第80話 戻らない
峠の宿場の馬番は、話し好きの年寄りだった。
大問屋の荷車が峠を越えるたびに、馬を替えてやっているのだという。この一年で替えた数を、馬小屋の柱に刻んだ傷で数えて見せてくれた。
運び屋の年寄りが言った、月に十台という数と、一台も違わない。
これで、一万五千枚の数え方は、まず揺るがねえ。
帰りの馬車のあいだじゅう、俺は千五百枚の使い道を三通りほど考えていた。
一つ目は、コートを新しくする。二つ目は、やっぱりコートはやめておく。三つ目は、まだ決めていない。
東の門に着いたのは、二日目の日が落ちる頃だった。
門の脇の馬留めの前に、ギンが立っていた。王都の兵の二人が、その後ろにいる。
わざわざ門まで迎えに来るような奴じゃねえ。
「ヘイジさん。あの子が、上がってこないんです」
ギンの片手は、上着のポケットに入ったままだった。
「どの子だ」
「下の札の、痩せた子です。北の口の、中ほどの層へ行きました」
「いつだ」
「きのうの朝です。ギルド長が、二日で上がってこいって」
俺は、北の方を見た。
岩山の影は、もう空の色と見分けがつかなくなっていた。
その足で、北の口まで行った。
干し肉の屋台は、とうに布を被せてある。広場の灯りは、一つきりだ。
穴の正面に横付けにされた荷車の、御者台に下げた灯りだ。
御者台では、大問屋の番頭が、膝に毛布を掛けて座っていた。俺の顔を見ると、毛布をのけて頭を下げる。
「これは、上席どの。こんな時刻に」
「誰を待ってるんです」
「旦那のお頼みした物を、あの方が担いで上がってこられる頃合いでして」
あの大男のことだ。
十日潜って、十日飲む。潜りはじめた日から数えれば、今夜か明日の晩あたりになるらしい。
俺は、穴の口の前に立った。
奥から吹き上げてくる風が、コートの裾をばたばた鳴らす。灯りが届くのは、入って十歩ほどの所までだった。
俺が一人で入ったところで、上の層で迷って、探される方に回るのが落ちだ。
「ヘイジさん」
ギンが、後ろから小さく言った。
「屋台のおばさんの話だと、干し肉は、二日分だったそうです」
「二日分か」
「おばさんが、一本おまけしたって」
俺は、それには何も返さなかった。
番頭の灯りが、風に揺れて、穴の口の岩を照らしたり暗くしたりしていた。
*
三日目の朝から、俺はギルドの広間の長椅子に座っていた。
広間の隅の床には、一番下の札の若いのが一人、膝を抱えて座っている。あいつと一緒に、馬小屋から宿の部屋へ移った奴だと、ギンが教えてくれた。
俺は長椅子を立って、その若いのの隣にしゃがんだ。
「朝飯は、食ったのか」
若いのは、膝を抱えたまま首を横に振った。
「俺もだ」
気の利いたことの一つも出てこねえ。俺は、そのまま長椅子に戻った。
若いのは、少しだけ顔を上げて、戸口の方を見ている。
昼前に、俺は窓口の奥の、ギルド長の机の前まで行った。
「探しに出してもらえませんか」
ギルド長は、机に片方の腕をついたまま、俺の顔を見上げた。
「中ほどの層で、三日目だぞ」
「ですから、頼んでるんです」
「探しに行かせりゃ、探しに行った奴がまた戻らねえ。中ほどってのは、そういう所だ」
「上の札を出しても、ですか」
「上の札を出すから、出せねえんだよ」
ギルド長は、広間の張り紙の方へ顎をしゃくった。
「上の札が一人潰れたら、下の札が十人食いっぱぐれる」
「金なら、俺が出します」
ギルド長は、しばらく黙っていた。
それから、肩で結んだ空の袖に目を落とした。
「金を積んで戻ってくるんなら、俺のこの腕だって、とっくに戻ってきてる」
俺は、それ以上は言えなかった。
長椅子の端で、槍の女が立ち上がった。
「あたしが行ってこようか。中ほどなら、何度も潜ってる」
「お前は、こいつの護衛だ」
ギルド長は、俺の顔から目を離さずに言った。
「この人なら、ギルドの中にいりゃ、誰にも殴られやしないよ」
「行かせねえと言ってる」
ギルド長の声は、さっきから同じ低さだ。
槍の女は口を開きかけて、閉じた。長椅子に戻って座り直したが、今日は口笛を吹かなかった。
弓の男は、朝からずっと、戸口の方を見ている。
*
昼を過ぎても、払い出しの窓口には、いつものように列ができていた。
窓口の娘が報酬を数えて、そのたびに、二割が横の箱に落ちる。
かちん、と鳴る音が、広間の端の長椅子まで聞こえてくる。
俺は、一度もそっちを見なかった。
列が途切れたところで、窓口の娘が、水を入れた杯を二つ持ってきた。
「調査官さん、朝から何も飲んでないでしょう」
「飲んでますよ」
窓口の娘は、杯を長椅子の端に置いた。
「飲んでません。窓口から、ずっと見てましたから」
娘が窓口へ戻っていっても、杯は、長椅子の端に置かれたままだ。
ギンは俺の隣に座って、片方の手を、ずっと上着のポケットに入れている。
「何を握ってんだ」
「鍵です」
ギンは、ポケットから手を出した。
古い鉄の鍵だった。輪に通した麻の紐の結び目が、黒く汚れている。
「あの子から、預かったんです。中で落としたら、宿のご主人に怒られるからって」
ギンは鍵を手のひらに載せたまま、しばらく見下ろしていた。
それから、またポケットにしまった。
昼の少し後に、ギンの泊まっている宿の親父が、広間に顔を出した。
白髪まじりの、背の低い男だ。窓口の娘に何か聞いて、首を振られてから、俺たちの長椅子の前まで来る。
「あの子の部屋代は、月の終わりまでもらってるんだ」
宿の親父は、俺にではなく、ギンに言った。
「部屋は、そのままにしとくよ。誰も入れやしない」
「……はい」
「戻ってきたら、鍵を返してやってくれ」
帰りがけに、宿の親父は窓口の前でもう一度足を止めて、娘に小声で何か頼んでいった。
夕方、定食屋の女将が、前掛けのまま広間の戸口に立った。
中には入ってこない。広間を一度見回して、窓口の娘と目を合わせる。
窓口の娘が首を横に振ると、女将は長椅子の端まで歩いてきて、布の包みを一つ置いた。
「あんたたちも、何か腹に入れときな」
女将は、置いた包みを俺たちの方へもう一度押しやると、誰の顔も見ないで戸口へ戻っていった。
包みの中身は、パンらしかった。
包みは、誰も開けなかった。
*
夜になっても、広間の灯りはともされたままだった。
払い出しの窓口が閉まって、冒険者たちが一人、二人と酒場へ流れていく。
広間に残ったのは、俺とギンと護衛の四人、それに窓口の娘と、隅で膝を抱えた若いのだけになった。
ギルド長は、奥の机から動かない。
そのギルド長が、机の向こうから俺に声をかけてきた。
「お前さんは、宿へ帰れ。ここにいたって、何の足しにもならねえ」
「足しにならねえのは、宿にいたって同じですよ」
ギルド長は、俺の隣のギンの方を見た。
「娘さんを寝かせてやれって言ってんだ」
「あたしは、ここにいます」
ギンがそう言うと、ギルド長はそれきり黙った。
戸の外で、重い足音がした。
石畳を一歩ずつ踏みしめるような、遅い足音だった。
弓の男が戸口から目を離さないまま、立ち上がる。
戸が開いて、夜の風と一緒に入ってきたのは、大男だった。
北の口から、そのまま来たのだろう。袖の無い胴着も、丸太みたいな腕も、乾いた泥と血で黒くなっている。
肩に、何か担いでいた。
角でも、鱗の袋でもなかった。
隅で膝を抱えていた若いのが、立ち上がろうとして、床に手をついた。
大男は、広間の真ん中を、まっすぐ奥へ歩いていく。
払い出しの窓口の前の長い机まで来ると、肩のものを下ろした。
壊れ物でも置くような、ひどくゆっくりした下ろし方だった。
机の上に横たえられたのは、痩せた体だった。
まだ子供みたいな顔が、灯りの方を向いている。
首から下げた一番下の札が、机の縁から垂れている。札の紐の擦れた所だけが、細い首に赤い跡をつけていた。
大男は、自分の腰から小さな麻の袋を外して、机の上に置いた。
依頼の品を入れる袋だ。半分しか膨らんでいない。
「中ほどの、蜥蜴の巣の手前だ」
大男は、袋から手を離した。
「岩にもたれて、座ってた。こいつを、腰に付けたままな」
広間の誰も、口をきかなかった。
窓口の娘が、両手で口を押さえている。ギルド長は奥の机に片方の腕をついて、机の上の体を見ている。
大男が、こっちを向いた。
長椅子の前に立っている俺を、上から見下ろす。
「お前の引いた二割で、こいつは死んだ」
俺は、何も言い返さなかった。
大男は、まだ俺の顔から目を離さない。
隣で、ギンがポケットから手を出していた。
鍵を握ったその手を、どこへやればいいのか分からないまま、胸の前で止めている。
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