第79話 無理な依頼
ヘイジさんが東の街道の峠へ出かけたのは、秋も半ばを過ぎた朝だった。
大問屋の荷車は、峠の宿場で馬を替えるのだという。荷車がこの一年で何台峠を越えたのか、宿場の馬番に聞いてくるそうだ。
「二日で戻る。お前は、窓口の箱を見ててくれ」
あたしが返事をしたときには、ヘイジさんはもう、槍の女の人と弓の男の人と並んで、東の門をくぐっていた。
あたしの方には、王都の兵隊さんが二人残った。
門から宿に戻ると、一階では、奥さんが朝のパンを切っていた。
カウンターの前には、あの子が立っている。首から下げた札の紐に、部屋の鍵も一緒に通してあった。
「ご主人。部屋にベッドをもう一つ入れてもらうと、部屋代はいくらになりますか」
ご主人は、カウンターの内側で顔を上げた。
「ひと月、銀貨八枚だね。母ちゃんを呼ぶのかい」
「はい。春になって、雪が溶けたらすぐに」
あの子は、少しも迷わずに答えた。
「村からの馬車代は」
「それは、ちょっとずつ貯めてます」
「母ちゃんの分の飯代もかかるよ」
ご主人は、責めるような言い方はしなかった。
「冬は、下の札の依頼がぐっと減るだろう」
「だから、冬になる前に稼いどくんです」
あの子は、ご主人とあたしに頭を下げて、戸口へ向かった。
奥さんが、切ったパンを皿に載せながら声をかける。
「朝ご飯は、食べてかないのかい」
「今日は、定食屋で食べます」
戸口で、あの子はあたしの方を振り返った。
「お姉さん。おれ、先月、市で毛布を一枚買ったんです」
「あんたの?」
「母ちゃんの分です。ベッドの上に、畳んで置いてあるんです」
言ってしまってから照れくさくなったのか、あの子は戸を押して、駆け足で通りへ出ていった。
*
その朝も、あたしは払い出しの窓口の隣で、娘さんと一緒に箱の銀貨を数えていた。
広間の反対側には、依頼を受け付ける窓口がある。そっちの方から、聞き覚えのある声がした。
「北の口の、中ほどの層の。青い鱗の蜥蜴の、あれを受けます」
振り返ると、あの子が、依頼の窓口の机に両手をついていた。
窓口に座っているのは、年かさの男の人だ。その人は、あの子の首の札と顔を、順に見た。
「中ほどの層ですよ。札が、一つ上の依頼です」
「分かってます」
あの子は、机についた手を離さなかった。
「一番下の札の人には、窓口で一度は止めることになってるんです」
「止められても、受けます」
年かさの人は困った顔で、こっちの窓口の奥にいるギルド長の方を見た。
ギルド長は、机に片方の腕をついたまま、こっちを見ていた。
しばらくして、低い声だけが広間を渡ってきた。
「受けるのは、本人の勝手だ」
ギルド長は、それからあの子に言った。
「行くんなら、二日で上がってこい。三日目には、誰も探しに行かねえぞ」
「はい」
依頼の窓口を離れると、あの子はまっすぐ、あたしのいる方へ歩いてきた。
机の前で足を止めて、札の紐から鍵を外す。
「お姉さん。これ、預かっててもらえますか」
「鍵?」
「中で落としたら、ご主人に怒られるから」
古い鉄の鍵だった。麻の紐の結び目のところが、もう黒く汚れている。
あたしが受け取ると、あの子は少しほっとした顔をした。
「蜥蜴の鱗、十枚で金貨一枚なんです」
「二割引かれたら?」
「銀貨八枚です。ちゃんと数えました」
あの子は、指を八本立ててみせた。
「八枚あったら、春のベッドの分が、冬になる前に貯まるんです」
「仕送りは?」
「それも、八枚の中から出します」
あたしは鍵を握ったまま、何か言おうとした。
でも、中ほどの層がどんな所なのか、あたしは知らない。知らないことを知っているみたいに言うのは、窓口にいた頃から一番嫌いだった。
「……気をつけてね」
「はい」
あの子は頭を下げて、ギルドを出ていった。
戸口の外では、あの子と並んで鍵をもらった子が待っていた。二人で何か言い合ってから、あの子だけが、北の方へ歩いていく。
*
昼の鐘が鳴ってから、兵隊さんたちと定食屋へ行った。
兵隊さんたちは戸口の脇の机に座り、あたしは奥の机に座る。女将さんが、皿を持ってくる前に寄ってきた。
「あの子、今朝は一番高い皿を頼んだよ」
女将さんの手には、布巾が握られたままだった。
「鹿の肉を厚く切って焼いたのを、二枚。うちで一番高いやつさ」
「……あの子が」
「潜る前に腹に入れとかなきゃ、ってね。銅貨を一枚ずつ机に並べて、払ってったよ」
女将さんは布巾で、机の同じ所を何度も拭いた。
「ついこないだまで、蕪の汁だったのにね」
あたしは、上着のポケットの中で鍵を握った。
女将さんが持ってきてくれたいつもの皿は、半分しか喉を通らなかった。
定食屋を出ると、あたしは広場の向かいの買取所に寄った。
カウンターの奥で、前掛けの親父さんが、角の重さを秤で量っている。
「青い鱗の蜥蜴の鱗って、一枚いくらですか」
「記録役さんが、鱗を売りに来たのかい」
「値を聞きたいだけです」
「一枚、銀貨一枚だね。依頼で十枚そろえて出すんなら、金貨一枚になる」
親父さんは、秤から角を下ろした。
「下の札の子が持ってきたことは、まだ一度もないけどね」
あの子の勘定は、一枚も間違っていなかった。
*
日が傾きかけた頃、払い出しの窓口に、あの子の友だちがやってきた。
朝、ギルドの戸口で待っていた子だ。上の層の苔を一籠出して報酬を受け取ると、箱に落ちていく銀貨を見てから、あたしの方を向いた。
「あいつ、本当に中ほどへ行ったんですか」
「今朝、依頼を受けてったよ」
「おれにも、一緒に来いって言ったんです」
その子は、受け取った銀貨を握ったまま下を向いた。
「中ほどは、上の札の人だって、三人で組んで行く所ですよ」
「……そうなの」
「おれ、断ったんです。怖いから」
あたしは、何も言えなかった。
窓口の娘さんが、次の人を呼んだ。その子は銀貨を握ったまま、列を離れていった。
窓口の奥から、ギルド長がこっちを見ていた。
「止めなかったのか、って顔だな」
あたしに言ったのだと気づくまで、少しかかった。
「……止めてません」
「止めて聞くような奴なら、依頼の窓口で止まってる」
ギルド長は、肩で結んだ空の袖を、もう片方の手で一度だけ引っぱった。
「この窓口に二十年座ってりゃ、ああいう顔は何べんも見る」
「ああいう顔、って」
「もう決めちまってる顔だよ」
ギルド長は、また広間の方へ目を戻してしまった。
あたしの後ろで、年かさの兵隊さんが小さく咳払いをした。何か言うのかと思ったが、何も言わなかった。
*
夕方、あたしは兵隊さんたちに頼んで、北の口まで歩いた。
あの子が上がってくるのは、早くても明日の夕方だ。それは分かっていた。
口の前の広場では、干し肉と水袋を売る屋台が、店じまいを始めていた。
屋台のおばさんが、あたしの顔を見て、布を畳む手を止めた。
「下の札の、痩せた子のことかい。今朝、干し肉を二日分買ってったよ」
「二日分、ですか」
「水袋も一つね。中ほどまで行くにしちゃ、ちょっと心細い量だけど」
おばさんは、また布を畳みはじめた。
「お金が足りないって言うからさ。干し肉を一本、おまけしといたよ」
そのとき、穴の奥から、足音と話し声が上がってきた。
出てきたのは、上の札を下げた三人組だった。三人とも鎧が泥で汚れていて、一番後ろの人は、肩に布を巻いている。
あたしは、その人たちの前に出た。
「中で、下の札の痩せた子に会いませんでしたか」
三人は顔を見合わせた。答えたのは、肩に布を巻いた人だった。
「昼過ぎに、中ほどの手前ですれ違ったよ」
「一人で、ですか」
「ああ。下の札が一人で何してんだって言ったら、笑って頭を下げてった」
その人は、布の上から肩を押さえた。
「おれたちは、上がってくるとこだったからな」
仲間の二人に背中を押されるようにして、その人は広場の酒場の方へ歩いていった。
岩山の腹に開いた穴は、荷車がそのまま入っていけるほど大きい。
奥は真っ暗で、どこまで続いているのかも分からない。
若い方の兵隊さんが穴の奥をのぞき込もうとすると、年かさの兵隊さんが、小さく首を横に振った。
あたしは、ポケットの中の鍵を握り直した。
握っているうちに、鉄の鍵は、あたしの手と同じくらい温かくなっている。
穴の奥から、風が吹き上げてきた。
夏に来たときと同じ、冷たい風だった。湿った石の匂いに混じって、何の匂いか分からないものが、鼻の奥にかすかに残った。




