残っていない。さっきまでの勢いはどこにもなく、ただ負けを認めたくない子どものように唇を噛んでいるだけだった。
わたしは胸の奥に残っていた熱が、少しずつ冷えていくのを感じた。怒りが消えたわけじゃない。でも、もうこれ以上ぶつける必要はないと思えた。
オーランド軍曹は、そんなわたし達を見て、短く息を吐く。
「それじゃあ、今から訓練を始めるぞ。さっさと位置につけ」




