怒り
(ん? ……あっ、まずっ)
音を立てないように歩いていると、どこからか足音が聞こえて来た。
さっきみたいに、枝上に逃げようとしても間に合わない。わたしは、反射的に近くの木の幹の裏へ身を滑り込ませた。
呼吸を殺し、体を縮め、気配を消す。
けれど――
「なぁ、音がしなかったか?」
(遅かった!?)
その音が前から戻って来た敵兵の一人に聞かれてしまっており、その恐怖で身体が固まってしまう。
なんで、ここまで戻ってきたのだろうか? 索敵をしているのなら、一度確認した場所に戻ってこないでよ!
「そうか? 俺には何にも聞こえなかったが」
「いいや、絶対に音がした。ちゃんと確認しないと」
「はぁ、お前がそこまで言うなら従うよ」
二人の足音が、ゆっくりと近づいてくる。落ち葉を踏む音が、ひとつ、またひとつ。隠れる場所なんて、ここには無く、このままでは見つかってしまう。
けれど、ここから出来ることなんて何もなく、わたしはただ木の幹にしがみついたまま、息を止めるしかなかった。
(どうしよう……どうしよう……!)
心臓の鼓動が、耳の奥でうるさいほど響く。
この音さえ聞こえてしまうんじゃないかと錯覚するほどだ。
「……この辺りだと思うんだがな」
「もう少し奥まで見てみるか」
足音が、すぐ近くを通り過ぎる。
けれど、完全に離れていく気配はない。むしろ、周囲のあちこちから別の足音が増えていく。
(え……なんで? なんでこんなに……)
右の茂みが揺れた。
左の方でも、金属の触れ合う音がした。背後からも、複数の足音が土を踏みしめる気配が伝わってくる。
(包囲……されてる……?)
敵に見つかったわけではない。なのに、周囲には敵が集まって来る。
喉がひりつくほど乾き、呼吸が浅くなり、逃げ道が、どんどん消えていく。
判断を間違えた。
こうなるくらいなら、限界まで走り、敵兵との距離を開けておくべきだったのだ。
体力を温存した判断は、結果的に最悪の選択になってしまった。
(どうしよう……いや、覚悟を決めないといけないのかな?)
選択肢の一つとして、敵兵を奇襲し、混乱している内に逃げるという手がある。
しかし、それはわたしの存在を敵に知らせてしまう上に、逃げている方角さえバレてしまうのだ。出来るだけ、その方法は使いたくない。
でも、それ以外の方法なんて、存在しない……。
だから――
(グレン小隊長……見ててください。覚悟は、決めましたから)
足音が近づいてくる。
ガサリ、ガサリ……そして、すぐ横に。
パァァァン
乾いた音が、森の中で響き渡る。
わたしの拳銃の銃口から、白い煙が細く立ちのぼる。
「な、なんだ!?」
「敵か!? 周りを見ろ!」
すぐ横まで迫っていた敵兵が、わたしに撃ち殺され、残った敵兵たちが混乱状態に陥る。
その隙に―――
(すみません、貰います)
わたしに撃ち殺された敵兵の身体が地面に倒れるよりも早く、その腰から手榴弾を引き抜いた。
冷たい金属の感触が、汗ばんだ指先に吸いつく。
スレブルクの手榴弾は、わたしたちのものと少し構造が違う。けれど、あの塹壕で暮らしていた日々で、敵兵が使うところを何度も見てきた。安全ピンの向きも、レバーの癖も、全部頭に入っている。
だから――迷いはなかった。
カチン。
ピンが抜ける乾いた音が、やけに大きく響いた気がした。
「いたぞ! バリエーヌの兵だ!」
ようやく敵兵が、わたしの姿を捉える。
でも――すでに、わたしは手榴弾を投げている。
「しゅ、手榴弾――!」
叫び声が上がる。その瞬間、空気が一気に張り詰めた。
爆炎と衝撃波が、敵兵の身体を飲み込み、森の一部を食らい尽くした。
轟音が空気を裂き、熱風が背中を押し飛ばす。木の葉が焼け、枝が折れ、土が跳ね上がる。耳の奥がキーンと鳴り、世界の音が一瞬だけ遠のいた。
でも――その一瞬の静寂こそが、生き残るための隙だった。
(今……!)
敵兵たちの視線は爆発の中心へと吸い寄せられている。誰も、わたしを見ていない。誰も、わたしの動きを追えていない。
わたしは地面を蹴り、手を頭上へ伸ばした。指先が、揺れる枝の一本にかろうじて触れる。
(届いて……!)
汗で滑りそうになる指を必死に引っかけ、腕に力を込める。
全身の力を使って身体を引き上げ、枝から枝を跳びながら、わたしは必死に木の上へと逃れた。
足場なんて安定していない。枝は細く、湿っていて、踏み外せばそのまま地面に落ちる。
でも、下にいるよりは何倍もマシだったし、グレン小隊長と戦った時に、同じようなことは経験している。だから、根拠こそ無いものの、このまま逃げきることが出来ると確信していた。
が
「兄さん、木の上」
冷たい声が、森の空気を切り裂いた。
次の瞬間、ヒュッ――と空気を裂く音がして、弾丸が頬をかすめた。
「――ッ!」
熱い線が顔に走り、バランスを崩して木から落ちてしまう。
何とか、受け身は間に合ったものの、身長よりも高いところから落ちてしまったせいで、肋骨付近には鈍い痛みが走った。
「すまん、外した」
「大丈夫、木から落とすだけでいい」
銃弾が飛んできた方を見れば、剣と銃を持った青年と、指示を出した同年代くらいの少女が、複数の兵を引き連れて木々の間から姿を現した。
「一人……まだ隠れている可能性は?」
「無いよ。もし他にもいたのなら、あんなぎりぎりの逃げ方をする必要は――」
少女の言葉を待たずに、わたしは拳銃の引き金を引いた。
だが――
「ゾフィア、危ないから下がってろ」
「兄さんなら、守ってくれるでしょ。それに、わたしが生き残ることよりも、敵兵を殺す方が重要だよ」
青年が、魔力の盾を作り出し、ソレを防いだ。
その魔力の盾は、グレン小隊長のモノよりかは柔らかそうではあるものの、わたしの銃では傷が入らないほど固く、敵もそれが分かっているため、一瞬たりとも焦りを見せなかった。
(まずい……)
ここには、グレン小隊長も、ルークさんも、シス伍長もいない。わたし一人だけで、あの青年と、複数の兵士たちから逃げないといけない。
胸の奥が冷たくなる。
肋骨の痛みが呼吸のたびに刺さり、足は震え、視界の端が揺れる。
そんなわたしを見て、少女――ゾフィアは、まるで壊れた玩具を観察するような目で言った。
「兄さん、動きが鈍い。落下の衝撃でどこか痛めてる。でも、兵士の損傷は最小限にして」
「わかった。みんな、アイツを囲め。だが、怪我をしないように注意しろよ!」
青年の声が森に響くと、周囲の兵士たちが一斉に動き出した。落ち葉を踏む音が四方から近づき、わたしの逃げ道をひとつずつ塞ぎ、銃弾を浴びせてくる。
「まずっ」
人員に被害が出ることを避けようとしているのか、彼らはわたしに近づこうとせず、遠くから撃っているだけ。そのおかげで、何とか木の幹などを壁にして生き残ることが出来ていたが、その代わり、包囲網に隙が無く、抜け出すことが出来ない。
今はまだ生きているが、死ぬのも時間の問題であり、どうにかして抜け出さないと、生き残ることは出来ない。
(いったい、どうすれ――っ!?)
嫌な予感がして、頭を下げる。
直後、わたしの頭があった空間を、鋭い光が横切る。
「避けられたか!?」
「くっ……」
いつの間にか、あの青年がすぐ近くまで迫っていた。
気配をほとんど感じさせないまま距離を詰め、わたしに向けて鋭い一撃を放っていたのだ。
(速い……! 気づけなかった……!)
わたしは地面を蹴り、必死に身体をひねって、懐目掛けて引き金を引く。
が、その銃弾は、青年の身体に届くよりも先に、魔力の盾に逸らされ、あらぬ方向へと飛んでいく。
これが、当たらない以上、わたしはこの青年を殺す手段が存在しない。
そして――
「右、退路を防ぐように撃って」
ゾフィアの声が落ちた瞬間、周囲の兵士たちが一斉に動いた。
わたしが逃げようとしていた方向へ、ためらいなく銃口が向けられる。
(まずい……!)
木の幹を盾にしていたはずなのに、わたしの動きが完全に読まれている。
青年の剣が前から迫り、兵士たちの銃撃が横から退路を塞ぐ。逃げ道が、音を立てて閉じていくようだった。
「こうなったら……」
再び、わたしは森の中という地形を生かして、枝の上へと登ろうとした。
痛む肋骨を押さえながら、手を伸ばし、指先が枝に触れ――
その瞬間。
「兄さん、敵じゃない。枝を切って」
その言葉と共に、掴んでいたはずの枝が切り落とされた。
わたしの身体は、枝に体重を預ける直前だった。上へ逃げるために、足を地面から離し、身体を宙へ浮かせてしまっていた。
だから、枝を失った瞬間、支えが消えた身体は、そのまま落ちるしかなかった。
「しまっ――!」
身体は、地から離れ、身動きが取れない。
そんな状況で、わたしの身体に銃口が向けられている。
死
避けることも、隠れることも、もうできない。
そして、銃弾が放たれた。
(ごめんなさい)
脳裏に、わたしを庇って死んだ、アインが浮かび上がる。
(ごめんなさい)
次は、助けることが出来なかったルカが。
(ごめんなさい)
その次は、囮になったルークさんやシス伍長たち先輩方が。
(ごめんなさい)
最後に、偉業を成し遂げたグレン小隊長が。
走馬灯が、流れる。
意識が遠のき、世界の輪郭が薄れていく。胸の奥が冷たくなり、視界の端が暗く沈む。
(ああ……ここで終わるんだ……)
そう思った瞬間――胸の奥で、何かが弾けた。
『死を受け入れるの?』
それはきっと、心の片隅でいつも思っていたことだろう。
前世の幸せだった世界から、この地獄のような世界に転生して。前世の記憶があるせいで、女になった身体に中々適応することが出来ず、女であることを受け入れた時には、友人って物が数えるほどしかいなくて。
その友人ですら、戦争に殺された。
理不尽だ、理不尽だ。あまりにも、理不尽だ。
(なんで……わたしだけ……)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
怒りとも悲しみともつかない感情が、熱となって込み上げてくる。
(なんで、こんな世界で……!)
わたしは、ただ生きたかっただけだ。
誰かを救いたかっただけだ。誰かに救われたかっただけだ。
(なんで、死ななきゃいけないの……!)
頭の中で何かが切れた。
大切な幼馴染が死に、慕ってくれていた後輩が死に、尊敬していた先輩たちが死に、どこか憧れてしまっていた小隊長が死んでしまう、この理不尽な世界に対して――尽きることの無い怒りが、次々と湧き上がってくる。
ここで死んでしまっても、かまわない。わたしの身体には、数えきれないほどの罪がのしかかっているから。
でも、死んでしまったら、この理不尽な世界に殺された仲間たちが報われない。
だから、だから――
「こんなところで、死んでたまるかァ!」
わたしはこの世界に、怒りを叩きつけた。




