別れ
「チッ、やっぱりか……」
「いったい、何が……」
(リナ……)
それは、わたしたちが撤退している最中に、偶然目に入ってしまった光景だった。
遠目ではあった。遠目であったけど、見間違えるはずがない。
後方に下がった兵たちが暮らすテント。負傷者が運び込まれ、リナたち衛生兵が働いていた野戦病院。
あの、わたしたちが安全地帯だと信じていた場所が――ことごとく、燃えていた。
黒煙が空を覆い、炎が布を舐め、崩れ落ちるテントの影が、まるで悲鳴のように揺れていた。
「嘘、でしょ……?」
声にならない声が漏れた。胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛む。
リナがいるはずの場所。わたしが傷を負った時、何度も助けてくれた場所。仲間たちが、息を繋ぎとめていた場所。
そのすべてが、炎に包まれていた。
人影はない。敵兵の姿も、味方の兵たちの姿も。
だから、リナが生きているのか、それとも死んでしまったのか、それは何一つ分からない。
でも……
「いくぞ」
「……はい」
そこへ向かう時間なんて、わたしたちには残されていなかったのだ。後方が燃えているということは、わたしたちの部隊が前後に挟まれているということであり、いち早く戻らないと、四方八方囲まれてしまい、それこそ全滅してしまう。
だからこそ、いくら友達がいたとしても、そこに向かって駆け出すことは許されないのだ。
(お願い……敵兵が来るより前に撤退しただけで、無事に生きていてほしい。もう……誰も死んでほしくないんだから……)
わたしは、何とか足を前に運んだ。
リナが死んでいるかもしれないと思うと、心臓が握り潰されそうになってしまう。それでも、わたしが死んでしまったら、元も子もないんだ。
生きて、確かめないといけない。リナがどうなったのか、わたしの目で。
「ここからは、どのように撤退しますか?」
「このまま直進だ。最短距離を最速で移動しないと、挟まれて死む」
「了解です」
シス伍長とグレン小隊長の短いやり取りが、周囲の空気をさらに張りつめさせた。その声には迷いが一切なかった。
ここからは、駆け足でわたしたちは撤退していった。銃などの重たい物を身に着けていたものの、この二か月間の訓練のおかげで、わたしの体力は同年代の男子と比べものにならないほど増えており、何とか部隊の人たちについていくことが出来ていた。
しかし、それでも、成人男性の体力と比べてしまうと、わたしの方がずっと下だ。新兵でもあるレン伍長は、軍学校で鍛えていたこともあり、わたしよりも少しだけ体力が多く、この部隊の足を引っ張っているのは、わたししかいない。
でも、彼らはわたしのことを見捨てなかった。
ルークさん達は、わたしに対する優しさから、そんなことをしてくれたのかも知れないが、グレン小隊長は優しさなんてものを持ち合わせていない。
だから、わたしが追い付けるスピードで撤退しているのは、いつかわたしが役に立つ場面が来ると確信しているからだ。
(覚悟、しておかないと……)
隊の撤退速度を遅くしてまで、わたしを生かす理由――正確に察することは出来ていないけど、かなり重要な仕事をさせられることは、分かっている。
だから、今のうちに覚悟を決めて、いざという時にちゃんと役割を果たさないと、生かしてもらった意味が無くなってしまう。
それだけは、死んでもごめんだ。
わたしのせいで誰かが死ぬことは、もう耐えられない。
そうして、わたしたちは進み続けた。進み続けて、進み続けて……でも、うまくいくはずがなかったんだ。
そもそも、後方が壊滅しているということは、わたしたちが逃げている先に敵兵がいるということだ。
どの方向へ撤退しようとしても、いずれ敵とぶつかる。逃げ道なんて、最初から存在していなかった。
しかも、相手は逃げている先で待ち構えているだけではない。
敵兵は、この浸透戦術によって、戦線そのものを大きく押し上げていた。
そのせいで、わたしたちは取り残され、気づけば前後左右すべてに敵がいる状況へと追い込まれていた。
そして――そんな獲物を、敵が見逃してくれるはずがない。
「チッ、やっぱりか」
グレン小隊長の低い声と同時に、空気が裂けた。
銃声。
それも、一方向ではない。
右から。左から。前から。撤退の指示が早かったおかげで、まだ後方にいる敵兵たちは追いついていないが、この状況は余りにも悪かった。
それは、良くも悪くも、グレン小隊長のせいだろう。圧倒的な個人の武力があり、狂鬼と呼ばれ、恐れられてきたグレン小隊長が、この隊にいる限り、敵兵も最大限の警戒をして、一つの小隊を相手するのには多すぎるほどの兵を集めてきていた。
けれど、それは決して間違いではない。むしろ、わたしが敵兵の立場だったとしても、同じようなことをするだろう。――それほどまでに、グレン小隊長は脅威なのだ。
「全員、岩陰まで下がれ!! 急げ!!」
グレン小隊長の怒号が響き、わたしたちは散開しながら近くの大きな岩陰へ飛び込んだ。
銃弾が岩肌を削り、石片が頬をかすめる。息が荒い。心臓が痛いほど脈打っている。
それでも、全員が生きていた。
「……状況を報告しろ」
荒い息のまま、グレン小隊長が低く言う。
その声は落ち着いていて、恐怖を押し殺しているのではなく、最初から恐怖を感じていないような冷たさがあった。
「前方三十以上、左右にも展開中。後方には敵がいませんが、本隊がいる可能性があります」
シス伍長が即座に答える。
「完全に包囲……されていますね」
レン伍長が唇を噛む。
わたしは何も言えなかった。ただ、息を整えるだけで精一杯だった。
「撤退しますか?」
「馬鹿言うな。ここを突破しなきゃ、全滅だ」
シス伍長の問いに、グレン小隊長が即座に切り捨てる。
この状況を切り抜けるためには、本当にそうするしかない。でも……
「グレン小隊長、これ行けますか?」
「……分の悪い賭けだな。大抵は全滅、最良でも、オレ以外は全員死ぬ」
ということだ。
グレン小隊長は、確かにけた外れの武力を持っている。しかし、この人数差は余りにも大きく、個人の武力だけではどうしようもない。
むしろ、自分一人生き残る可能性がある方が、信じられない。
「そう言うことですか、後は任せましたよ」
「……そうか、悪いな」
「ええ、うまく利用してくださいよ」
すると、シス伍長が、よくわからないことを言い始めた。
「シス……伍長……?」
「ルーク、お前はどうする?」
「ああ、そっちに行くよ。理想に近いしな」
「なら、俺も行くか」「そうだな、楽しそうだし」「はぁ、めんどくせぇな。最後くらいは、ゆっくりしたかったんだが」
シス伍長だけじゃない、ルークさんも、他の先輩たちも、次々と意味の分からないことを言っている。
本当に、何を言っているの? 嫌な予感がするからやめてよ。
「取りすぎだ。数人よこせ」
「だってよ、シス。戻っとけ」
「馬鹿言うな、俺がいなかったらどうするんだよ。お前が戻れ」
「はいはい、それなら俺は……」
「ごめん、俺が悪かった。ルークはいてくれ」
わたしの心臓が、嫌な音を立てた。
――気づいてしまった。
彼らは、まるで当然のように、わたしたちの囮になろうとしてるんだ。
「まって、ください……」
声が震えていた。
止めなきゃいけないのに、喉がうまく動かない。
「悪いな、セラ。許してくれ」
ルークさんが、いつもの優しい手つきで、わたしの頭をそっと撫でた。
その仕草が、逆に怖かった。まるで――これが最後みたいで。
「ルークさん……や、やめて……そんなの……! ルークさんが行くくらいなら……わたしが――!」
「ダメだ」
わたしがルークさんの代わりになろうとした時、グレン小隊長の冷たい声が遮って来た。
「セラは応急処置が出来る。だから、オレの方に来い」
意味が、すぐには理解できなかった。でも、理解した瞬間、息が止まった。わたしは、生き残る側に選ばれたんだ。応急処置が出来るというだけで。
なんで?
どうして?
わたしは、仲間に先立たれたくなくて、応急処置が出来るようになったのに。誰かを助けたくて、死なせたくなくて、怖くても必死に覚えたのに。
そ“出来るようになったことのせいで、わたしだけが生き残るように選ばれてしまった。
(そんなの……そんなの、望んでない……!)
「セラ」
ルークさんの声が、優しく告げられる。何よりも優しい声のはずなのに、これまでで経験した中で、一番……怖かった。
「俺が望んだことなんだ、そんな顔をするな」
「でも……わたしは……ルークさんに、死んでほしくない」
ルークさんには、数えきれないほど、お世話になった。
この戦場に来た時から、わたしとアインのことを気に掛けてくれていて、アインが死んだ時も、わたしのことを止めてくれた。辛い時も、苦しい時も、いつも、いつも……わたしのことを助けてくれた。
「セラ……」
気が付けば、ルークさんの手を握っていた。
男性恐怖症になっていたはずなのに、無意識のうちに。
ルークさんは、わたしの手を握り返さなかった。
ただ、そっと包むように、逃げられないようにでもなく、縛るようにでもなく、ここにいると伝えるだけの力で触れていた。
その優しさが、いちばん残酷だった。
「悪いな。でも、許してくれ」
ルークさんの声は、いつもと同じ優しさを帯びているのに、どうしてこんなに冷たく感じるんだろう。
まるで、わたしの手を離す準備をしているみたいで。
「いや……いやです……! 許せるわけ、ない……!」
喉が痛いほど震えて、声がうまく出ない。それでも、必死に言葉を絞り出した。
「それなら、私が……」
すると、レン伍長が、そんなことを言いだした。
待って、そんなことは望んでない。誰も死なないでほしいだけだ。ルークさんの代わりになってほしいなんて、思ってない。
しかし――
「はぁ、お前には務まらねぇよ」
それを止めたのは、シス伍長だった。
「思いあがるな、お前はまだまだ未熟なんだ。囮みたいな重要な役目を任せることが出来ねぇよ。セラもだが、囮は俺やルークに任せて、前に進め」
「シス伍長……でも……!」
「でもじゃねぇよ。お前には、まだ早い。それに、筋が良いんだ。経験が足りないだけで、将来は俺を超えると保証できる。だから、今は生き延びて、前に進め。死ぬのは、俺たちの役目だ」
その言葉は、怒鳴り声でも、突き放す冷たさでもなかった。
優しさと誇りが、その声色に滲んでおり、シス伍長は胸を張って、レン伍長や、わたしのことを見ていたんだ。
「時間切れだ。これ以上は、待ってられない」
「ははっ、グレン小隊長も、優しさってものがあるんですね。別れの時間をくれるなんて」
「ふん」
「……ああ、そういう事ですか。なら、戦争が終わったら、退役したほうが良いですよ。向いていませんから」
「うるせェ、さっさといけ」
ルークさんの軽口に、グレン小隊長が冷たく言い放つ。
けれど、その声の奥には、ほんのわずかに――本当にわずかに、何かが滲んでいた。
それが何なのか、わたしには分からなかった。でも、ルークさんには分かったらしい。
「兵士の命は、戦争に勝つための部品――」
グレン小隊長の口癖。それを、ルークさんが口にした。
「俺は、俺たちは好きでしたよ、この言葉。グレン小隊長なら、俺たちの死を無駄にしない。生まれた意味を、見出してくれる気がしたから」
ルークさんは笑っていた。でも、その笑顔は、どこか寂しげで、どこか誇らしげで――わたしには、どうしても直視できなかった。
「セラ。悪いな、また背負わせてしまって。でも、これだけは言わせてくれ。お前は、胸を張って誇ることのできる、立派な後輩だ。だから、生きて帰れよ」
その言葉を最後に、ルークさん達は岩陰から飛び出した。
グレン小隊長と違って、魔力の盾を作ることが出来ない彼らでは、生き残ることなどあり得ない。
でも、部隊を全滅させないためには、彼らを助けに行くことが許されないのだ。
(なにも、いえなかった……)
握った拳から、血が滲む。視界はとうに涙で滲み、何がどこにあるのかも分からない。でも、耳だけは、残酷なほどはっきりと音を拾っていた。
――銃声。
――叫び。
――爆ぜる音。
囮班が飛び出した瞬間、世界が一気に色を変えた。
さっきまで岩陰にいたはずの人たちが、もうそこにはいない。
ルークさんも。シス伍長も。他の先輩たちも。
みんな、前へ。
死地へ。わたしたちを生かすために。
「セラ、行くぞ」
グレン小隊長の声が、背中を無理やり押した。
その声は冷たくて、鋭くて、でも――震えているように聞こえたのは、気のせいだろうか。
「……はい」
声にならない返事を絞り出し、わたしは足を動かした。
動かさなきゃいけなかった。
ここで立ち止まったら、囮になった人たちの意味がなくなる。
でも、足が重い。胸が痛い。呼吸が苦しい。
(どうして……どうして、こんな……)
前に進むたび、背後の銃声が遠ざかっていく。
それが、まるで――彼らの命の灯が、ひとつずつ消えていく音 のようで。
振り返りたい。でも、振り返れない。
振り返ったら、きっと、わたしは走れなくなる。
「セラ、下を向くな。前を見ろ」
グレン小隊長の声が、わたしの意識を引き戻した。
「……はい」
涙を拭う暇もなく、わたしはただ前を見た。前しか見られなかった。
背後で、誰かが叫んだ。誰かが倒れた音がした。誰かが笑ったような声も聞こえた。
でも、振り返れなかった。
(生きる……生きて、帰る……)
ルークさんの言葉が、呪いのように、胸の奥で何度も反響した。
――生きて帰れよ。
その言葉だけが、わたしの足を動かしていた。
死者
ルーク・ノーヴァ
シス・ミリーゼ
ギル・ロウ
ゴア・ベルク
ノーシス・フェル




