第85話 弱み
財務院の門番は、噂話の好きな男だ。
冬の終わりの朝、私が門をくぐると、門番は待ちかねていたように詰所から顔を出した。
「使いどの。東の山すその話は、もうお聞きになりましたか」
「何の話です」
「冒険者の街の上席どのですよ。王国で一番強いっていう冒険者に、二度も殴られたそうで」
門番は、自分の頬を拳で軽く叩いてみせた。
「二度とも起きて、二度とも同じ額を言ったんだとか」
「どなたから、それを」
「ゆうべ、東から荷車が一台着きましてね」
「荷車、ですか」
「引いてきた年寄りの運び屋が、そこの馬留めで、夜じゅうしゃべってたんですよ」
門番が、門の脇の馬留めの方を指さした。
荷台に布を被せた荷車が一台、朝の霜をかぶって止まっている。
「旦那の荷を二十年引いてきたが、今年からはギルドの荷だ、ってね」
「はあ」
「それを、十ぺんは聞かされました」
門番は、そこで声を落とした。
「殴った冒険者の方は、それから税を引かれても、文句一つ言わないんだそうですよ」
「冒険者が、ですか」
「一番強いのが黙って払ってりゃ、ほかの連中も黙るしかないでしょう」
私は礼を言って、門を離れた。
二度殴られて、二度起きた。
あの男らしいと思ってしまったのが、自分でも少しおかしかった。
*
財務院の東の階段で、宰相閣下のお屋敷の者とすれ違った。
灰色の上着を着た、背の低い年寄りだ。毎朝、お屋敷から書記たちの部屋へ書状を届けに来る。階段で顔を合わせたことは何度もあるが、口をきいたことは一度もない。
その朝も、年寄りは私に会釈だけして、下りていこうとした。
すれ違いざまに、年寄りの口が動いた。
「殴っても駄目なら、弱みを握るしかありませんな」
私は、足を止めて振り返った。
年寄りは、もう階段の踊り場を曲がるところだった。灰色の背中は、一度もこちらを振り返らない。
私に言ったのか、独り言だったのかは分からない。
ただ、私の耳にちょうど届くくらいの声だったことだけは、確かだ。
*
次官の部屋の炉には、その朝も火が入っていなかった。
次官は指先を赤くしたまま、机に向かってペンを動かしている。私が入っていっても、顔は上げない。
「冒険者の街から、届けがまいりました」
「言え」
「ギルドと買取所が、夏の終わりから冬までに引いて納めた分が、金貨で六千枚を越えております」
次官のペンは、止まらなかった。
「去年までは、冒険者の申告は、一枚もございませんでした」
「続けろ」
「最強と呼ばれる冒険者の追徴が、八百枚でございます」
「大問屋は」
「一万五千枚。どちらも、異議は出ておりません」
大問屋が宰相閣下の甥御だということは、この部屋で口にしなくても、次官はご存じだ。
私は少し迷ってから、階段の話もした。
「宰相閣下のお屋敷の者が、今朝、階段ですれ違いざまに申しておりました」
「何と」
「殴っても駄目なら、弱みを握るしかない、と」
ペンの音は、それでも途切れなかった。
窓の外で、中庭の木から雪の塊が落ちる音がした。
次官は、何も言わない。
私の話が聞こえていたのかどうかも、顔を上げない次官からは分からない。
書き上げた紙を脇へよけると、次官は新しい紙を一枚、引き寄せた。
辞令だった。
私は、手を前で組んで待った。
冒険者の街の署の、上席調査官。右の者を。
ペンは、そこまで迷わずに進んだ。
次の行の頭で、ペン先が止まった。
行き先の街の名を書く、その手前だ。
止まっていたのは、息を一つ吸って吐くくらいの間だったと思う。次官の顔は灯りの陰になっていて、私の立っている所からは見えない。
ペンが、また動きだす。
書かれたのは、歓楽街の署の名だった。
あの街の名を次官が書くのを、私はこの部屋で初めて見た。
あの街の大きな茶屋のいくつかが閣下のご一族の物だというのは、書記たちの部屋なら誰でも知っている話だ。
次官は辞令の終わりに、記録役も同行させる、と一行書き足して、インクも乾かないうちに私の方へ差し出した。
「春に、読んでまいります」
次官は、返事をしなかった。
もう、次の紙を引き寄せている。私も、何も聞かなかった。
*
山すその道がぬかるみはじめた頃、私は冒険者の街に着いた。
署の窓口で上席の居場所を聞くと、窓口の男は、黙って広場の方を指さした。
広場では、買取所の前に荷車が一台つけてあって、若い者たちが布で包んだ荷を積み上げていた。
荷台の脇で馬の腹帯を締めているのは、日に焼けた年寄りだ。
王都の門番に、夜じゅうしゃべっていったという運び屋かもしれない。
年寄りは私の上着をちらりと見ると、何がおかしいのか、黄色い歯を見せて笑ってから、また腹帯に手を戻した。
通りがかりに覗くと、開け放した買取所の戸の奥で、カウンターの前に列ができていた。
その先頭に、戸口の梁に頭が届きそうな大男が立っている。
カウンターの奥の親父が、大男の前に金貨を並べていく。そこから何枚かを数えて、横の箱の細い口に落とした。
箱の横腹には、署の印が焼きつけてある。
親父は残りの金貨から、さらにいくらかを別の袋へよけた。
「八百枚の方は、これで半分を越えましたよ」
「そうかよ」
大男は、うなずきもしないで金貨を革袋にしまうと、文句の一つも言わずに列を離れていった。
門番の言っていた冒険者は、たぶん、あの男なのだろう。
向かいのギルドの戸をくぐると、広間は昼前から人でいっぱいだった。
払い出しの窓口の脇の長椅子に、茶色のコートの男が座っている。
隣には、銀髪の娘がいた。娘は窓口の横の箱の方を見ていて、男は開いた戸口から、広場の向こうの買取所を見ていた。
私が前に立つと、男は顔を上げた。
左の眉の上に、細い白い筋が一本残っている。腫れも痣も、もうどこにも無い。
「使いの方ですか。今年は、どちらです」
「署で、お読みいたしましょうか」
「ここでいいですよ。どうせ、すぐに広まるんでしょう」
男がそう言ったので、私はその場で辞令を広げた。
窓口の奥では、片腕の年寄りが、机に腕をついてこちらを見ている。
「辞令を申し伝えます。冒険者の街の署の上席調査官、ヘイジ」
「はい」
「右の者を、歓楽街の署へ移すものとする。記録役も、同行させるものとする」
広間の何人かが、こちらを振り返った。
男は、少しのあいだ黙っていた。
「歓楽街ですか」
「さようでございます」
「あそこは、帳簿なんか一冊も無え商売ばかりでしょうね」
そう言った男の口の端が、少しだけ上がっている。
隣で、記録役の娘が呆れたように男を見上げた。
「……嬉しそうですね、ヘイジさん」
「嬉しかねえよ。数える物が多そうだってだけだ」
窓口の奥から、片腕の年寄りが声をかけてきた。
「おい。お前さんがいなくなっても、手数料は入るんだろうな」
「署の内規ですから。俺がいようがいまいが、入りますよ」
「なら、いい」
年寄りはそれだけ言うと、そっぽを向いてしまった。
窓口の娘が、その背中をちらりと見てから、私の方へ小声で言った。
「ギルド長、あれで寂しいんですよ」
「聞こえてるぞ」
広間の隅で、槍を担いだ大柄な女が吹き出した。
私は辞令を畳んで、男に手渡した。
「歩合の方は、異議の期限が明けましたので」
「王都の金庫に、足しといてくれたんでしょう」
「さようでございます。冬の二件で、合わせて」
「千五百八十枚」
私が言うより先に、男がそう言った。
記録役の娘が、横目で男の顔を見る。
「数えてたんですか」
「勝手に数えちまうんだよ」
戸口の近くには、王都の兵の二人が立っていた。去年の春、私が金貨の箱と一緒に神殿都市まで連れていった二人だ。
年かさの方が、私と目が合うと、ためらうように一歩前へ出た。
「使いどの。我々にも、何か辞令は」
「お二人の分は、ございません」
若い方の兵が、ほっと肩を下ろした。
年かさの方は、銀髪の娘の方へ目をやってから言った。
「次官様から、戻らなくていいと伺っておりますので。歓楽街まで、お供いたします」
娘は、困ったような顔で兵にうなずいた。
受け取った辞令を懐にしまう男に、私は、言うつもりのなかったことを言った。
「上席どの。……お身の回りには、どうか、お気をつけください」
「殴られるのには、もう慣れましたよ」
男は、眉の上の白い筋を、指で軽く掻いた。
「……さようで」
私は、黙って頭を下げた。
殴っても駄目なら、と階段の年寄りは言ったのだ。
次に来るのが拳でないことを、この男に何と言えばいいのか、私には分からなかった。
広間の戸口から、ぬるい春の風が入ってくる。
次官のペンが、なぜあの街の名の手前で一度だけ止まったのか。
その理由を、私は知らない。
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