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第8話 字の書けない女

 あたしの店は、南の通りの坂の途中にある。

 間口は大人が両手を広げたくらいしかなくて、棚に並んでいるのは針と糸と、色とりどりのリボンとボタンだけ。

 お針子さんや近所のおかみさんたちが、ちょっとした物を買いに来る店だ。

 死んだ亭主が始めた店を、あたしがひとりで続けて十年になる。

 あの調査官が来たのは、ひと月前の夕方だった。

 指に大きな指輪をした、四十くらいの男だ。店に入ってくるなり、棚を端から端まで眺めて、天井まで見上げて、それから言った。


「この広さの店なら、ひと月にこのくらいは売れるはずだな」


 男が言った額は、あたしが半年かかっても届かないような額だった。


「冗談じゃないよ。うちは、針を一本ずつ売ってる店なんだよ」

「針一本でも、毎日売れりゃ積もるだろうが」

「毎日なんて売れやしないさ。雨の日なんか、誰も来ないんだから」

「そりゃ、あんたが言ってるだけだろう」

 帳簿を見せろと言われたけど、そんなものは無い。あたしは字が書けないし、読めもしないんだから。

 そう言ったら、男は鼻で笑った。


「帳簿も無えなら、こっちで決めるしかねえな」


 それで、加算込みの四十五枚。

 金貨で、四十五枚だよ。

 払えなきゃ、店の物を全部持っていくと言われた。期日は、来月の頭だ。


     *


 どうしていいか分からなかった。

 近所のおかみさんたちに話したら、みんな気の毒がってはくれたけど、署に逆らえる人なんていない。

 帽子屋の息子が、ひとつだけ噂を教えてくれた。


「署には、卸問屋から六百枚も取った調査官がいるんだってさ」

「そんな奴に頼んだら、もっと取られちまうよ」

「でも、その人は東門の食堂の包丁を、先輩の調査官から取り返させたらしいよ」


 その話を聞いて、三日迷った。

 四日目の朝、あたしは店に休みの札を下げて、中央通りの署へ行った。

 二階の窓際の机にいたのは、痩せて目つきの悪い、茶色のコートの男だった。

 隣の机には、銀色の髪を短く切った娘が座っている。前に窓口にいた子だ。

 娘の方も、あたしの顔を覚えていたらしい。


「坂の途中の、小間物屋さんですよね。去年の冬、窓口に赤いリボンを付けて来てました」

「よく覚えてるね」

「似合ってたので」


 娘は、真顔でそう言った。

 男は、あたしの話を最後まで黙って聞いていた。


「その調査官、指に大きな指輪をしてましたか」

「してたよ。叩くと鳴りそうな、でっかいやつだ」


 男は、部屋の真ん中の空いた机をちらりと見た。そこの主が誰なのかは、言わなくても分かった。


「仕入れは、どこからしてます」

「糸は坂の下の糸屋さん。針とボタンは、西門の小物の問屋さん。リボンは、年に二回来る行商の人からだよ」

「それぞれ、どのくらい買ってます」

「糸屋さんには、毎月はじめに白い糸を十巻き。色糸は月によって違うけど、だいたい五巻き」

「問屋の方は」

「針をひと箱と、ボタンを大きい袋で一つ。冬の前だけは二つ。それから……」


 あたしは指を折りながら、思い出せるだけ全部しゃべった。

 字が書けないぶん、数だけは忘れないようにしてきたんだ。十年分、何を何個仕入れたか、たいていは覚えている。

 しゃべり終えると、男は少し黙ってから、隣の娘の方を向いた。


「ギン、行くぞ」

「はい」

「おかみさんも、一緒に来てもらえますか。糸屋の親父に、顔を見せてやってください」


     *


 糸屋の親父は、あたしの顔を見るなり、いつものように笑った。


「おや、まだ月のはじめじゃないよ。今月はもう、白を十巻き持ってったろう」

「この人に、いつもどのくらい買ってるか話してやっておくれ」


 親父は、茶色のコートの男を見て、少し身構えた。

 でも、男が丁寧に頭を下げると、親父はあたしの言ったのとほとんど同じ数を、すらすら言った。

 それどころか、十年前にあたしが初めて店に来たとき、糸を二巻きしか買えなかったことまで覚えていた。


「あんときは、亭主が死んだばかりでね」

「そうだったね。あれから毎月、一度も欠かさず来てくれてるよ」


 茶色のコートの男は、親父とあたしのやり取りを、口を挟まずに聞いていた。

 西門の問屋でも、同じだった。

 小物の問屋のご隠居さんは、あたしが若い頃から店を知っている人だ。


「あの店で、そんなに売れるわけがないでしょう。うちが卸してる針の数を見りゃ、子供でも分かりますよ」


 ご隠居さんは、そう言って男に茶を出した。

 男はそれに手をつけずに、ありがとうございますとだけ言った。

 帰り道、男は坂の途中で足を止めて、あたしの店を見上げた。


「仕入れの数からすると、あの調査官の言った額の、三分の一も売れちゃいない。儲けはもっと少ない」

「そりゃそうさ」

「本当の額で数え直すと、払ってもらうのは金貨二枚です」


 あたしは、聞き違えたのかと思った。


「……二枚、かい」

「二枚です。五年のあいだに、少しずつ申告が足りなかった分ですね。それは払ってもらいます」

「払うよ。二枚なら、払えるよ」


 そう言ったとたん、膝から力が抜けた。

 坂の途中に、あたしはへたり込んでしまった。ひと月のあいだ、毎晩、店の物を全部持っていかれる夢を見ていたんだ。


「大丈夫ですか」


 銀色の髪の娘が、慌ててあたしの腕を取ってくれる。

 茶色のコートの男は、手も貸さずに突っ立っていた。


「二枚は、来月の頭までに窓口へ持ってきてください。遅れたら、加算が増えますから」

「……あんた、こんなときに金の話かい」

「仕事ですから」


 あたしは思わず吹き出して、娘の手を借りて立ち上がった。


     *


 十日後、あたしは署の窓口に呼ばれた。

 一階の窓口の前には、まだ朝だというのに、客が何人も並んでいる。順番が来ると、窓口の爺さんが、払うのは金貨二枚だと読み上げてくれた。

 あたしが金貨を二枚出していると、二階から足音が下りてきた。

 あの、指輪の男だった。


「何だ、字も書けねえ女の言うことを、真に受けたのか」


 指輪の男は窓口の横に立って、聞こえよがしに言った。

 並んでいた客たちが、こっちを振り返る。

 あたしは顔が熱くなった。けど、ここで黙ったら、死んだ亭主に顔向けできない。


「字が書けなくても、仕入れた数は覚えてるんだよ」


 指輪の男は何か言いかけて、右手の指輪をせわしなく回しはじめた。

 そのとき、階段の上から、太った男がゆっくり下りてきた。窓口の爺さんが、慌てて背筋を伸ばす。署長さんらしい。


「推計で取るときは、まず取引先を当たってからにしろ」


 署長さんは、指輪の男の方を見ないまま言った。


「今日から署の決まりだ。窓口にも、そう伝えておけ」


 指輪の男は何か言いかけて、黙って二階へ上がっていった。

 その後ろから、茶色のコートの男が下りてくる。

 あたしは窓口の前で、深く頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました」

「あんたのためじゃねえよ」


 男は、頭を下げたあたしの横を通り過ぎながら言った。


「先輩の数字が、気に食わなかっただけだ」


 それだけ言うと、男は銀色の髪の娘を連れて、さっさと署を出ていった。

 あたしは、その背中を見送った。

 街じゅうで一番強欲だと噂の調査官だ。卸問屋から六百枚も取って、歩合でたんまり儲けたと聞いている。

 でも、あの男は、ご隠居さんの出した茶にも手をつけなかった。


「強欲ってのは、仕事が好きって意味かね」


 誰に言うでもなくつぶやくと、窓口の爺さんが、顔も上げずにうなずいた。

 坂の途中の店に戻ると、あたしは戸口の休みの札を外した。

 棚のリボンを並べ直していたら、赤いのが一本だけ、日に焼けて色が薄くなっている。今度の行商が来たら、新しいのを仕入れよう。

 何巻き仕入れたかは、ちゃんと覚えておくつもりだ。


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