第78話 稼ぎの証明
秋になって、明け方の冷え方が変わった。
あたしの泊まっている宿は、下の通りの真ん中にある。二階の窓を開けると、すぐ下に、裏の馬小屋の屋根が見える。
その朝、顔を洗おうと裏口を出たところで、馬小屋の戸が内側から開いた。
藁を払いながら出てきたのは、首に一番下の札を下げた子たちだった。
四人、五人と続いて、最後に出てきた痩せた顔が、あたしを見て目を丸くした。
定食屋で、いつも手を振ってくれる子だ。
「お姉さん、この宿だったんですか」
「あんたこそ。ずっと、ここで寝てたの?」
「夏の初めからです。一晩銅貨一枚で、藁が使い放題なんですよ」
あの子は笑って、髪に刺さった藁を一本抜いた。
ゆうべは、夜中に冷たい雨が降った。馬小屋の屋根は、板の隙間から空が見えている。
あたしの部屋は、その真上だった。
井戸の脇では、宿のご主人が、馬に飲ませる水を桶に汲んでいた。
白髪まじりの、背の低いご主人だ。あの子たちは、桶が馬小屋へ運ばれていくのを待ってから、ようやく井戸の水で顔を洗いはじめた。
「ご主人。二階の部屋、空いてますよね」
「空いてるよ。四つ」
「あの子たちに、貸してあげられないんですか」
ご主人は、桶を下ろして腰を伸ばした。
「記録役さん。下の札の子はね、ひと月で半分いなくなるんだよ」
「いなくなる、って」
「潜ったきり戻らない子もいるし、稼げなくて夜のうちに街を出る子もいる」
ご主人は、馬小屋の方を見た。
「去年部屋を貸した子は、部屋代を三月溜めて、荷物も置かずに消えちまった」
「前払いなら、どうですか」
「三月分を前に払える子なら、はなから馬小屋にはいないよ」
言われてみれば、そのとおりだった。
「藁なら、消えられても銅貨一枚の損で済むからね」
「でも、ちゃんと稼いでる子だって、いるでしょう」
「いるだろうさ。けど、誰がいくら稼いでるかなんて、こっちには分かりようがない」
ご主人は、また桶を持ち上げた。
「ギルドで、いくらもらってるのかもね」
井戸の方で、あの子がくしゃみを一つした。
*
昼過ぎ、ギルドの長椅子で、ヘイジさんにその話をした。
ヘイジさんは、払い出しの窓口の方を見たまま、黙って聞いていた。
顔の痣は、もうほとんど消えている。口の端に、小さな傷の痕が残っているだけだ。
「下の札が馬小屋で寝てようが、税の話じゃねえだろ」
「そうですけど」
「宿の主が誰に部屋を貸すかは、宿の主の勝手だ」
長椅子の端で、槍の女の人が口笛を吹いた。
「冷たいねえ、調査官さん」
「冷たかねえよ。俺の関わる話じゃねえって言ってんだ」
ヘイジさんはそれきり、窓口の方に目を戻してしまった。
窓口では娘さんが、冒険者に報酬を渡すたびに、横の箱へ二割を落としている。
銀貨が鳴るたびに、ヘイジさんの目がそっちへ動いた。
あたしは、それ以上は言わなかった。
*
その晩、宿の一階で晩ご飯を食べていると、戸口から茶色のコートが入ってきた。
後ろに、槍の女の人と弓の男の人がついている。
ヘイジさんは、あたしの向かいの椅子を勝手に引いて座った。
「何しに来たんですか」
「飯だよ。ここの宿の飯がうまいって、槍のが言うもんでな」
「あたし、そんなこと一言も言ってないよ」
戸口の柱に寄りかかったまま、槍の女の人が言った。
ヘイジさんは聞こえないふりをして、奥さんに今夜の皿を頼んだ。
出てきたのは、鶏の腹に麦を詰めて焼いたものだった。ヘイジさんは、皮のぱりぱりした所から食べはじめる。
戸口の槍の女の人も、いつの間にか隣の机に座って、同じ皿を頼んでいた。
「なんだ、うまいじゃないか、ここ」
槍の女の人がそう言うと、ヘイジさんは、皿から顔も上げずに返した。
「だから、言ったろ」
「言ってないってば」
あたしが半分も食べないうちに、ヘイジさんの皿には骨しか残っていなかった。
ご主人が、空いた皿を下げに来た。
「ご主人。二階が四つ、空いてるそうですね」
ご主人は、皿を持ったまま、あたしの方をちらりと見た。
「記録役さんから聞いたのかい」
「ええ。空いた部屋ってのは、一枚の儲けにもならねえでしょう」
「ならないね。だからって、誰にでも貸すわけにはいかないよ」
「でしょうね」
ヘイジさんは、鶏の骨を皿の端に寄せた。
「下の札の連中はね、先月から、ギルドで報酬をもらうたびに一枚もらってるんですよ」
「何をだい」
「引かれた額を書いたのを」
「それが、何だってんだい」
「何でもありません。もらってるって、だけの話です」
ヘイジさんは皿の横に銅貨を三枚置くと、立ち上がった。
あたしも椅子を立って、戸口までついていく。
「ヘイジさん。今の、それだけですか」
ヘイジさんは、戸に手をかけたまま、振り返らなかった。
「空いた部屋は、税にならねえからな」
戸が閉まった。
槍の女の人は、あたしの顔を見て肩をすくめると、弓の男の人と一緒に出ていった。
机に戻ると、ご主人が、ヘイジさんの座っていた椅子の背に手を置いて、突っ立っていた。
唇が、小さく動いている。
「……引かれたのが二割で、それが銀貨一枚なら」
ご主人は指を一本立てて、それから、片方の手のひらを開いた。
「稼ぎは、銀貨五枚ってことか」
台所の戸口から、奥さんが顔を出した。
「何をぶつぶつ言ってるのさ」
「ギルドで引かれた額が分かりゃ、あの子らの稼ぎも分かるってことだよ」
「分かったら、どうするんだい」
ご主人は、すぐには答えなかった。
天井の方を見上げている。二階の、空いた四つの部屋の方だ。
あたしは、夏のあの晩を思い出していた。
ギルドの窓口で、払い出しのやり方を一つずつ決めていった晩だ。
引いた額を一人ずつ書いて渡してやれと言い出したのは、ヘイジさんだった。窓口の娘さんは、手間が倍になると泣きそうな顔をしていた。
*
次の朝、窓の下で、ご主人の大きな声がした。
「おい、起きな。ギルドでもらった紙をひと月分持ってる子は、晩にカウンターへ来な」
その日の夕方、宿のカウンターの前に、下の札の子たちが並んだ。
ご主人は、一番前の子から小さな紙の束を受け取った。
手のひらに載るほどの紙が、六枚。ギルドの印の下に、引いた額が一行ずつ書いてある。
ご主人はそれを一枚ずつ灯りにかざして、目を細めて読んでいった。
「ひと月で、銀貨三十枚とちょっとか」
その子は、首をすくめた。
「悪くないじゃないか」
ご主人は紙の束を返すと、カウンターに肘をついた。
「ただし、部屋代はギルドの払い出しの日に、その足で持っておいで」
「はい」
「部屋は狭いよ。ベッドを一つ入れたら、もう何も置けやしない。それで、ひと月銀貨五枚だ」
「馬小屋より、ずっと広いです」
その子が言うと、後ろに並んだ子たちがくすくす笑った。
ご主人の後ろで、奥さんが鍵の束を鳴らした。
三番目に並んでいた子は、紙を二枚しか持っていなかった。
「先月の半分は、足を挫いて潜れなかったから……」
「二枚じゃ、まだ分からないよ」
ご主人は、二枚をその子に返した。
「来月、ひと月分そろえて持っておいで。そしたら貸してやる」
「……はい」
その子は二枚を握って、裏口の方へ戻っていった。
少し足を引きずっていた。
あの子の番が来た。
ご主人はあの子の紙を一枚ずつ読んでうなずくと、カウンターの下から鍵を一つ出した。
古い鉄の鍵で、輪に麻の紐が通してある。
「二階の一番奥の、記録役さんの隣の部屋だ」
あの子は、すぐには手を出さなかった。
カウンターの上の鍵を、じっと見ている。それから、ズボンで両手をごしごし拭いた。
拭き終わってからも、もう一度拭いて、それからやっと鍵を受け取った。
あの子は、笑っていなかった。口を少し開けたまま、手のひらの上の鍵を見下ろしている。
鍵の重さを、確かめているみたいだった。
「お姉さん」
あの子は、鍵から目を離さないまま言った。
「おれ、自分の鍵って、初めてもらいました」
「……うん」
「村の家の戸には、鍵なんか付いてなかったから」
あの子は鍵の紐を、首の札と同じ紐に通そうとした。
うまく通らなくて、そこでやっと、少しだけ笑った。
「ここなら、母ちゃん、呼べるかな」
「ベッド、一つしか入らないって」
「もう一つ、詰めて入れてもらえば」
カウンターの内側で、ご主人がわざとらしく咳払いをした。
「入れるんなら、部屋代も詰めて上げるよ」
あの子は慌てて頭を下げると、一番前の子と並んで、階段を駆け上がっていった。
その晩は、隣の部屋が遅くまでうるさかった。
ベッドが、ぎしぎし鳴る。寝返りばかり打っているらしい。
そのうちに、ひとりで小さく笑う声まで聞こえてきた。
壁を叩いて静かにさせようかと思って、やめた。
窓の下の馬小屋は、ゆうべより、ずっと静かだった。




