第81話 最強の冒険者
北の岩山に、今年はじめての雪が来た。
その雪の匂いが、今朝は下の通りまで降りてきている。
俺は、宿の狭い階段を上っていた。
段を踏むたびに、板がいちいち文句を言いやがる。俺の目方を乗せるようには、できてねえらしい。
前を上っていく宿の親父が、二階の廊下の一番奥で足を止めた。
その戸の前に、一番下の札の若いのが、膝を抱えて座っている。
あの晩、ギルドの広間の隅で、同じように膝を抱えていた奴だ。俺の顔を見ると、慌てて立ち上がろうとして、壁に手をついている。
親父は若いのには何も言わずに、腰の鍵の束から一本選んで、戸を押した。
「ここだよ。あの子の部屋だ」
窓が一つと、ベッドが一つ。それだけで、もう俺の入る隙間が無い。
ベッドの上には、まだ畳み目のついた新しい毛布が、一枚載っていた。
「その毛布はな、あの子が先月、市で買ってきたんだ」
「自分のか」
親父は、首を横に振った。
「母ちゃんの分だとさ。春になったら村から呼ぶから、ベッドをもう一つ入れてくれって、俺に頼んでた」
親父は戸口の柱に手をついたまま、部屋には入ってこなかった。
若いのは、その親父の後ろに突っ立っている。
「あいつ、中ほどの層へ一緒に来いって、おれに言ったんです。二人なら鱗も倍取れるからって」
若いのの声は、だんだん小さくなっていった。
「おれ、断りました。怖かったから」
俺は戸口まで戻って、若いのの前にしゃがみ込んだ。
それでも、目の高さはまだ俺の方が上だ。
「断ったから、お前はここにいるんだ」
「でも」
言いかけた若いのの顔を、俺は見なかった。
「中ほどってのは、下の札が二人で降りたって、二人とも上がってこれねえ所だ」
若いのは、両手で顔を覆ってしまった。
部屋の中へ向き直ると、ベッドの下に、小さな革の袋が一つ転がっている。拾い上げると、中で銅貨がじゃらりと鳴った。
村からこの街までの、乗合馬車の代くらいだろう。
一枚ずつ貯めていったものだから、袋の口の紐が、すっかり擦り切れていた。
「ギルドの爺さんが、村に知らせを出したそうだ」
戸口から、親父が言った。
「母親は、来るのか」
「来るだろうさ。山の道が雪で埋まる前なら、十日もかからねえ」
俺は、袋を毛布の上に置いた。
「来たら、これを渡してやってくれ」
「あんたが渡せばいいだろう」
親父の顔は見ないで、俺は立ち上がった。
「俺が渡したら、何か言わなきゃならねえだろうが」
親父は、それ以上は言わなかった。
俺が戸口へ向かうと、すれ違いざまに、背中へぼそりと声をかけてくる。
「あんたが、あの子を担いで上がってきたんだってな」
「……ああ」
中ほどの層の、青い鱗の蜥蜴が巣をかける辺りの手前で、あいつは倒れていた。
十枚要る鱗を、三枚だけ握っていた。固まった指をほどいてやるのに、ずいぶんかかったもんだ。
担ぎ上げたら、角より軽かった。
下の札が一人で、あんな所まで降りてきやがって。
*
宿を出ると、下の通りの石畳に、雪がうっすらと積もりはじめていた。
定食屋の窓から、湯気が細く流れ出している。安宿の軒先では、一番下の札の若いのが何人か、手に息を吹きかけながら空を見上げていた。
俺に気づくと、そいつらは慌てて目をそらす。
あの晩から、ずっとこうだ。俺の顔を見ると、あいつのことを思い出しちまうんだろう。
この通りの一番奥で、俺は生まれた。
今は安宿が並んでいるが、俺が餓鬼の頃は、定食屋のほかは板を打ちつけただけの小屋ばかりだった。一番下の札の者と、その家族が住む通りだ。それは、昔も今も変わらねえ。
十七の年の春に、北の口から魔物が溢れた。
ギルドの上の札の連中は、広場の方を守りに行った。ギルドと買取所と、金のある店が並んでいる方だ。
下の通りに残ったのは、俺みてえな一番下の札の餓鬼と、薪割りの斧を握った親父どもだけだった。
背中の傷の、一番古いのは、そのときのもんだ。
王都には、ギルドから早馬が走ったと聞いた。
なのに、王都の兵隊は一人も来なかった。
来たのは、次の春の歩合取りだけだ。
そいつは焼け残った小屋を一軒ずつ回って、壁が何枚残ったかも数えずに、税を取っていきやがった。銅貨が無い家からは、鍋を持っていった。
俺の母ちゃんの鍋もな。
それからの一年、母ちゃんは隣の婆さんに鍋を借りて、借りた鍋で粥を煮た。返すときには、粥を一杯よそって返すんだ。
冬を越したところで、母ちゃんは婆さんより先に死んだ。
借りた鍋は、俺が返しに行った。中に入れて返す粥が、俺には煮られなかった。
それから俺は、誰にも頼らねえことにした。
頼らなきゃ、誰が来なくたって腹は立たねえ。強くなっちまえば、誰にも何も取られずに済む。
そうやって十五年潜っていたら、いつの間にか、王国で一番強いってことになっていた。
あいつは、十七の俺に似てた。
痩せっぽちで、稼いだ銀貨を村の母ちゃんに送っていて、上の札の連中の背中ばかり目で追ってやがった。
*
通りの出口で、前掛けをした痩せた男が待っていた。
倉の旦那の番頭だ。いつもは北の口の前で、空の荷車の御者台に座っている男でもある。
番頭は俺を見ると、雪の中で揉み手をした。
「旦那が、倉でお待ちしております」
「今日は、何も担いでねえぞ」
「お話だけ、とのことでございます」
倉の奥には、旦那が客と会うための小さな部屋がある。
壁際に、俺が去年の冬に担いで上がった角が、三本立てかけてあった。根元の血は、とうに乾いて黒くなっている。
まだ売れてねえのか、それとも、高く売れる時を待ってるのか。
旦那は、細い指で、湯気の立つ杯を俺の前に押した。
「お呼び立てして、申し訳ありません。冷える朝には、これが一番ですので」
温めた葡萄酒に、香りの強い木の皮が一本浸けてある。
俺は、杯に手を出さなかった。
「下の札の若い方のことは、伺いました。お気の毒なことでした」
「……」
「あなたが、担いで上がってこられたとか」
「誰に聞いた」
「この街の話は、黙っていても私の耳に入ってまいりますので」
旦那は、自分の杯を一口すすった。
「ギルドで、あの調査官におっしゃったそうですね。お前の引いた二割で、こいつは死んだ、と」
言った。言ったのは、俺だ。
なのに、この旦那の口から聞くと、俺の言った言葉に聞こえねえ。
「下の札の方々も、皆、そう申しておりますよ」
「それで、何の話だ」
「あの調査官を、二度と立てないようにしていただけませんか」
旦那は、杯を持ったまま、声の調子ひとつ変えずにそう言った。
「夏に、人を四人ほど頼んだのですがね」
「それで」
「翌朝には腫れた顔で、うちのカウンターへ額を言いに来られました」
「起きてきたのか」
「ええ。何度殴られても、起きてこられる方のようで」
旦那は、困ったように眉を下げてみせた。
「ですが、あなたに殴られて起きてこられる方は、この王国にはおりますまい」
「あいつが寝ちまったら、どうなる」
「ギルドも、二割を引くのをやめるでしょう。引かせる人がいなくなるんですから」
旦那は、自分の杯を両手で包んだ。
「そうなれば、下の札の方々も、また気兼ねなく稼げるようになります」
下の札の連中が、この倉の裏口に何か持ってきたことなんか、一度もねえ。
旦那が倍で買うのは、深い所の物だけだ。一番下の札が降りていい所に、そんな物は転がってねえ。
この旦那は、そんなことは百も承知で言ってる。
「金は」
「好きなだけお出しします。あなたのお好きな額を、おっしゃってください」
好きな額か。
俺は、壁の角を見た。
この旦那は、俺の担いできた角を、王都でいくらで売ってるんだろうな。
十五年、一度も考えたことがなかった。考えなくたって、俺の取り分は、いつも買取所の倍だったからだ。
「あの若い方も、ずいぶん無理をなさったと聞きました」
旦那は、杯を小卓に置いた。
「あの調査官さえ来なければ、死なずに済んだでしょうに」
旦那の指は、細くて白い。
あの指で角を担いだことなんか、一度もねえだろう。人を殴ったこともたぶん無くて、殴るときは、いつも誰かに頼んできたんだ。
十七の春に兵隊を寄越さなかった王都の偉い連中も、きっと、こういう指をしてたんだろうな。
「お返事は、今日でなくても構いませんよ」
俺は、椅子から立ち上がった。
梁に頭がぶつかりそうになって、首をすくめる。旦那は座ったまま、俺を見上げていた。
「……あの角な」
「はい」
「王都で売ったら、いくらになる」
「さあ、どうでしょう。売ってみないことには、何とも」
旦那は、柔らかく笑った。
その笑い方で、だいたいの額は分かった。
杯の葡萄酒は、まだ湯気を立てている。酒に手をつけずに席を立つのなんか、何年ぶりだろうな。
背中で、旦那が番頭を呼ぶ声がした。
「お見送りを。それから、お返事は、いつでも伺いますと」
俺は、返事をしないで、倉の旦那のところを出た。




