第87話 おしぼりの数
川向こうの洗濯屋は、夜が明ける前から湯気を上げていた。
裏の井戸の脇に大きな釜が三つ並んでいて、その一つ一つで、白い布がぐらぐら煮えている。
釜の番をしているのは、腕の太い年寄りだった。煮えた布を長い棒ですくい上げては、隣のたらいへ移していく。
たらいから立つ湯気で、年寄りの顔は真っ赤だ。
その奥では、若い者が十人ほど並んで、煮えた布を絞っていた。
「中洲へ持ってく荷車に、乗せてもらえませんか」
俺が頼むと、年寄りは棒を持ったまま、俺のコートを上から下まで眺めた。
「調査官が、洗濯屋の荷車に乗って何をするんだ」
「数えるだけですよ。おしぼりを」
「乗せる場所なんか無えよ。押すんなら、ついてきていい」
年寄りは、もう棒の先で、次の布をすくい上げていた。
ギンは、夜明けと一緒に水売りの男について回る手はずになっている。水は、あいつに任せた。
俺の後ろには、年かさの兵が一人ついてきていた。若い方は、ギンの方だ。
*
荷車には、乾いたおしぼりが、十本ずつ紐で縛って山のように積んであった。
年寄りが前で荷車を引いて、俺が後ろから押す。平たい渡し舟に荷車ごと載せて、川を渡る。
中洲に着いたのは、ちょうど店が閉まる頃だった。
ゆうべ鐘一つで開いた板戸が、今度は一枚ずつ、ばらばらに閉まっていく。
朝帰りの客が、千鳥足で舟着き場の方へ歩いてきた。荷車とすれ違いざまに、俺の顔を見て首をかしげている。
「最初は、こっちだ」
年寄りは、通りの表には入らずに、店の裏の細い路地へ荷車を回した。
どの店の裏口にも、使い終わったおしぼりの束が、籠に入れて出してある。
年寄りはその束を一つずつ持ち上げて、荷車の後ろの空いた所へ放り込んだ。代わりに、乾いた束を同じ数だけ籠に入れていく。
「数えないんですか」
「数えてるよ。束で数えてんだ」
「束の中は」
「十本に決まってる。縛ったのは、わしだからな」
年寄りは、湿った束を一つ俺の手に押しつけた。
縛り目の紐が、洗濯屋の釜の湯で色が抜けて、白っぽくなっている。
「わしは一本いくらで洗ってる。一本でも違ったら、わしの損か、店の損だ」
「どっちかが、文句を言いに来る」
「そういうこった。だから、四十年、一本も違ったことはねえ」
三軒目の裏口で、店の若い者が籠を出しに来た。
まだ前掛けをしたまま、目の下が黒い。ゆうべから寝ていない顔だった。
「おしぼりは、お客一人に何本出すんです」
俺が聞くと、若い者は、荷車を押している俺を不思議そうに見た。
「座ったときに、一本ですよ」
「二本目は」
「出しません。洗い賃がかかるんで、二本目からは客に言われても渋れって、主人に」
若い者の後ろから、その主人らしい男が顔を出した。
あくびをしかけた口のまま、荷車の後ろにいる俺のコートを見て、目を丸くする。
「おいおい、調査官どのが、洗濯屋の荷車を押してるよ」
主人の声を聞いて、隣の店の裏口からも、何人か顔が出てきた。
どの顔も、ゆうべから寝ていない顔だ。
「何を数えてるんだい、調査官どの」
「おしぼりですよ」
俺が答えると、さっきの主人が、あくびの残った口で言った。
「数えたって、払う金は無いよ」
路地じゅうの裏口で、どっと笑いが起きた。
「うちなんか、毎晩赤字でね」
「赤字の店が、どうして毎晩開けるんです」
「顔役の鐘が鳴るからさ」
主人は、当たり前のことを聞くなという顔で、また笑った。
笑いながら、湿った束の籠を、足で年寄りの方へ押してよこす。
俺は返事をしないで、荷車の後ろに肩を当てた。
払う金が無え店が、毎朝おしぼりを百本も洗いに出すかよ。
*
路地を一回りするあいだ、年寄りは一度も束を落とさなかった。
店の名前を言いながら、束を放り込んでいく。七つ、十二、九、二十。
口の中で数を足しているのが、後ろから押していても分かった。
俺も、同じ数を頭の中で足していく。
「さっきの店は、きのうより束が二つ多かったですね」
「ゆうべは、川上の町で市が立ったからな。客がまとめて下りてきたんだ」
「二つで、二十人」
「二十人だ」
年寄りは、振り返りもしなかった。
そのあいだ、年かさの兵は、荷車の横を黙って歩いていた。
路地の角を曲がるたびに、兵は後ろを振り返る。俺も、つられて振り返った。
誰もついてきていない。
閉まりかけた板戸の隙間から、店の若い者がこっちを見ているだけだ。目が合うと、どの顔も、笑って頭を下げてくる。
「上席どの。誰も、ついてきてはおりません」
「それが、気持ち悪いんですよ」
年かさの兵は、少しだけ眉を寄せた。
「殴られぬ方が、よろしいのでは」
「殴りに来る所なら、殴る奴の顔が見えるでしょう」
兵は、それには何も返さなかった。
*
舟着き場では、川上から下りてきた舟が三艘、樽を下ろしていた。
酒の問屋は、桟橋の端に机を一つ出して、運び込まれる樽の前で金を受け取っている。
でっぷりした五十がらみの男で、俺が近づいていくと、机の上の銀貨を手のひらでさっと寄せた。
「樽の数でしたら、わしは何も存じません」
「まだ、何も聞いてませんよ」
「聞かれる前に申し上げただけです。顔役に聞いてくだされ」
問屋はそう言って、銀貨を革袋に落とした。
なるほど、普通の商人だ。言っちゃまずいことは、聞かれる前に言わない。
ところが、問屋の後ろで樽を転がしていた若い人足が、額の汗を拭きながら口を挟んだ。
「顔役の店なら、毎朝十樽ですよ。おれが転がしてくんだから」
「おい」
問屋が振り返ったが、若い人足は気にもしていない。
「ほかの店は、だいたい毎朝二樽か三樽です。でかい茶屋だと、五樽」
「一樽で、杯何杯になるんです」
「百杯ってとこですかね。うちの親方が、そう言って売ってますよ」
「毎朝、それだけの樽が下りてくるんですか」
「舟が三艘で足りねえ日は、昼にもう一艘来ますよ」
問屋は、天を仰いで、机の上に肘をついた。
渡し舟の方から、朝帰りの客が一人、ふらふらと桟橋を歩いてきた。
上等な上着の前が、すっかりはだけている。俺の隣で足を止めると、問屋の机に寄りかかって、大きく息を吐いた。
「なあ、問屋さんよ。あんたんとこの酒、一杯で銅貨五枚は高すぎやしねえか」
「店の値だよ、旦那。わしの値じゃない」
「ゆうべだけで、銀貨三枚だぞ」
客は問屋の机を一つ叩いて体を起こすと、渡し舟の方へ、また千鳥足で戻っていった。
問屋は、もう俺の顔を見ようともしなかった。
*
荷車が空になったのは、日がすっかり昇った頃だった。
年寄りは、舟着き場の屋台で、揚げた川海老を一盛り買った。荷車の縁に腰を下ろして、殻ごとばりばり噛んでいる。
俺も同じのを一盛り買って、隣にしゃがんだ。
熱い殻が口の中で砕けて、塩が舌に残る。
頭の中で、今朝の勘定を一つずつ並べ直した。
おしぼり一本が、客一人だ。
客一人が一晩に払うのは、さっきの客の言い分で、銀貨三枚ほど。
それなら、一晩に百本出す店の売上は、一晩で金貨三十枚になる。
そんな店が、この中洲には何十軒もあるのだ。
口の中の海老を飲み込んだら、喉の奥が少し熱くなった。
「爺さんは、税を払ってるんですか」
俺が聞くと、年寄りは海老を噛む口を止めた。
「払ってるよ。わしは川向こうの者だ。毎年春に、川向こうの署へ持ってく」
「洗い賃の儲けを、ですか」
「おしぼり十本で、銅貨一枚。去年は、それで金貨四百枚ほど儲かった」
年寄りは、海老の殻を指で弾いた。
「二割の八十枚は、ちゃんと払ったぞ。中洲の連中に笑われながらな」
中洲の客の数は、川向こうの署の窓口に、とっくに届いていたってわけだ。
誰も、それを数えてみなかっただけで。
「何を笑ってる」
年寄りが、海老の尻尾を川へ放りながら言った。
「笑ってませんよ」
「笑ってるよ。顔が」
俺は、口の端を手の甲で拭った。
海老の塩がついていただけだ、たぶん。
「一つ、聞いてもいいですか」
「海老一盛りの分ならな」
「この中洲で、一番束の多い店はどこです」
年寄りは、荷車の縁から腰を上げた。
「今朝の路地には、出てこなかった店だよ」
「出てこなかった、というと」
「あそこのは、店の若い者が、わしの家まで担いでくる。毎朝、三百本だ」
年寄りは荷車の取っ手を握り直して、通りの奥の方を顎で示した。
ゆうべ、鐘の鳴った方角だった。
「一番多いのは、顔役の店だ」
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