第76話 腫れた顔
朝、宿の洗面器に水を張って覗き込むと、知らない男がこっちを見ていた。
左の目は腫れて、ほとんど開かない。口の端は切れて、顎の下まで青黒くなっている。
もともと人に好かれる顔じゃねえが、これで一万五千枚と言ったら、少しは凄みが出るかもしれねえ。
息を吸うと、脇腹が軋むように痛んだ。
顔を洗うのは、やめておいた。
階段を下りると、宿の戸口に、ギンと護衛の兵の二人が立っていた。
ギンは俺の顔を見るなり、口を結んだ。ゆうべ一度見ているはずなのに、明るい所で見ると、また違うらしい。
兵の二人は、俺と目を合わせようとしない。年かさの方が、半歩前に出て頭を下げた。
「上席どの。我々が付いておりましたら」
「付くなと言ったのは、俺ですよ」
「ですが」
「ゆうべは、ギンを宿まで送ってくれたんでしょう。それで十分です」
年かさの兵は、頭を下げたまま動かなかった。
若い方は、剣の柄を握ったり放したりしている。
「今日は、休んでください」
ギンが、俺の前に立った。
「親方も、医者に見せろって言ってました」
「骨は、たぶん折れてねえって言ったろ」
「たぶんって、ヘイジさんが言ってるだけです」
「今日休んだら、ゆうべの四人の日当が、無駄にならずに済んじまうだろうが」
ギンは何か言い返そうとして、やめた。
代わりに、俺のコートの背中を、手のひらで一度だけ払った。ゆうべの泥は、乾いて白っぽくなっている。
*
武具屋の通りは、朝の槌の音でうるさかった。
ゆうべの路地の前を通ると、鎧師の親方が炉の前から顔を上げた。俺の顔を見て、鼻の頭に皺を寄せる。
「ひでえ面だな」
「元からですよ」
「元からひでえのに、輪をかけてひでえ」
親方はそれだけ言うと、また槌を振り下ろした。
広場に出ると、ギルドの前に溜まっていた冒険者たちが、一斉にこっちを見た。
ゆうべのことは、もう広場じゅうに回っているらしい。指をさして笑う奴もいれば、気の毒そうに目をそらす奴もいる。
一番下の札の若いのが何人か、ギルドの戸口の陰から、俺の顔をまじまじと見ていた。
歩合取りが殴られるところなら、見物料を取ってもいいくらいだ。
その中から、痩せた若いのが一人、おずおずと出てきた。
ダンジョンの口で、大男から角のかけらをもらっていた奴だ。
「調査官さん。その顔、ゆうべの……」
「転んだんだよ」
「転んで、そんなになるんですか」
「下手に転ぶと、なるんだよ」
若いのは、俺の顔とギンの顔を、困ったように見比べた。
それから、思い出したように言う。
「あのかけら、買取所で銀貨一枚と、銅貨三枚になりました」
「そりゃよかったな」
「来月だったら、二割引かれてたんですよね」
「年の終わりに払う額は、同じだって言ったろ」
若いのは、うなずいたのか首をかしげたのか分からない動き方をして、戸口の陰の仲間の所へ戻っていった。
大問屋の店の戸は、もう開いていた。
磨いた木のカウンターの前で、店の若い者が床を掃いている。俺が入っていくと、若い者は箒を持ったまま、奥へ駆け込んでいった。
この前、盆に杯を載せて運んできた若い者だ。
箒の柄を握った手の、指の節が四つとも赤く擦りむけていたのが、ちらりと見えた。
俺は、何も言わなかった。
奥から、大問屋が出てきた。
俺の顔を見ると、細い眉を少しだけ持ち上げる。
「これは、上席どの。そのお顔は、いかがなさいました」
「ゆうべ、路地で転びましてね」
「それはそれは。夜道は物騒ですからな。お大事になさいませ」
大問屋は、この前と同じ椅子を手で示した。
俺は座らなかった。座ったら、立つときに脇腹がどうなるか分からねえ。
「そのお顔でしたら、腕のいい治療師を存じておりますが」
「お代は」
「もちろん、こちらで持たせていただきます」
「でしたら、結構です」
大問屋は、残念そうに首を振った。
「先日申し上げた額ですが」
「ああ、あの」
「一枚も変わってません。一万五千枚です」
大問屋の顔には、まだ柔らかい笑いが残っていた。
ただ、その笑いが、そこで動かなくなった。口の端は上がったままなのに、目の方が笑うのをやめている。
細い指が、胸の前で組みかけたまま止まっていた。
奥の戸の陰で、さっきの若い者が、擦りむけた手を前掛けの下に隠すのが見えた。
「……上席どのは、ずいぶん丈夫でいらっしゃる」
「丈夫じゃありませんよ。今朝は、息を吸うのも一苦労でした」
「でしたら、なおのこと、ご無理はなさらない方が」
「無理なんかしてませんよ。額を言いに来ただけですから」
大問屋は、組みかけた指をゆっくりほどいた。
それから、いつもの柔らかい声に戻って、戸口の方へ手を向けた。
「お大事に、上席どの。夏の夜は、まだ長うございますから」
店を出るとき、背中で、大問屋が若い者を呼ぶ声がした。
この前俺たちを見送ったときより、ずっと低い声だった。
広場へ戻る途中で、ギンが、俺の横に並んできた。
「あの箒の人の手、見ましたか」
「見たよ」
「言わないんですか」
「擦りむけた指の節で取れる税なんか、この国には無えんだよ」
ギンは、黙って唇を噛んだ。
分かってる。こいつが言いたいのは、税の話じゃねえ。
「それより、千五百枚の方を考えとけ」
「……今朝は、そっちの話をしても怒りません」
「何でだよ」
「その顔で言われると、怒る気がしないので」
*
ギルドの広間に入ると、払い出しの窓口の奥で、ギルド長が顔を上げた。
俺の顔を、端から端まで眺めている。それから、手のひらで、窓口の机を一つ叩いた。
「おい。誰でもいい、あの二人を呼んでこい」
窓口の娘が、二階へ駆け上がっていく。
ギルド長は窓口から出てくると、俺の前に立った。
「ゆうべの話は聞いた。武具屋の通りの路地だってな」
「耳が早いですね」
「この街で、ギルドの耳より早えもんはねえよ」
「裏の倉にも、今行ってきました」
「その顔でか」
「この顔でですよ。この前と同じ額を言ってきました」
ギルド長は、しばらく黙って俺の顔を見ていた。
それから、今度は俺の後ろの兵の二人を、じろりと見た。
「王都の兵隊は、何してた」
「俺が、ギンの方に付けたんです」
「なるほどな」
二階から、冒険者が二人下りてきた。
一人は、ギンより頭一つ背の高い女で、自分の背丈ほどもある槍を肩に担いでいる。
もう一人は痩せた男で、腰に短い弓を下げていた。二人とも、首から下げている札は、上から数えた方が早い。
「今日から、こいつに付け。昼も夜もだ」
ギルド長が顎で俺を示すと、槍の女が、俺の顔を見て口笛を吹いた。
「この顔の人を、ですか」
「この顔にした連中が、また来るかもしれねえからだ」
「歩合取りの護衛なんて、仲間に何て言われるか」
「手当は、ギルドから出す。文句はそれからにしろ」
槍の女は肩をすくめて、俺の横に立った。
弓の男は何も言わずに、反対側に回った。
ギルド長は、それから兵の二人の方へ向き直った。
「王都の兵隊より、うちの若いのの方が、この街の路地には詳しい」
「……承知しております」
「あんたらは、記録役の娘さんに付いてな。あっちも、狙われねえとは限らねえ」
若い方の兵が、何か言いかけて一歩前に出た。
「我々は、次官様から、上席どのに付くようにと」
「よせ」
年かさの兵が、若い方の腕を押さえた。
それから、ギルド長に向かって黙って頭を下げた。
ギンが、俺とギルド長の顔を見比べている。
「どうして、そこまでしてくれるんですか」
ギンが聞くと、ギルド長は面倒くさそうに顎を掻いた。
「こいつが潰れたら、来月からの手数料も一緒に潰れるんだよ。俺は損な話が嫌いでな」
分かりやすい。
俺は、こういう分かりやすい話が一番好きだ。
ギルド長は広間の真ん中まで歩いていくと、片方しかない腕を、頭の上まで上げた。
張り紙の前にいた冒険者も、窓口に並んでいた冒険者も、それで一斉に口を閉じた。
「聞いとけ。この歩合取りに手を出した奴には、明日からギルドの依頼を一枚も回さねえ」
ギルド長は、上げた腕を下ろさなかった。
「頼まれて手を出した奴もだ。誰に頼まれたかは、聞かねえ」
ギルド長は、広間をゆっくり見回した。
誰も、何も言わなかった。
ギルド長が腕を下ろすと、肩のところで結んである空の袖が、小さく揺れた。




