撤退
「クソじじい、何をしてんだよ!」
グレン小隊長が再び通信機をいじり、ダズ少将に悪態をつく。
だが、通信機は沈黙したまま。雑音すら返ってこない。
「……応答しろよ。クソが……!」
グレン小隊長の手が、わずかに震えていた。
彼が戦場で震えるのを、わたしは初めて見た。
(小隊長が……焦ってる?)
胸の奥がひやりと冷たくなる。
「小隊長、どうします?」
シス伍長が問う。その声も、いつもより低い。
「チッ、仕方がねェ。撤退するぞ!」
ソレは、信じられない言葉だった。
あのグレン小隊長が、撤退を口にした。こんなこと、今までで一度も無い。
この隊の突撃に他の隊が追い付くことが出来ず、孤立してしまいそうになったため、撤退してしまうことは何度かあったのだが、本来守るべき塹壕を捨ててまで撤退したことは、一度も無い。
どれだけ不利な状況であっても、グレン小隊長の力でその危機を切り抜けて来たのだ。そんな小隊長が、塹壕を捨ててまで撤退しようとするなんて……。
「わ、わかりました。後方まで――」
「違ェ、この戦線を捨てるぞ」
「…………は?」
グレン小隊長の言葉に、シス伍長が絶句した。
いや、シス伍長だけじゃない。ルークさんも、レン伍長も、他の歴戦の猛者たちすらも、全員がグレン小隊長の言葉の意味が理解できず……いや、理解こそ出来てはいるものの、その言葉を理解できてしまったからこそ、声を失っていた。
この戦線は、十年の戦争によって作られた国境だ。幾度も奪われ、奪い返し、血と泥と死体の山の上に築かれた、国家の境界そのもの。
その場所を――グレン小隊長が、自ら捨てると言った。
兵士たちの顔が、一斉に強張った。
怒りでも、恐怖でもない。
ただ、理解したくない現実を突きつけられたときの、あの表情。
「小隊長……今、なんて……?」
レン伍長の声は、かすれていた。
「聞こえなかったか? この戦線を捨てると言ったんだよ」
グレン小隊長は、淡々と言い放った。その声には迷いがなかった。
「馬鹿なことを言わないでください!! こんなことを決める権限は、貴方に無いはずです!」
「分かってんだよ、そんなことはァ! 責任は全てオレが持つ。だから、撤退しろ! 今は、個人の責任を考えている暇じゃねェ、国の存続危機なんだからよォ!」
グレン小隊長の声は、怒りだけでは無く、覚悟のような色を帯びていた。
「……オレだって、こんな判断したくねぇよ。だが、こうでもしねェと、国にどうしよもねェダメージが与えられるんだ! わかったら、さっさと撤退しろ!」
「は、はい!」
その時のグレン小隊長の目は、今まで見たことが無いほど、真剣な目をしていて、誰もいいえと言うことが出来なかった。
今、何が起きているのか正確にわかっている人は誰もいない。グレン小隊長すら、正確には理解しておらず、最悪なことが起きていると仮定して動いているだけ。
にもかかわらず、わたしたちは、その指示に疑うことはなく、ただ頷くしかなかった。
理由なんて分からない。状況も分からない。敵がどこにいるのかすら分からない。
それでも――グレン小隊長が撤退しろと言った。その事実だけで、全員が動く理由には十分だった。
何度も体罰を受けた。あの無茶な突撃で、仲間が死んだことだってある。
けれど、グレン小隊長ほど強い人は、他に知らない。だから、みんなはグレン小隊長の言葉を信頼しているのだ。
実際、この判断は正しかった。
もし、もう少しでも撤退が遅れてしまっていたら、この隊は全滅していただろう。
しかし、それでも、塹壕に来た時点で、遅すぎたのだ。
グレン小隊長の判断は、早かったものの、部隊が壊滅的な被害を受けることには、変わりがない。
それが、戦場という物なのだから。
この時何が起こっていたのか、それをわたしが知るのはかなり後だったのだが、グレン小隊長は、現状に限りなく近い状況を予想していたのだ。
浸透戦術、という物を知っているだろうか?
浸透戦術とは、敵陣の弱点を狙い小部隊で迅速に突破し、敵の後方を麻痺させ、前線を崩壊させる戦術であり、第一次世界大戦後半のドイツ軍で発展した戦術だった。
この世界では、まだ確立されていなかった戦法だったものの、敵国であるスレブルクはそれを、ほぼ完全な形で実行していた。
わたしたちが、敵兵が少ないと感じていたのは、敵が弱かったからではない。前線を薄くしていたのは、兵力不足だからでもない。
強固な塹壕線を正面から叩くのではなく、弱い部分を複数探して、そこから静かに、深く、後方へと入り込む。
わたしたちが気づかないうちに、敵は後方へと潜り込み、通信線を断ち、指揮所を襲撃し、後方を混乱させていた。
だから――
本部は沈黙した。 隣接部隊は応答しなかった。
また、狂鬼――グレン小隊長がいる小隊は、最低限の兵士しか配属されておらず、あまった兵士を他の場所へと回していたため、わたしたちは必然的に孤立してしまっており、他の隊からの助けが期待できない状況に陥ってしまっていたんだ。
この戦法により、わたしたちバリエーヌは、九万近くの死者を出してしまっていた。
それは、兵士の約三十五パーセントに当たる死者数であり、国家が崩壊するのも時間の問題だと言えるほどの被害だった。
なぜ、こんなことが起きてしまったのか。
それは、スレブルクのとある男性が原因だった。
彼の名前は、ルイ・ミネルヴァ。
軍人ではない。魔導士でもない。ましてや、英雄と呼ばれるような人物でもない。
ただの一人の若い男。
だが――彼は、この世界の誰よりも戦争を知っていた。
ルイ・ミネルヴァは、スレブルク軍の参謀として採用されたばかりの若い男だった。だが、彼が提出した作戦案は、どれも常識外れで、理解不能で、そして――恐ろしく合理的だった。
それらの作戦は、あまりにも常識とはかけ離れていたせいで、歴戦の将たちから反対され続け、軍から辞職させられて聖待った(しまった、かな?)こともあるのだが、彼の出自がとても高位な一族だったということもあり、最終的には採用されてしまったのだ。
その結果が、コレ。
彼の作戦は、わたしたちに絶大なダメージを与え、どうしようもないほど追い込んでしまったのだ。 その功績により、彼の立場は一気に向上し、軍全体への指揮権すら与えられることになった。
だが、それは単なる出世ではない。ルイ・ミネルヴァという一人の男が、国家の戦い方そのものを変えてしまった瞬間だった。
これからの戦いは、今までの常識と言うモノが通用しないほど、戦術も、兵器も発展し、古い考えの人達は淘汰され、新しい時代に適応した人のみが生き残る……そんな残酷な時代の幕開けだったのだ。
しかし、このルイ・ミネルヴァという男は、後世では、あまり知られていない。
もちろん、専門家のような人たちには、重要人物だとして知られているのだが、一般の人たちでこの人物のことを知っている人は、驚くほど少ない。……しかも、それは学校と言うシステムが、より浸透した時代でさえ、だ。
なぜか。
九万もの死者を出し、国家を滅亡寸前まで追い込んだ張本人であるはずの男が、なぜ歴史の表舞台から消えてしまったのか。
その理由には、ある惨劇と――そして、わたしと因縁深く結びつく、もう一人の天才の存在があった。
その天才があまりにも有名になりすぎたせいで、ルイ・ミネルヴァという男の名は、意図的に、あるいは自然に、歴史の影へと押しやられてしまったのだ。
ただし、これだけは明言しておきたい。
わたしは、その惨劇のすべてを知っている。
そして、もう一人の天才が誕生する瞬間にも立ち会った。歴史の裏側を、誰よりも近くで見ていたのは――わたしだ。
さて、回想はここまでにしよう。
何が起きたのかは、これからあなたが目にする出来事の中で、自然と理解していくはずだ。
これから語るのは、歴史の裏側と、TS兵士であるわたしが、どうやって戦場で生き残ったのか――ソレについての、その記録だ。
銃声が止むことのない塹壕で、仲間が次々と倒れていく中で、わたしは何を見て、何を選び、何を失ったのか。
バリエーヌとスレブルクの戦争の結果、および周辺国家の選択。
歴史の影に埋もれた、数々の英雄たち、大罪人たち、そして――人類史最悪の狂人。
そのすべてを、これから語っていく。
どうか、最後まで見届けてほしい。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
これで、第一章が終わります。ここからは、さらに戦争の厳しさに直面していきますので、読んでいただけると嬉しいです。
面白いと思いましたら、感想や☆などをいただけると幸いです。
次章も、どうぞよろしくお願いします。




