決意
「お前ら、こんなところで何をしているんだ?」
低く、よく通る声だった。
雨音に混じっていたはずなのに、耳に届いた瞬間、周囲の空気がぴんと張りつめる。
「グレン小隊長……」
その言葉が、わたしの口から出たのか、レン伍長の口から出たのか、今のわたしには判断することすら出来なかった。
グレン小隊長が、塹壕の中で気を失ったわたしに対して、何も言わなかったことは知っている。だが、それでも怒っていないとは限らない。
もしかしたら、呆れて何も言えなかっただけかもしれないし、怒りを必死にこらえていただけかもしれない。
そう思うと、胸の奥がきゅっと縮こまり、わたしは塹壕の中にいる時以上に、身体が強張っていくのを感じた。
グレン小隊長は、わたしたちの前で立ち止まり、濡れた軍服の袖を軽く払うと、まずレン伍長へと視線を向けた。
「お前、ダズ少将のところに行っていたらしいな」
「は、はい」
「何か言われた?」
グレン小隊長が、わずかに顎を引いて問いかけた。
その声音は低く、淡々としているのに、返事を誤れば一瞬で空気が凍りつくような圧があった。
レン伍長は、喉を鳴らしてから答えた。
「グレン小隊長の、判断が正しいと……おっしゃって、いました」
「そうだ。戦場でどうしようもないほど狂った奴は、もう二度と役に立たない。むしろ、そんな奴は無駄に足を引っ張ってくる。覚えておけ」
「……はい」
それは、わたしが気を失う直前に、二人が言い合っていたことだった。レン伍長は、レオン二等兵を再度教育すれば、また兵として使うことが出来ると言う主張で、グレン小隊長は、もう使い物にならないという意見だった。
レン伍長の発言は、仲間を死なせたくないという思いを、どうにかして形にしようとした結果だったのだろう。
けれど、グレン小隊長の言葉は――戦場の現実を、容赦なく突きつけるものだった。
「何年、戦争を続けていると思っているんだ。レオンのような奴も過去に何人もいた。そのことごとくが、役に立たないゴミになったんだ。過去の失敗から目を逸らすな、甘さなんぞ、戦争に持ち込むな」
「………………はい」
甘さなんぞ戦争に持ち込むな……それを聞いて、わたしも叱られるような気分になってしまう。
レン伍長もそうだが、わたしも兵士としてはあり得ないほど甘い。仲間が死んでしまったら落ち込んでしまうし、あのレオン二等兵が死んだことすら、自分のせいだと思ってしまっている。
でも、この甘さを捨てきることは、絶対に出来ないんだ。この甘さは、わたしがわたしであるために必要な物であり、これからずっとわたしを傷つけていくものなのだから。
「で、お前は目を覚ましたんだな」
「は、はい!」
すると、グレン小隊長の目が、わたしに向けられた。
雨粒が肩に落ちる感覚すら、遠くに感じる。胸の奥がぎゅっと縮こまり、呼吸が浅くなる。
(……怒ってる? それとも……)
判断がつかない。
ただ、逃げ出したいような、立ち尽くすしかないような、そんな居場所のない感覚だけが身体を支配していた。
グレン小隊長は、わたしの反応を一瞥すると、ほんのわずかに眉をひそめた。
「目が覚めた後、どこに行っていた?」
「や、野戦病院で、衛生兵に応急処置について学んでいました!」
報告、連絡、相談。それは、グレン小隊長が重視していることの一つだ。それを怠って、体罰を受けている人は何人も見たことがあるし、わたし自身も、それで体罰を受けたことがある。
だから、勝手に応急処置について学んだことを叱られる可能性はあるものの、わたしは正直に報告したのだ。
「そうか……」
それを聞いて、グレン小隊長は怒るのではなく、一瞬だけ眉を顰めて何かを考え始めた。
何を考えているのかは、想像することすら出来ないが、どうせグレン小隊長のことなのだから、わたしが応急処置をすることが出来ると仮定して、頭の中で、戦場のシミュレーションでもしているのだろう。
グレン小隊長は、いつも無謀ともいえる突撃をしているが、実際は緻密な計算の上で動いている。
だから、出来ることが増えることは、彼にとって、戦術の幅が広がるという意味を持つ。
「どこまでできるんだ? 【癒】は使えるのか?」
「いえ、仮縫いだけです。それ以上のことは、技術的にも、権限的にも出来ません」
「それもそうだな。そっちの才能があるのなら、衛生兵になるだろうからな」
【癒】は、魔力を使って、怪我を治療する魔法だ。この世界には、特殊な力があり、魔導隊や衛生兵は、その力を使って戦争をより有利な方へと向かわせていくのだが、わたしたちのような前線にいる兵は、銃を使える程度の魔力しかない人か、魔力があっても、強力な魔法の適性が無くて、魔法を補助的に使用して、銃と剣で戦ったほうがいいと判断された人しかいない。
この場合、わたしは銃を使える程度の魔力しか無い人。グレン小隊長は、銃と剣を使って戦ったほうが良いと判断された人になる。……グレン小隊長のような人は、戦場で活躍することが多く、生存率はまだマシな方なのだが、わたしのような人は、本当に最低限でしかないため、何か優れている部分がないと、すぐに死んでしまう。
(まぁ、どんな人であっても、死ぬときは死ぬんだけどね)
「チッ、【癒】が使える奴が前線に居たら、もっと戦えるというのに」
「……そしたら、【癒】が使える人が狙われるだけじゃないんですか?」
「それもそうだな」
グレン小隊長は、わたしの返しに短く頷いた。
どうやら、グレン小隊長は、私に対して怒っていないらしい。報告もしっかりしたし、気を失ったことは不可抗力だと判断されていたようで、その点について叱責される気配はなかった。
けれど――だからといって、安心できるわけではない。
グレン小隊長は、わたしの顔をじっと見つめた。
その視線は鋭いのに、どこか値踏みというより、確認に近いものだった。
「……で、お前は、これからどうするつもりだ?」
「……どうする、とは……どういう意味でしょうか?」
その問いかけの意味は分かっていた。分かっていたからこそ、答えをはぐらかしてしまう。
でも、それを許してくれるほど、グレン小隊長は甘くない。
「その応急処置で、何をするんだって言ってんだよ」
応急処置が出来る。でも、前線でソレが出来る場面はほとんどなく、出来たとしても、銃弾が飛び交う中、頑張って身を隠しながら、するしかない。けれど、それは普通に戦っている時よりも、死ぬ可能性は格段に上がってしまい、その恐怖の中で冷静に針を通すのは、正直……出来る気がしない。
けれど、それが出来なければ、この応急処置の技術は、ただの自己満足だ。
もちろん、リナや衛生兵のお姉さんが、そういう意図で教えたのではなく、後方で休養している時に、元気であれば手伝ってもらうために教えたことは理解している。
でも――
前線に戻る以上、そんな安全な場所でだけ使える技術に意味があるのか、と考えてしまう。
(……わたしは、何のために覚えたんだろう)
衛生兵が治療する時は、焦りこそあれ、恐怖というものは存在しない。
でも、わたしが応急処置をする時は、その恐怖と向き合い続けなければならない。たぶん、わたしたち前線の兵士に仮縫いくらいの応急処置が出来る人がほとんどいないのは、その恐怖に耐えられないからだ。
(ふぅ……)
ここで、選択肢は二つ残っている。
一つは、後方に下がった時だけ応急処置をして、前線ではいつも通りに戦うこと。二つ目は、前線でもいざという時に応急処置をして、軍のためにより多くの貢献をすること。
前者は、ただ生き残るための選択だ。安全な場所でだけ針を持ち、前線では今まで通り銃を撃つ。
それなら、余計な危険を背負わずに済むし、わたしでも、きっと誰にも迷惑をかけずに、最後の時まで生き続けることが出来る。
でも――それは、今までのわたしと何も変わらない。
今までのわたしは、何も出来なかった。
アインの時も、ルカの時も、レオン二等兵の時も。これから、そういう場面があるのかもしれない。その時、今のままでは、同じようなことが起きるだけだ。
それだけは、わたしが死ぬよりも、ずっと……ずーっと、耐えられない。
「……出来ます」
「なんだ? もう一度行ってみろ」
「出来ます! 前線で、応急処置をやって見せます!」
「そうか、それならいい」
それがどれだけ難しいことかはわかっている。ただでさえ、前線は常に死と隣り合わせだ。そこにさらに、誰かの命を背負うという重荷が加わるのだ。わたしのような弱い兵士が、それを抱えきれるのか――そんな不安は、胸の奥で渦を巻いていた。
しかも、仮縫いをするための器具を、衛生兵のお姉さんに貰わないといけない。
あの人のことだ。きっと、わたしが危険な目に遭う可能性が高まる決断に、賛成しないだろう。でも……
それでも、言わなきゃいけない。
わたしが覚悟を決めた以上、誰かに止められたからといって引き下がるわけにはいかない。あの人が心配してくれるのは分かっている。優しいからだ。わたしが死ぬのを見たくないからだ。でも、それはわたしだって同じだ。誰かが死ぬのを、もう見たくない。
(……わたしは、逃げないって決めたんだ)
胸の奥で、静かに、でも確かに何かが固まっていく。
そんなわたしの内心を見透かしたように、グレン小隊長が口を開いた。
「レン、コイツを見習え。戦場の厳しさを知っていてなお、この選択をしてんだからよォ。お前のような、現実を知らずに、理想を語っていねェ」
その言葉だけを残し、グレン小隊長は、わたしたちの横をすれ違っていった。
雨の中、その背中はぶれず、迷いもなく、ただ前へと進んでいく。その姿を見送るだけで、胸の奥がじんと熱くなる。
「セラさんは、凄いですね……」
すると、レン伍長が小さな声で、そんなことを呟いていた。
「凄いって、わたしは……」
「いいえ、私はそこまで強くありません。現実を知って、それでも前に進もうとするなんて……私には、到底……」
レン伍長が、弱音を吐いてしまう。
それは、わたしも過去に経験したことであり、心が折れそうになった時だって、何度もある。でも、きっと貴方だって……。
「レン伍長だって、きっと出来ますよ」
「……出来ませんよ。私は、誰かが死んでしまうと、ここまで落ち込んでしまいますから」
違う、それは……わたしだって同じだ。わたしが前を向けるのは――
「大丈夫ですよ。わたしが前を向けるのは、大切な人が死んでしまったからなんです。大切な人が死んでしまったからこそ、前を向いて生きないと、その人に失礼じゃないですか」
ここに鏡が無くてよかった。
きっと、今のわたしの顔は、痛ましげな笑顔であっただろうから。
レン伍長は、そんなわたしの表情を見て、息を呑んだように目を見開いた。
「……大切な人、ですか」
「はい。幼馴染で、わたしを庇って死んだ、大切な人。わたしが前を向けるのは、強いからじゃないんですよ。だから、レン伍長も、いつかきっと前を向けます。……それが、誰かを失った時ではないといいんですけどね」
言ってしまってから、胸の奥がひどく痛んだ。
雨の冷たさとは違う、もっと深いところを刺す痛みだった。
レン伍長は、しばらく言葉を失っていた。雨音だけが、ぽつ、ぽつ、と二人の間に落ちていく。
「……セラさん」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「あなたは……本当に、強い人なんですね」
「違いますよ。弱いです。でも、弱いままでも……前に進めるんです」
レン伍長は、ゆっくりと目を伏せ、そして小さく頷いた。
「……そう、ですね。私も……いつか、そうなれたらいいな」
その言葉は、弱々しくて、でも確かに前を向いていた。わたしは、雨に濡れた前髪を指で払って、小さく息を吸い込んだ。
「じゃあ、また夕食の時で」
「ええ、また」
わたしは、濡れた地面を踏みしめながら、一歩を踏み出した。
怖い。でも、逃げないと決めた。
その一歩は、今までのわたしとは違う、確かな重みを持っていた。




