第86話 中洲
川舟は、朝から一度も櫂を使っていない。
雪解けで膨らんだ川が、黙っていても舟を南へ運んでいくからだ。
積んでいるのは、酒樽が四十。あとは俺とギンと、王都の兵の二人だけだった。
船頭は艫に座ったまま、ときどき長い棹で舟の向きを直している。
東の山すそから舟で下る道は、王国の真ん中の、あの街を通らない。
舟に乗って三日目の昼には、樽の数も、とうに数え飽きていた。
「この樽は、中洲で下ろすんですか」
樽の一つに肘をついて聞くと、船頭は川の先を見たまま、うなずいた。
「中洲の酒の問屋へ下ろす。月に三度、この舟で四十ずつだ」
「月に、百二十樽ですか」
「夏になりゃ、五十ずつに増えるがな」
俺が指を折りはじめたところで、舟べりのギンが、川の水から手を上げた。
「ヘイジさん、肘」
「肘がどうした」
「樽の角で、また擦れてますよ。せっかく当ててもらったのに」
コートの肘を見ると、内側から当てた布が、少し毛羽立っていた。
色は、コートの方より、まだいくらか明るい。
俺は黙って、肘を樽から下ろした。
「船頭さん。中洲の店は、酒の代をどうやって払うんです」
「どうやってって、銀貨か金貨だよ」
「領収書は」
「何だ、そりゃ」
船頭は、本当に知らないという顔をした。
「樽を下ろしたら、問屋がその場で金を数えて寄越す。書いた物なんざ、中洲で見たこともねえな」
なるほど。書いた物が一枚も無えなら、数える物はほかにいくらでもあるってわけだ。
舳先の方では、若い方の兵が青い顔をして、川面から目をそらしていた。
三日前に舟に乗ってから、ずっとあの顔だ。年かさの兵が、黙って水袋を差し出している。
「それとな、調査官さん」
船頭が、棹を水から抜いた。
「中洲に舟を着けたら、まず顔役に挨拶しときな」
「顔役、ですか」
「挨拶しねえ奴の荷は、次から誰も積まなくなる。中洲ってのは、そういう所だ」
「どこへ行けば、会えるんです」
「行かなくたって、向こうから来るさ」
*
四日目の昼前に、川がいきなり広くなった。
向こう岸がかすんで見えるほどの川の真ん中に、細長い島が一つ浮かんでいる。
島の上には、二階三階の木の建物が、隙間も無いくらいに並んでいた。どの窓も板戸を閉めていて、軒に巻き上げた布の看板が、風にばたばた鳴っている。
屋根という屋根に、白い布が何百枚も干してあった。
「あれ、全部手拭いですか」
ギンが、目を細めて屋根を見上げた。
「おしぼりだろ。客の手を拭くやつだ」
「あんなに要るんですか」
「要るから、干してあるんだよ」
中洲の舟着き場は、昼だというのに静かだった。
樽を下ろす人足が二人と、天秤棒で水の桶を担いだ男が一人いるだけだ。
水売りの男は、俺たちの舟とすれ違いに、空の桶を担いで渡し舟の方へ下りていく。
ギンが、その背中を目で追った。
「川の真ん中なのに、水を買うんですか」
「中洲の井戸は、塩っ辛くて飲めねえんだよ」
船頭が、樽の縄をほどきながら言った。
「飲む水も、洗う水も、みんな川向こうの井戸から、ああやって担いでくるんだ」
桟橋の端に、年寄りが一人立っていた。
七十には届いているだろう。洗いざらしの紺の上着に杖をついて、日なたで目を細めている。
舟が桟橋に着くと、年寄りは杖をついたまま、こっちへ歩いてきた。
笑うと、目尻の皺が耳の方まで寄っていく。
「よく来なすった。噂の強欲な調査官どのだね」
「どの噂です」
「一番強い冒険者に二度殴られて、二度とも起きたって噂さ」
年寄りは、俺の眉の上の白い筋に目をやった。
「その傷が、二度目の分かい」
「一度目の分ですよ。二度目は、腹に来たんで」
年寄りは、声を立てて笑った。
笑いながら、俺の後ろの兵の二人にも、ちゃんと頭を下げる。
「兵隊さんも、遠い所をご苦労さま。だけどね、中洲じゃ剣は要らないよ」
年かさの兵は、剣の柄から手を離さなかった。
「この中洲で、調査官どのを殴る奴は一人もいない。わしが、そう言っておいたからね」
年寄りは、こともなげにそう言った。
船頭が、慌てて舟から跳び下りてくる。年寄りに向かって、帽子を取って腰を折った。
「顔役。今月の二度目の樽です」
「ご苦労さん。問屋が待ってるよ」
向こうから来る、とはこういうことか。
*
顔役は、舟着き場から通りの奥まで、俺たちの先に立って歩いた。
昼の中洲は、店がどこも眠っている。
閉めた板戸の前を、前掛けをした若い者が箒で掃いていく。割れた杯の欠片が、ちりとりの中で鳴った。
二階の窓が一つだけ開いていて、女が毛布をはたいていた。顔役に気づくと、はたく手を止めて、頭を下げる。
顔役は、杖を持っていない方の手を軽く上げて応えた。
「この通りの店の半分は、わしの店でね」
「残りの半分は、どなたの店です」
「いろいろさ。わしは、面倒を見てるだけだよ」
顔役は、通りの角の、ひときわ大きな茶屋の方へ顎をしゃくった。
「あそこは、王都のお偉いお家の持ち物だ。そういう店の面倒も、見てる」
「帳簿は、どちらで見せていただけます」
「帳簿?」
顔役は、杖の先で石畳を一つ叩いて、また笑った。
「そんな物は、この中洲には一冊も無いよ。数えたいなら、好きなだけ数えるといい」
「そうさせてもらいます」
俺の後ろから、ギンが一歩前に出た。
「顔役さんは、税を払ったことはあるんですか」
兵の二人が、そろってギンの顔を見た。
顔役は、怒りもしないで、ギンの顔をしげしげと眺めている。
「無いねえ。取りに来た調査官なら、昔、一人いたがね」
「その人は、どうしたんですか」
「帰ったよ」
顔役は、それだけ言って笑った。
「宿は、わしの店の二階を空けてある」
「署の方で、取ってもらってるはずなんで」
「署?」
顔役は、今度は笑わなかった。
困った孫でも見るような顔で、俺を見上げる。
「中洲に、署なんて無いよ」
「歓楽街の署へ移す、って辞令だったんですがね」
「川向こうの町の署の、出張所に、机が一つあるきりさ」
俺の後ろで、ギンが小さく咳払いをした。
顔役は、舟着き場の脇に止めてあった渡し舟を、杖で指した。
「渡しは、わしが持とう。夕方には、向こうの宿にも話を通しておくからね」
俺は返事をしないで、渡し舟の方へ歩いた。
渡し守の手のひらに、自分で銅貨を四枚載せる。
渡し守は、銅貨と顔役の顔を見比べていた。顔役がうなずくと、ようやく銅貨を握り込む。
「またおいで、調査官どの」
舟が岸を離れても、顔役は桟橋の端に立ったまま、杖に両手を重ねていた。
*
出張所は、川向こうの舟着き場の、渡し小屋の二階にあった。
狭い部屋に、机が一つ。
その机で、白髪の役人が一人、頬杖をついて眠っていた。
俺が戸を叩くと、役人は飛び起きて、口の端を袖で拭う。
「中洲を調べに、ですか」
「ええ。今日から、ここに座らせてもらいます」
「そりゃまた」
役人は、寝起きの目で自分の机を見下ろした。
「わしがここに座って十二年になりますがね。中洲から申告を持ってきた店は、一軒もありませんよ」
「一軒も、ですか」
「持ってこなくたって、誰にも何も言われませんでしたから」
役人はそう言って、机の上の物を腕で抱えると、窓の脇の丸い腰掛けへ移っていった。
机は、それきり俺の物になった。
*
日が落ちると、宿の裏の川べりに、人が出てきた。
川向こうの町の連中が、石垣に腰かけて、中洲の方を眺めている。毎晩のことらしい。
ギンと二人で石垣の端に座ると、兵の二人は、少し離れた所に立った。
若い方の兵は、まだ顔が白い。
中洲は、黒い影になって川に浮かんでいた。灯りは、一つも点いていない。
「昼より静かですね」
ギンがそう言ったとき、中洲の真ん中で、鐘が一つ鳴った。
川を渡ってきた音が、石垣に当たって消える。
それと一緒に、中洲じゅうの灯りが点いた。
端から順に点いていったんじゃねえ。百も二百もある窓が、鐘の一つで、いっぺんに明るくなったのだ。
板戸の開く音が、ここまで聞こえてくる。巻き上げてあった看板の布が下ろされて、灯りの前で揺れはじめた。
石垣の連中は、誰ひとり驚いていない。
隣に腰かけていた漁師らしい男が、俺のコートをちらりと見た。
「あれは、顔役の店の鐘だよ。中洲の店は、あの鐘が鳴るまで、一軒も戸を開けねえんだ」
「鐘一つで、ですか」
ギンが聞き返すと、男は当たり前だという顔でうなずいた。
あの年寄りの杖が、石畳を一つ叩いたのを思い出した。
灯りは、黒い川の水にも、そっくり同じ数だけ映っている。
おかげで、数える物が倍に見えやがる。




