異変
「ほんと、大丈夫なのよね?」
「はい、この決断は自暴自棄とかじゃなくて、わたしが冷静にするべきだと判断したことですから」
「うーん、前みたいに自分を追い詰めてるとかじゃないってことは、わかっているんだけどね……。でも、危険だよ?」
「わかっています」
「ならいいけど……」
あれから何日か経った後、わたしは衛生兵のお姉さんを何とか説得して、仮縫いのための器具を貰うことが出来た。その説得は、簡単だったかと聞かれると、簡単と言えるわけも無く、その説得にはかなりの時間がかかり、最後には、お姉さんが深いため息をついて、わたしの肩にそっと手を置いた。
「一つ、これは絶対に覚えておいてね」
「覚えておくこと、ですか?」
「そう。それは、自分の命を一番大事にするということ。誰かの命を救おうとするのは、とても立派なことだけど、それは生きてるから出来ることなの。誰かを救おうとして、自分が死んでしまうのは本末転倒なんだから」
「わかりました」
そう答えた瞬間、お姉さんはほんの一瞬だけ目を細めた。その表情は、安心でも納得でもなく――心配という、どうしようもない優しさが滲んでいた。
でも、それ以上追求してくることは無かった。わたしの目を見て、この決意を変えることが出来ないと察したのか、それとも、呆れて何も言えなくなっただけなのか。それは、今の私には分からなかった。
(心配してくれているのは、わかっているけど……)
申し訳ないけど、この決心は、もう変えられないんだ。グレン小隊長に誓ってしまったことだし、わたしがするべきだと判断したことなんだ。だから、どれだけ反対されたとしても、やって見せる。
「セラちゃん、本当に大丈夫なの?」
「うん。それに、決して、銃弾の雨の中で応急処置をするわけじゃなくて、ちゃんと、塹壕の中に隠れるんだから」
「それならいいけど……」
ごめんね。これは嘘になるかもしれない。
塹壕の中は、塹壕の外に比べると安全だ。だけど、手榴弾を投げられたり、敵兵が突撃してくる可能性もある。だから、安全な場所とは決して言えず、死にかけたことだって、何度もある。
でも、リナのような衛生兵の人たちは、前線のことを知ることが出来ない。
だから、この嘘で、何とか誤魔化すことが出来たんだ。
「もうそろそろ、ブリーフィングが始まるから戻るよ」
「そっか。それなら、また今度ね。ずっと、待ってるから!」
「うん、絶対に帰ってくるよ!」
言葉を交わし、わたしは野戦病院を出て、雨の匂いが薄くなった外へと足を踏み出した。
いろいろなことが起きた、あの二日間の大雨は、もう跡形もなく消え去っており、地面にある水たまりしか、その名残を留めていなかった。空気はまだ湿っているのに、あの時の重苦しさはどこにもない。
ただ、静かで、少しだけ冷たい風が吹き抜けていく。
(……戻らないと)
今日から、わたしたちはまた前線に戻る。
その事実を思い出した途端、胸の奥がひやりと冷たくなった。風が頬を撫でていくのに、どこか呼吸が浅くなる。
(……大丈夫。やるって決めたんだ)
器具の入った袋を握りしめる指先に、自然と力が入り、わたしは一度だけ深呼吸をして、足を前に踏み出した。
――この時のわたしは知らなかった。いや、誰も知らなかった。
今までの戦争は、地獄でも何でもなく、これから始まるものこそが、本当の地獄だったということを。
「すみません、遅れました」
「チッ、やっと来たか」
「グレン小隊長、まだ集合時間の五分前ですよ。セラは、何も悪いことはしていません」
ブリーフィングをする場所に、わたしが戻ると、グレン小隊長が舌打ちでそれを迎え、ルークさんが何とかそれを和らげようとしてくれた。
正直、グレン小隊長の舌打ちには慣れているから、別に怖くも無いんだけど、それをしてくれる優しさが、本当にありがたかった。
「ふん。そんなことより、さっさと ブリーフィングを始めるぞ。今日は――」
そうして、ブリーフィングが始まる。どうやら、今日は突撃などせずに、塹壕に戻って、敵の突撃を耐え続けるだけら。ただし、その代わり、今日から数日間、塹壕の中で耐え続ける必要があるらしい。
まぁ、そんなことは何回も経験しているから、別につらいとは思わない。
でも、経験しているからと言っても、死なない保証はどこにもない。
戦争では、どんな人であっても、死ぬときは死ぬ。だから、安心なんてものは、どこにもなかった。
「じゃ、さっさと行くぞ」
グレン小隊長の短い号令で、場の空気が一気に動き出した。
わたしたちは最低限の準備を整え、それぞれの装備を確認しながら、塹壕へと続く泥道を歩き始めた。
雨は止んでいるのに、地面はまだぬかるんでいて、足を踏み出すたびに、ぐちゅり、と嫌な音がする。
空気は湿っていて、冷たくて、どこか重い。
(……また、ここに戻るんだ)
何度も往復した道なのに、今日はいつもより遠く感じた。
器具の入った袋が、歩くたびに小さく揺れる。その重みが、これからの数日間の現実を突きつけてくる。
前を歩く兵士たちは、誰も口を開かない。
ただ、装備の擦れる音と、泥を踏む音だけが、静かに続いていく。
ふと、隣に並んだルークさんが、小さな声で言った。
「……セラ、無理はするなよ」
その声は、雨上がりの空気よりも優しくて、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「はい。大丈夫です」
本当は、大丈夫じゃない。怖いし、不安だし、胸の奥はずっとざわざわしている。
でも、覚悟はとうの昔に決めている。
塹壕の縁が見えてくる。
今まで聞いたことが無い、音がした。
ソレは、大地を震わせる警報の音だった。
わたしがこの戦場に来てからの二か月間、たった一度も聞いた音が無い警報が、戦場に鳴り響いたのだ。
「る、ルークさん……」
経験したことの無いことに驚いてしまい、わたしはルークさんの方を見た。
しかし――長年従軍しているルークさんでさえ、目を見開いて、この警報に絶句しているだけだった。
ルークさんでさえ、知らない警報。
嫌な……とてつもなく嫌な予感がする。今まで命の危機に接した時に感じていた感覚とは違う、心臓が握りつぶされたような、どうしようもない嫌な予感。
アインの死とか、ルカの死とか、個人にとっての嫌な予感レベルではない。
むしろ、これは国の……
「シス!! さっさと通信機を使えェ!!」
「は、はい!!」
グレン小隊長の怒号が、警報音をかき消すほどの勢いで響いた。
だが、その声に焦りはない。怒っているようでいて、実際は冷静に状況を切り分けている声だった。
シス伍長が慌てて通信機を取り出し、冷汗をかきながらも操作を始める。
けれど、ツーツーと無慈悲な機械音がするだけで、その通信機から返答が来ることは無い。そのこと自体が、ただならぬことが起きたのだと示していた。
「つ、繋がりません!」
「チッ、なら――――ッ!!」
銃声と、それを弾く鋭い音がした。乾いた破裂音ではなく、もっと近い。
グレン小隊長の魔力の盾が、飛来した弾丸を弾き飛ばしたのだ。
「お前らァ! 塹壕の中に入れ!!」
怒号が響く。
その声に釣られて、わたしたちは塹壕の中に駆け込んだ。
グレン小隊長が守ってくれたおかげで、怪我人こそいなかったものの、突然の展開に、頭がついていかない。
「セラ、撃つぞ!」
「はい!」
でも、そんなことは、どうでもいい。
今は、この瞬間を生き延びるために、耐え続けないといけないんだ。




