生誕
「グレン小隊長……いや、分かってます。さようなら」
わたしは、グレン小隊長の最期を見届けると、涙を拭いて、振り返らずに駆け出した。
――生きて帰らなければならない。
それが、わたしに残された唯一の役目だった。
グレン小隊長が何を成し遂げ、どんな戦いを選び、どんな覚悟でこの場に立ったのか。それを伝えられる者は、もうわたししかいない。
だから、こんなところで倒れるわけにはいかない。泣き崩れることも、立ち止まることも許されない。
(わたしが帰らなきゃ……全部、無かったことになってしまう)
背後では、まだ戦場の音が続いていた。
土煙と叫び声が混ざり合い、遠くで何かが崩れる音が響く。でも、振り返らない。振り返れば、きっと足が止まってしまう。
(重い……けど、捨てられない)
しかし、わたしはグレン小隊長の剣を捨てられなかった。
汗で滑り、腕が震え、走るたびに重さが肩へ食い込む。それでも、手放すという選択肢だけは、どうしても浮かばなかった。
グレン小隊長なら、この剣を捨てても何も言わないだろう。むしろ、生きて帰れと怒鳴るに決まっている。
けれど――
(これは……小隊長が最後に、わたしに託したものだ)
あの人が残した唯一の形見。
あの人が、わたしに生きろと言った証。そして、あの人が何を成し遂げたのかを語るための、たった一つの証拠。
そんなものを、捨てるだなんてあり得ない。
「はぁ……はぁ……走らなきゃ……生きなきゃ……。それが……わたしが生まれた理由なんだ!」
そうして、わたしは走り続けたんだ。
身体はとっくに限界を迎えている。でも、心に身を任せて、わたしは足を動かし続けたんだ。
*
そして、これは少し前の話。
グレンがスレブルクの軍に突撃するよりも前のこと。
「にしても、何でここまで侵攻できたんだ? 十年も拮抗していたんだろ?」
とある青年が、側にいた少女に向かって、そんなことを聞いていた。
少女は、風に揺れる前髪を指で押さえながら、少しだけ考えるように視線を上へ向けた。
「あの指揮官の作戦が上手くいっただけ。そんなのも分からないのに、兄さんは伍長になったの?」
呆れた様子で、少女は肩をすくめた。
青年――シン・ネイは、むっとした顔で言い返す。
「おいおい、少しは戦況を理解しているからな。ゾフィアほどじゃないけど、先輩たちには褒められているんだから」
「わたしに負けてたら意味ないじゃん」
「それはそうだけど……」
シンの言葉を、妹のゾフィア・ネイが冷たく切り捨てた。
「それに、先輩たちに褒められているのは、先輩たちが甘いだけ。わたしがいなきゃ、兄さんは何にもできないんだから」
「わ、悪かったって! そんなことより、あのルイって指揮官の策を教えてくれよ!」
酷い言われように、シンは焦って話を変えようとした。
ゾフィアは、もちろんそのことを理解していたけど、あえて追及はしなかった。兄が必死に話題を逸らすときは、だいたい図星を突かれたときだと知っているからだ。
「……はぁ、分かったよ。説明すればいいんでしょ」
ゾフィアは肩を落とし、わざとらしくため息をついた。
その仕草に、シンはほっと胸を撫で下ろす。
「助かる! で、どんな策なんだ?」
「一応言っておくけど、わたしはただの一兵士。作戦名とかは知らないんだからね。でも、あの指揮官が使った方法は、従来の一点に力を集中させるやり方とは全然違うの」
「どう違うんだ?」
「敵の強い場所を正面から叩くんじゃなくて、逆。弱いところを、同時に、静かに突くのよ」
ゾフィアは指先で地面に小さな点をいくつも描くようにしながら続けた。
「普通は、どこか一か所を突破して、そこから広げていくでしょ? でもあの人は、敵が気づかないように、複数の薄い部分へ小さな部隊を送り込んだの。それぞれが深く入り込んで、後ろの連絡や指揮を乱す」
「後ろを……?」
「そう。前線を守ってる兵士たちが、後ろと繋がらなくなる。命令も届かないし、援軍も来ない。そうして孤立した隊を物量で潰し、さらに前へと進んでいくって戦い方。ま、対策自体は出来ないことは無い戦法だけど、初見じゃ無理だよね」
「へー」
ゾフィアの説明を、シンは話半分に聞き流しながら、相槌を打った。
その気の抜けた返事に、ゾフィアは思わず眉をひそめる。
「……兄さん、聞いてるの?」
「聞いてるよ、理解できてないけど。やっぱり俺は、前で敵を斬る方が好きだなぁ」
「あのね、戦争に好きとか嫌いとかは無いの。それに、個人の力なんて、戦場全体から見ればちっぽけな物なんだから。勝敗を分けるのは、戦略と戦術。これが完璧だったら、負けることは無いんだから」
「それは違うと思うけどなぁ」
シンはぼそりと呟いた。
ゾフィアは、聞き間違いかと思って一瞬だけ瞬きをした。
「……何が違うの?」
「いや、その……戦略とか戦術が大事なのは分かるよ? でもさ、結局、戦うのは人だろ。どれだけ頭で完璧に組んでも、現場にいるのは俺たちみたいな兵士だ」
シンは自分の胸を軽く叩きながら続けた。
「だから、最後に勝敗を決めるのは、やっぱり人の力なんじゃないかって思うんだよ」
ゾフィアは呆れたようにため息をついた。
兄妹の仲は、決して悪いというわけではない。けれど、考え方は完全に異なり、意見が一致することなんてほとんどない。
そして、兄が優しいことも原因になって、ゾフィアは兄のことをしっかりと見下していた。
「そんなので変わるわけないじゃんか。どれだけ人の力が強くても、戦場全体から見れば――」
そんな時だった。
何かが吠える音が、軍全体へと響き渡り、常に銃声と悲鳴が鳴り響く。
けれど、敵の軍隊は、どこにも見えず、自分たちの軍が何と戦っているのか分からなかった。
「な、何が――」
「兄さん、早く部下に命令して、何が起こっているのか探って! 初動が遅いと、取り返しがつかなくなる!」
ゾフィアの声は、いつもの冷静さを保ちながらも、明らかに緊張を帯びていた。
シンはその変化に気づき、慌てて周囲を見渡す。
「お、おい! 誰か状況を――」
言い終わる前に、また吠える音が響いた。
今度は近い。
地面が震え、空気が揺れ、兵士たちの顔から血の気が引いていく。
「アレは……」
誰かに探ってもらうよりも、自分自身の目で見たほうが早かった。何千もいる軍に、たった一人の敵兵が突撃し、蹂躙していたのだ。
鬼という言葉すら生ぬるいほどの、狂暴な武力。軍勢の中にぽっかりと空いた“穴”のような空白が、瞬きするたびに広がっていく。
その中心に、血を浴びた片腕の男が立っていた。
「な、なんだ……あれ……」
シンは言葉を失った。数と言う力が、アレの前では少しも通用せず、今この間も蹂躙を続けている。
運がいいことに、アレが目指しているのは、指揮官のルイだけであり、自分たちがいる場所は、その直線状から離れている。
だから、アレは自分たちの方を見ることすらせず、こちらから攻撃しない限りは、無傷でやり過ごすことが出来るだろう。
けれど、シンは腰を抜かしかけてしまっていた。
頭では分かっている。アレはこちらに向かっていない。
狙いは中央の指揮官で、自分たちは進路から外れている。だから、攻撃しない限り巻き込まれることはない――はずだ。
だが、身体が言うことを聞かなかった。
「な、なんで……足が……」
膝が笑う。呼吸が浅くなる。
視界の端で、兵士たちが次々と後退し、叫び、崩れていく。
そんな時――
「――さん! 兄さん!」
「痛った! 何すんだよ、ゾフィア!」
ゾフィアが後ろから、思いっきり蹴飛ばした。
「何すんだよって何!? 兄さんは伍長なんだよ、さっさと指揮を執って、アレを殺しに行かなくちゃ! わたしは、指揮権なんて無いんだから!」
「アレを殺すって!? そんなの無理に――」
「無理とか関係ない! もし、ルイ将軍が殺されたら、この戦争に負けるかもしれないんだよ!」
狼狽えていたシンとは違い、ゾフィアは自分たちが何をするべきなのか理解していた。
けれど、彼女たちは、何もすることは出来なかった。
グレンの進みは早く、言い争っている間にも、戦場の中心がさらに抉られていく。
「……嘘だろ……あれ、もう中央に……?」
シンが振り返った瞬間、背筋が凍りついた。
狂鬼は、まるで戦場そのものを押しのけるように進んでいた。兵士たちが左右に割れ、地面が裂け、空気が震える。
その進路は一直線で、迷いが一切ない。
「兄さん、もう間に合わない……!」
ゾフィアの声が震える。
そして――狂鬼の片腕が、ルイの前で振り上げられた。
乾いた破裂音。腕が吹き飛ぶ。
それでも、止まらない。
「あっ」
その言葉を言ったのは、シンだったのか、ゾフィアだったのか、それとも二人とは別の誰かだったのか。それは、誰にも分からなかった。
狂鬼がルイの首を噛み千切り、二人そろって地に墜ちる。
そして――
「ルイ将軍が死んだ!」
誰かの叫びが、戦場の空気を裂いた。
その瞬間、兵士たちの心から、最後の支えが抜け落ちた。
「う、嘘だろ……今の、一瞬で……?」
「将軍が……? あのルイ様が……?」
「待て、ありえない! だって、さっき腕を吹き飛ばしたんだぞ!?」
「なんで……なんで倒れねぇんだよ、あの化け物……!」
叫びが連鎖し、混乱が一気に広がる。
誰も指揮を取らない。誰も前を向けない。
「おい、どうすんだよ! 総大将が……総大将が……!」
「逃げろ! もう無理だ! あんなの相手にできるわけない!」
「隊列を……隊列を組み直せ! 誰か、命令を……!」
だが、命令を出す者はいなかった。
ルイ・ミネルヴァは、もういない。天才の声は、二度と響かない。
「嫌だ……帰りたい……帰りたい……!」
「やめろ! 勝手に下がるな! おい、戻れって!」
「無理だ! あれを見て戦えるやつなんていねぇよ!」
「待てって! アレはもう死んでんだぞ!」
兵士たちは、恐怖に飲まれた獣のように四方へ散っていく。誰かが転び、誰かが押し倒され、誰かが泣き叫ぶ。
戦場は、もはや軍ではなかった。ただの逃げ惑う群れだった。
「ゾフィア……俺たち……どうすれば……」
シンの声は震えていた。恐怖というより、理解が追いつかないという震えだった。
だが、ゾフィアは兄を見なかった。視線は、狂鬼とルイが倒れた戦場の中心に釘付けになっていた。
「あれが、個の力……」
それは、ゾフィアが一番見下していた物だった。
戦術と戦略を重視するゾフィアは、個の力など、あまりにも矮小な力であり、戦況を変えることすら出来ない物だと思っていた。
けれど、その個の力が、戦況をここまで大きく変えた。
戦術や戦略を、たった一人の力がすべてを壊し、九割九分勝ちだった情勢が、分からなくなってしまう。
その個の力が、ゾフィアのことを魅了していた。
「あははっ! あんなの、あんな暴力があるんだ! 知らなかったよ、わたしは! いいじゃん、ここに来て、本当に良かったよ!」
「ゾフィア……?」
見たことの無い妹の笑顔に、シンが顔を引きつらせる。
それは喜びでも興奮でもない。もっと危うい、もっと深い、もっと戦場に取り憑かれた者の笑みだった。
ゾフィアは、狂鬼とルイが倒れた中心を見つめたまま、息を震わせる。
「兄さん……分かる? 戦略も、戦術も、全部ひっくり返す力が……この世にあるんだよ。わたし、ずっと間違ってた。個の力なんて誤差だなんて……そんなの、ただの理屈だったんだ」
「ゾフィア……落ち着けよ……」
「落ち着いてるよ。むしろ、こんなに頭が冴えてるの、初めて!」
ゾフィアの瞳は、戦場の混乱を映しながらも、どこか輝いていた。
「兄さん、あれを見た? たった一人で、戦況を分からなくしたんだよ。こんなの……面白すぎるじゃん」
シンは、妹が何を言っているのか理解できなかった。
理解できたのはたった一つ。すべてを無にする化け物が、新たな化け物を生んだことだけ。
「そんな個の力を、戦術と戦略で潰せば、どれだけ面白いのかなぁ」
ゾフィアは、恍惚とした表情を浮かべて、まるで宝物でも見つけたかのように、戦場の中心を見つめていた。
その横顔に、シンは言葉を失った。
「ゾフィア……お前……」
「兄さん、指揮を執って。部下だけじゃない、出来るだけ多くの。おそらく、森の中に敵兵が数人は潜んでる。おそらく、今起きたことを味方に広めるためだ。それを許してしまうと、向こうの士気が上がってしまう。それだけは、防がないと」
妹を止めようとした瞬間、冷酷な命令がその口から発せられた。
恍惚とした表情のままなのに、 その命令は冷たくて、視線の先は戦場ではなく、未来を見ていた。
「何を……」
「兄さんは、伍長でしょ。しっかり役目を果たしてよ。そうしないと、この戦争に負けちゃうよ?」
シンは、妹に対して何も言えなかった。
ゾフィアの命令は、あまりにも正しいことであり、異論をはさむ余地はない。
「そうだな……従う、よ」
「いいじゃん、出来るだけ早くしてね。策なら、わたしがいくらでも練ってあげるから」
こうして、スレブルク最高の天才、ゾフィア・ネイが誕生した。
個の力に魅了され、戦場を愛した彼女が、歩み出した瞬間だったのだ。
その先が、地獄であったことは、今は誰も理解していなかったのだが。




