第77話 二割
顔の腫れが引いて、左の目がまた開くようになった頃に、月が替わった。
口の端の傷はまだ乾ききっていないし、顎の下の痣も、青から黄色に変わっただけだ。息を深く吸うと、脇腹もまだ少し軋む。
宿の戸口で待っていた槍の女は、俺の顔をのぞき込んで、口笛を一つ吹いた。
「目が開いたら、ますます目つきが悪いね、調査官さん」
「元からですよ」
「元からなら、腫れてた方が、まだ愛嬌があったよ」
弓の男は、何も言わずに俺の反対側へ回った。
この二人に挟まれて広場を歩くのにも、そろそろ慣れてきた。
その朝、ギルドの払い出しの窓口の横に、木の箱が一つ置かれた。
蓋には細い口が開いていて、横腹に署の印が焼きつけてある。報酬から引いた二割は、窓口の娘がここへ落としていく。
箱ごと署へ運ぶのは、月の終わりだ。
窓口の前には、朝から冒険者の列が延びていた。
先月の終わりの列と比べると、半分もない。引かれる前に受け取れる報酬は、みんなもう受け取ってしまったのだ。
列の先頭は、首に中ほどの札を下げた、髭の濃い男だった。
窓口の娘が、机の上に銀貨を十枚並べる。そこから二枚をつまんで、横の箱の口に落とした。
銀貨が二枚、箱の底でかちんと鳴る。
髭の男は、机に残った八枚と箱の口を、何度も見比べていた。
「……本当に、引きやがった」
「はい。今月から引くって、先月のうちに張り紙を出しましたので」
窓口の娘は、もう次の報酬を数えはじめている。
「張り紙なんざ、誰が読むかよ」
髭の男は八枚をわしづかみにすると、壁際の長椅子の方へ向き直った。
そこに座っているのは、俺だ。
「おい、歩合取り。その箱の銀貨で、てめえが肥えるんだろうが」
俺が口を開くより先に、隣で槍の女が立ち上がった。
肩に担いだ槍の穂先が、天井の梁をこつんと叩く。
「この人が、肥えてるように見えるかい」
髭の男は、俺の顔から足の先までを、まじまじと眺めた。
「……見えねえな」
「だろ。顔がちっとばかし腫れてただけで、中身は骨と皮さ」
列のあちこちで、笑い声が漏れた。
笑われているのは髭の男じゃなくて、どう見ても俺の方だ。
骨と皮で悪かったな。
「その箱からは、俺には一枚も入りませんよ」
「嘘つけ」
嘘をついたって、こっちは銅貨一枚の得にもならねえんだがな。
「本当ですよ。追徴じゃありませんから、歩合は出ないんです」
髭の男が鼻で笑いかけたところで、窓口の奥から声がした。
ギルド長が、片方しかない腕を机について、こっちを見ている。
「そいつの言うとおりだ。そいつには、銅貨一枚も入らねえ」
ギルド長は、窓口の横の箱を顎で指した。
「箱の一割は、手数料でギルドに入る。残りは署だ」
「ギルドが、俺らの銀貨で儲けるってのか」
髭の男が、今度は窓口の奥へ食ってかかる。
「儲けた分で、お前らの依頼を取ってきてやってんだ。文句があるなら、自分で取ってこい」
髭の男は舌打ちをして、八枚を懐へ突っ込んだ。
出ていきがけに、戸口の柱を拳で一つ殴っていく。柱の方は、びくともしなかった。
まあ、腹が立つのは分かる。
俺だって、歩合から二割を先に引かれたら、署の柱の一本くらいは殴りに行く。
ましてこっちは、引いた銀貨が毎月あの箱にたまっていくのを、横で眺めているだけなのだ。一枚だって、懐には落ちてこない。
列の後ろの方に、見覚えのある痩せた顔があった。
北の口でギンが手を振っていた、あの痩せた若いのだ。一番下の札を首から下げて、汚れた麻の袋を抱えている。
若いのの番が来ると、窓口の娘は、袋の中の籠をのぞいてうなずいた。
「上の層の、光る苔を三籠ですね。依頼の報酬は、銀貨五枚です」
娘は机に銀貨を五枚並べて、そのうち一枚を箱の口に落とした。
若いのは、残った四枚を手のひらに載せたまま、しばらく動かなかった。
唇だけが、小さく動いている。四枚を、何度も数え直しているらしい。
数え直したところで、五枚には戻らねえんだがな。
若いのは四枚を握りしめると、俺の方は見ないまま、列を離れていった。
*
昼過ぎからは、ギルドの戸口の石段に腰を下ろした。
広場の向かいには、素材の買取所がある。袋を担いでダンジョンから上がってきた連中は、いつもならまっすぐ買取所の戸をくぐっていく。
今日は、そのうちの何人かが、買取所の前で足を止めた。
止まって、袋を担ぎ直すと、広場の脇の通りへ入っていく。
首から下げているのは、どれも上から数えた方が早い札だった。深い所の物を担いでくる連中だ。
あの通りを一本入れば、大問屋の店だ。裏の倉の口も、そっちにある。
槍の女が、俺の隣にしゃがみ込んで、指を折っていた。
「これで六人目だよ、調査官さん。裏へ回ったの」
「数えなくていいですよ」
「あんたがさっきから数えてるから、あたしも数えてんのさ。暇だし」
弓の男は、石段の一番下に座って、黙って広場を見ている。
この男の声を、俺はまだ一度も聞いたことがない。
裏の倉は、二割を引かない。
引かれた銀貨を窓口で数え直すくらいなら、通りを一本入った方が早い。そう考える奴が出てくるのは、当たり前の話だ。
そのうち、ギルドの戸口からギルド長が出てきた。
広場の脇の通りを、しばらく黙って眺めている。
「何人だ」
「七人。今、もう一人入ったよ」
答えたのは、槍の女だった。
ギルド長が、低い声で言った。
「来月は、もっと増えるぞ」
「増えたら、裏の倉の儲けも増えますね」
「それを、お前さんが数えるのか」
「数えますよ。一万五千枚に、足しときます」
ギルド長は、少しだけ笑った。
笑いはしたが、その目は、通りの方から離れなかった。
「大男は、窓口に来ましたか」
「来るわけねえだろ。ここ三年、あいつが窓口に並んだことなんか一度もねえよ」
*
夕方、ギンが払い出しの窓口から出てきた。
朝から窓口の娘の隣に座って、箱に落ちる銀貨を一緒に数えていたのだ。王都の兵の二人が、その後ろについてくる。
「今日の分は、銀貨で三百と十二枚でした」
「一割がギルドで、残りが署か」
「はい。ヘイジさんの分は、ありません」
「そりゃ、そうだろうよ」
俺は石段から腰を上げた。
脇腹が、また少し軋んだ。
「歩合の出ねえ仕事ほど、つまらねえもんはねえな」
「大問屋の千五百枚があるじゃないですか」
「あれは、まだ一枚も払わせてねえ。王都に異議を出すって言ってたろ」
「じゃあ、今日のは、つまらない仕事なんですね」
「つまらねえよ」
「なのに、朝から一度も、箱の横から動きませんでしたよね」
「長椅子が、あそこにしかねえんだよ」
ギンは返事をしなかったが、後ろで槍の女が吹き出した。
*
晩飯は、ギンに連れられて、下の通りの定食屋で食った。
女将は俺の顔を見るなり、皿を持ったまま眉を寄せた。
「あんたが、この子の調査官さんかい」
「この子の、ってのは違いますね。こいつが、俺の記録役なんです」
「どっちだっていいよ。ずいぶん黄色い顔だね」
「青かった頃よりは、ましになりました」
女将は鼻で笑って、腸詰めと蕪を煮込んだ皿を二つ、机に置いた。
頼む前に出てきたのは、ギンがいつも頼む皿だからだろう。
護衛の四人は、戸口の脇の机に詰めて座っていた。しゃべっているのは槍の女一人なのに、四人分うるさい。
皿が半分空いた頃、戸口から、昼の痩せた若いのが入ってきた。
ギンに気づいて笑いかけ、それから俺の顔に気づいて、笑ったまま少し固まる。
若いのは、壁際の一番端の席に座った。
女将が、皿を持たずにそっちへ寄っていく。
「いつものでいいね」
「……今日は、蕪の汁と、パンの端でいいです」
女将は、すぐには返事をしなかった。
若いのの顔をしばらく見てから、何も聞かずに奥へ入っていく。
ギンがスプーンを置いて、壁際の席まで歩いていった。
若いのの向かいに座って、小声で何か聞いている。若いのが、笑いながら首を振るのが見えた。
「仕送りは、減らせないですよ。母ちゃんの分だから」
その声だけは、俺の席まで届いた。
「減らすのは、おれが食う分です」
ギンは少しのあいだ若いのと話してから、俺の向かいの席へ戻ってきた。
座っても、スプーンを取ろうとしない。
「あの子、村のお母さんに、毎月銀貨を十枚送ってるそうです」
「十枚か」
「稼ぎの、半分くらいだって」
「仕送りには、税はかからねえよ」
「……知ってます」
ギンは、俺の顔を一度だけ見て、それから自分の皿に目を落とした。
女将が奥から戻ってきて、若いのの前にお椀を一つ置いた。
薄い蕪の汁に、パンの端が二つ添えてある。
若いのはパンの端を汁に浸して、少しずつ、大事そうにかじりはじめた。
俺の皿の上では、腸詰めがまだ一本、湯気を立てていた。
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