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第75話 夜道

 定食屋の向かいの角に、その男が立つようになって、今日で三日目になる。

 日よけの布を頭に巻いた、肩の厚い男だ。冒険者の札は下げていない。昼の鐘が鳴る頃にやってきて、あたしが店を出るまで、ずっと角の壁に寄りかかっている。

 皿を下げに来た女将さんが、窓の外へ目をやった。


「あの人、今日も来てるね」

「女将さんも、気づいてたんですか」

「三日も同じ所に立たれりゃ、誰だって気づくさ。一度も、うちに入ってきやしない」


 女将さんは、空いた皿を重ねながら、声を落とした。


「この通りの者じゃないよ。下の札の子たちは、みんな知らない顔だって言ってる」

「何をしてるんでしょう」

「さあね。あんたが店を出ると、あの人も角からいなくなるんだよ」


 あたしは、窓の方を見ないようにして、銅貨を机に置いた。

 店を出て、ギルドの方へ歩きだす。

 広場へ出る手前で振り返ると、角の壁の前には、もう誰もいなかった。


     *


 その晩、ヘイジさんとあたしは、遅くまでギルドにいた。

 来月から始まる払い出しのやり方を、窓口の人たちと一つずつ確かめていたのだ。

 銀貨を何枚引いて、どの箱に入れて、どの日に署へ運ぶのか。窓口の娘さんは三度も同じことを聞き返して、そのたびにギルド長に睨まれていた。

 片づいたのは、広場の酒場の灯りが半分ほど消えたあとだった。

 ギルドの戸口で、あたしは昼の男のことをヘイジさんに話した。


「今日で三日目です。定食屋の向かいの角に、同じ人が立ってるんです」

「そうか」

「女将さんも、この通りの人じゃないって」

「そうか」


 ヘイジさんは、二度とも広場の方を見たままだった。

 戸口の外では、護衛の兵隊さんが二人、壁にもたれて待っている。

 ヘイジさんは、その二人の前まで歩いていった。


「今夜は、二人とも、ギンを宿まで送ってやってください」


 兵隊さんたちは、顔を見合わせた。

 年かさの方の兵隊さんが、壁から背中を起こす。


「我々は、上席どのに付くよう言いつかっております」

「知ってますよ。ですから、俺が言いつけてるんです」

「上席どのは、どうなさるんです」

「署に寄ってから帰ります。すぐそこですから」

「ヘイジさん、あたし一人で帰れますよ」


 あたしが言うと、ヘイジさんは振り返りもしなかった。


「一人で帰るなって言ってんだよ。宿の戸が閉まるまで、見届けてもらえ」


 ヘイジさんはコートの襟を立てると、広場を横切っていった。

 茶色の背中が、武具屋の通りへ入っていく。

 兵隊さんたちは、しばらくその背中を見送っていた。それから若い方が、何か言いたそうに年かさの方を見た。


「言いつけだ。行くぞ」


 年かさの方の兵隊さんはそう言うと、あたしに向かって、行きましょう、と手で示した。


     *


 下の通りまでは、ギルドから歩いてすぐだ。

 兵隊さんたちは、あたしの前と後ろに一人ずつついた。夜の通りで、剣を下げた男に挟まれて歩くのは、何だか罪人になったみたいで落ち着かない。

 前を歩く年かさの兵隊さんが、ぽつりと言った。


「記録役どの。おとといの店の主の、叔父上のことですが」

「宰相閣下ですか」

「我々の行き先を決めるのも、あの方なんです」


 後ろで、若い兵隊さんが小さく咳払いをした。

 年かさの兵隊さんは、それでも続けた。


「あの店の主に、顔を覚えられました。来年の春には、二人そろって北の砦かもしれません」

「……すみません」

「記録役どのが謝ることではありませんよ」


 年かさの兵隊さんは、宿の前で足を止めた。

 あたしが戸を開けて中へ入っても、二人は通りに立ったまま動かない。

 ヘイジさんの言いつけどおり、戸が閉まるのを見届けるつもりらしい。

 あたしは、戸を閉めた。

 少しして、二人の足音が、ギルドの方へ戻っていった。


 部屋に上がっても、眠れなかった。

 窓の下を、酔った冒険者が歌いながら通っていく。その歌が遠くなってから、あたしはベッドの端に座り直した。

 ヘイジさんは、署に寄ってから帰ると言った。

 でも署の戸の鍵は、夕方、窓口の人が閉めて持って帰ったはずだ。ギルドへ行く前に、あたしはこの目でそれを見ている。

 鍵の無い署に、何をしに寄るんだろう。

 あたしは、上着を引っかけて部屋を出た。


     *


 武具屋の通りは、昼とはまるで違っていた。

 どの店も戸を閉めて、槌の音一つしない。炉の火を落とした煙の匂いだけが、通りの底に溜まっている。

 ヘイジさんの宿は、この通りを抜けた先の、署の裏手にある。

 通りの真ん中あたりまで来たとき、店と店のあいだの暗い路地で、何かが動く音がした。

 石畳を、靴のかかとがこする音だった。


「ヘイジさん?」


 返事は無かった。

 路地へ一歩入ると、目が暗さに慣れて、地面に茶色の塊が転がっているのが見えた。

 コートだ。

 コートの中に、ヘイジさんがいた。

 横向きに体を丸めて、片方の腕で腹を抱えている。あたしが膝をつくと、ヘイジさんは顔だけをこっちへ向けた。


「……額は、変わらねえよ」


 かすれた声だった。


「ヘイジさん、あたしです」

「……なんだ、お前か」


 ヘイジさんの顔は、片方の目が腫れてふさがっていた。

 口の端から顎にかけて、黒いものが筋になって流れている。あたしがその肩に手をかけると、ヘイジさんは息を詰めて、小さく呻いた。

 路地の奥には、もう誰もいなかった。

 足もとに、折れた木の棒が一本転がっているだけだ。


 背中の方で、店の戸が開く音がした。

 振り返ると、白い髭の男の人が、灯りを提げて路地の入口に立っていた。

 おととい、この通りでヘイジさんと鱗の値の話をしていた鎧師の親方だ。寝間着の上に、焦げ跡だらけの前掛けを引っかけている。


「行ったか、あいつら」

「見てたんですか」

「二階の窓からな。四人だった。顔に布を巻いて、棒を持ってた」

「止めて、くれなかったんですか」


 思ったより、とがった声が出てしまった。

 親方は、灯りを持った手を下ろした。


「止めに出たら、明日から、うちに鱗が一枚も来なくなる」


 親方は、それを言い訳みたいには言わなかった。


「……すまねえな」

「いいんですよ、親方」


 地面から、ヘイジさんの声がした。


「親方が出てきてたら、鱗の話をしてくれる人が、明日から一人減ってましたよ」


 親方は、しばらく黙ってヘイジさんを見下ろしていた。

 それから灯りをあたしに押しつけると、ヘイジさんの脇に腕を差し込んだ。


「そっちを持て、娘さん。うちの裏に、水がある」


     *


 親方の店の裏で、ヘイジさんを水桶の脇の木箱に座らせた。

 あたしは親方から借りた布を水に浸して、ヘイジさんの顔の血を拭いた。拭いても拭いても、口の端から新しい血がにじんでくる。

 ヘイジさんは目を閉じたまま、されるままになっていた。

 膝の上に投げ出した両手は、泥だらけなのに、どこも擦りむけていない。

 親方は戸口に立って、灯りで通りの方を照らしていた。


「医者を叩き起こしてくるか」

「要りませんよ。骨は、たぶん折れてません」

「たぶん、ってのは何だ」

「息を吸うと脇腹が痛えんで、たぶんです」


 親方は呆れたように鼻を鳴らして、また通りの方へ灯りを向けた。

 あたしは布を絞りながら、その背中に聞いた。


「あいつら、何か言ってましたか」

「言ってたな。手を引け、だとよ」

「ヘイジさんは」

「同じ額を言った。そしたら、もう一発来た」


 ヘイジさんは、目を閉じたまま何も言わなかった。

 あたしは布を水桶でゆすいで、もう一度絞った。水が、灯りの下で黒く濁っている。


「なんで、兵隊さんを二人とも、あたしに付けたんですか」

「お前の宿の方が、遠いからだよ」


 下の通りの宿は、ギルドから歩いてすぐだ。

 昼に、定食屋の角に立つ男の話をしたとき、ヘイジさんは、そうか、としか言わなかった。

 あたしは、それ以上は聞かなかった。

 黙って、ヘイジさんのコートの泥を手で払った。肘の擦り切れた所にも、背中にも、路地の泥がべったりついている。払うと、かえって泥が広がった。

 親方の水桶で手を洗うと、血の方は、すぐに水に溶けて流れていった。

 爪の間には、ヘイジさんのコートから移った泥が、まだ詰まっている。


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