目覚め
「ここ、は……?」
かすれた声が、自分の喉からこぼれたことに気づくまでに、少し時間がかかった。
目蓋を持ち上げると、そこに広がっていたのは、さっきまでいたはずの森ではなかった。頭上には木々の枝ではなく、白く塗られた天井があり、横を向けば、細い窓から差し込む光が見えた。湿った土の匂いではなく、薬品と布と、人の気配が混ざった、どこか乾いた匂いが鼻をくすぐる。
(……森じゃ、ない)
身体を動かそうとして、すぐに諦めた。全身が鉛みたいに重くて、力を込めても動かない。それは、まるで身体がシャットダウンしたように、どこにも反応が返ってこなくて、わたしの意志だけが空回りしているような感覚だった。
そんな時――
「セラさん!? 目を覚ましましたか!?」
「レン、伍長……?」
耳に飛び込んできたのは、聞き慣れた声だった。焦りと安堵が入り混じった、あの声。
顔を横に向けると、泣きそうな目をしたレン伍長が、椅子から立ち上がって、わたしの顔を覗き込もうとしていた。
その軍服には、うっすらと涙の痕が少し滲んでいて、どれだけの時間、わたしの側で座り続けていたのか――その答えは、レン伍長の疲れ切った目の下の隈と、震える息が物語っていた。
「ここは、どこですか……?」
「ここは、私たちが向かっていた、後方にある都市――ワンジェです。都市から出て索敵していた兵士が、森の中で倒れているセラさんを見つけて、ここに連れて来たんです」
「そう、だったんですね)
(ああ、くそ……。こんな時は、運が良いんだね……)
いつもこうだ。死からわたしを救ってくれる勘は、いつもわたしだけしか救わない。それに加えて、今度は運も、わたしだけを救ってしまう。ほんとに、ゴミだ。ほんとに、ムカつく。何で、何で……わたしだけなんだろう?
(でも、生き残ったんだ。生き残ってしまったんだ。それなら、生き残った者として、責務を果たさないと)
「レン伍長、グレン小隊長は……」
「セラさん、それについては、後から聞きます。今は、安静にしてください。……あの人のことを聞きたがっている人は、私以外にもいますから」
その言い方は、まるで自分自身にも言い聞かせているようだった。声は静かだったのに、胸の奥に押し殺した感情が滲んでいた。
レン伍長はわたしの手に触れようとして、しかし途中で止めた。触れたら壊れてしまうとでも思っているように、指先がわずかに震えていた。
「……もちろん、覚悟はしています。あの剣を見ましたし、状況を見れば、どうなったのかは察せれますから。それに、セラさんがここに運ばれていた時は、生死を彷徨っていたんです。もっと、安静にするべきですよ」
「そうですか……それなら、休ませていただきます」
少し、焦りのようなものはある。グレン小隊長が何を成し遂げたのか、それを伝えることが、わたしの役目だと思っているから。
でも、安静にして良いという言葉は、わたしにとって、ありがたいものだった。今、こうしている間にも、身体の奥からじわじわと疲労が滲み出してきて、意識の端がまた揺れ始めているのが分かる。
情けない……。あのグレン小隊長の下で戦っていたのに、もう身体が限界を迎えるなんて……。
「それでは、わたしは衛生兵を呼んできますね。目が覚めたら、呼ぶようにと言われてますから」
「……ありがとうございます」
レン伍長は、わたしの返事を聞くと、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。緊張がほどけたというより、張り詰めていた糸がようやく緩んだような、そんな表情だった。
そして、椅子の背に置いていた手をゆっくりと離し、立ち上がる。その動作ひとつひとつが、どれだけ長い時間ここに座っていたのかを物語っていて、軍服の皺も、乾いた涙の跡も、彼の疲労を隠しきれていなかった。
「それと……」
レン伍長は、わたしに背を向けた時、とても小さな声で、言葉を綴った。
「生きてくれて、ありがとうございます。私は、貴方が生きてくれていただけでも、救われましたから」
グレン小隊長とわたしが、レン伍長たちと離れた後のことは、けれど、その言葉の震え方だけで、彼がどれだけ辛い思いをしてきたのか理解させられた。
レン伍長は扉の前で一度だけ立ち止まり、振り返ることなく、深く息を吸った。その背中は、疲れ切っているのに、どこか必死に立っているように見えた。
「……すぐ戻ります」
その一言を残して、彼は扉の向こうへ消えていった。
部屋には、薬品の匂いと、崩れた壁から差し込む光と、わたしの浅い呼吸だけが残った。静けさが、やけに重く感じられた。
「セラちゃんだっけ? 名前合ってる?」
「はい、合ってます」
しばらくすると、見たことの無い衛生兵が、わたしのところまでやって来た。
出会ってすぐに、彼女はわたしの顔色と呼吸の浅さを一瞥し、状況を瞬時に把握したように表情を引き締めた。髪を後ろでざっくりまとめ、袖をまくった腕には、乾きかけた血の跡がいくつも残っていて、さっきまで別の負傷者を診ていたのだと分かる。
「よし、意識は戻ってるね。じゃあ、まずは状態を確認するよ」
そう言いながら、彼女は手際よくわたしの額に触れ、熱を確かめ、次に脈を取った。指先は冷静で、無駄がなく、触れられるたびに、わたしの身体の状態が彼女の中で整理されていくのが分かった。
「……ふむ。思ったより悪くない。生きて戻ってきたのは、本当に運が良かったね」
その言い方は、軽く聞こえるのに、どこか本気だった。
彼女もきっと、リナと同じで優しい人なんだろう。わたしが生き残ったことに、本気で喜んでいることが、ひしひしと伝わって来た。
「戦場に、戻れますか……?」
わたしはつい、そう言ってしまった。
戦場に戻ること。それは、生き残ったわたしの役目だと思っていたから、口が勝手に動いてしまったんだ。
「戦場に戻れる、か……。それなら、戻れると断言するけれど、そんなことよりも大事なことはあるでしょう?」
わたしを診ていた衛生兵は、わたしの言葉を聞くと、怒りのようなものを瞳に滲ませ、しかし声を荒げることはなかった。
むしろ、その怒りは――わたしに向けられたものではなく、わたしがこんな状態でそんな言葉を口にしなければならない状況そのものに向けられているように見えた。
「貴方ね、どんな状態でここに来たのか分かってるの? あと数分遅かったら、戦場に戻るどころか、ここでこうして話すことすらできなかったんだよ。しかも、お腹にへたくそな仮縫いなんかして……いったいどこで、それをしてもらったの? 何とか【癒】で治すことが出来たけど、あの傷のせいで、赤ちゃんが作れない身体になっている可能性だってあるんだよ!」
衛生兵は、目に涙を滲ませながら、そんなことを言ってきた。赤ちゃんが作れない身体……一般的に考えて、十四歳の少女がそうなってしまうのは、辛いことなんだろう。
(でも、そんなことより――)
前世が男だったせいで、恋愛にも、子供も作ることにも興味が無いわたしには、その程度のことはどうでもよかった。
わたしにとっては、これからも戦えるかどうかが、最も重要であり、もう二度と戦えないのであれば、それこそ……生きる意味が無くなってしまう。――だから、戦えなくなる方が、ずっと怖かったんだ。
「仮縫いは……自分でしました。敵に撃たれて、このままでは死んじゃうって思ったから……」
「自分、で……? それって、麻酔は……?」
「……ええ、ありませんでしたよ」
衛生兵が、信じられないものを見るような目で、わたしの方を見てきた。
そこに尊敬なんて欠片もなかった。
あるのは――純粋な恐怖と、理解を超えたものを前にした時の、ぞっとするような戦慄だけだった。
「……本気で言ってるの? 麻酔なしで、自分の腹を縫ったって……」
声が震えていた。怒りでも呆れでもなく、ただあり得ないという感情がそのまま滲み出ていた。
「そんなの、普通じゃないよ。痛みで気を失ってもおかしくないし、ショック死しててもおかしくなかった。……どうして、そんなことを」
「……それは、生き残る必要があったからですよ」
「でも、そんな――」
「前線の兵とは、そういうモノなんです」
彼女はゆっくりと息を吸い、わたしの目をまっすぐに見た。
その瞳には、恐怖と、そして、この子はもう普通の十四歳の少女じゃないという痛切な理解が滲んでいた。
「……そんなの、前線の兵でもしないよ」
声は震えていた。わたしを責めているのではなく、そんな状況に追い込まれた事実そのものに震えていた。
「自分の腹を、麻酔なしで縫うなんて……それは覚悟とか根性とかじゃなくて、命を捨てる覚悟がある人間のやることだよ。普通の兵士は、そこまで自分を追い詰めない」
彼女はわたしの包帯に触れ、指先をぎゅっと握りしめた。
「あなた……死ぬのが怖くないんだね」
その言葉は、責めるようでいて、泣き出しそうでもあった。
十四歳の少女が、そんな狂気じみた行動を当然のように語ることが、衛生兵である彼女にはどうしても受け止めきれなかったのだろう。
わたしは、ほんの少しだけ目を伏せた。
(怖くないわけじゃない。でも……)
死ぬよりも、戦えなくなることの方が、ずっと怖かった。
その価値観は、きっと彼女には理解できない。でも、わたしにとっては、それがすべてだった。




