第67話 冒険者の街へ
坂の雪が溶けて、石畳のあいだを細い水が流れるようになった。
灰色の上着の列も、冬の倍ほどの長さに戻っている。春になれば、遠くの村からも巡礼が歩いてくるのだ。
王都の使いが署に来たのは、そんな春の朝だった。
細い男だ。この男に辞令を読み上げてもらうのは、これで四度目になる。
今度は、一人では来なかった。後ろについてきた王都の兵が二人、木の箱を一つ、二人がかりで二階まで運び上げてくる。
箱を床に下ろしたとたん、床板がみしりと鳴った。
署長と窓口の若い男が、部屋の隅に並んで立っている。ギンは、俺の隣だ。
使いは懐から辞令を出すと、いつもと同じ平たい声で読み上げた。
「辞令を申し伝えます。神殿都市の署の上席調査官、ヘイジ」
「はい」
「右の者を、冒険者の街の署へ移すものとする。記録役も、同行させるものとする」
冒険者の街か。
ダンジョンの口がいくつもあって、腕っぷしの強い連中がうようよしている所だ。
ついでに言えば、稼ぐだけ稼いで、申告なんか一度もしたことのねえ連中でもある。取れる額は、でかいだろう。
「今度は、殴られそうな所ですね」
「ダンジョンの口が、三つある街でございます」
使いはそれだけ言って、辞令を畳んだ。
それから、前より少し深く頭を下げる。
「次官は、上席どのを高く買っておられます」
高く、ね。
港へ行けと言われたときも、穀倉へ行けと言われたときも、そんな言葉は一度も聞かなかった。
「高く買ってるんなら、王都の近くにでも置いてくれりゃいいのに」
使いの細い顔が、一度だけ窓の方へそれた。
「……お伝えしておきます」
何か言いかけて、やめたような間だった。
まあいい。どうせ聞いたって、この男は同じ返事しかしねえ。
*
「港の千二百枚、神殿の九百枚、それに伯爵様の件の十五枚。合わせて、二千百十五枚でございます」
使いが箱の蓋を開けると、布の小袋がぎっしり詰まっていた。
一袋に十枚ずつ入れてあるらしい。
ふた冬待った千二百枚と、ひと冬待った九百枚だ。
俺は箱の縁に両手をかけて、持ち上げてみた。
びくともしねえ。
「……二千枚ってのは、持ち上がらねえもんなんだな」
「腰を痛めますよ、ヘイジさん」
ギンが、横から呆れた声を出した。
「コートの内側に入れて歩けりゃ、一番いいんだがな」
「入りませんよ。入れたら、一歩も歩けません」
使いが、箱の脇で手を前に組んだ。
「財務院の金庫で、お預かりすることもできますが」
「預けたら、次はいつ顔を見られるんです」
「いつでも、お引き出しいただけます」
俺は、箱の中の袋を見下ろした。
いつでも、か。王都の引き出しってやつは、ふた冬開かなかったんだがな。
とはいえ、二千枚を担いで東の山すそまで行くわけにもいかねえ。
「……百枚だけ、置いてってください」
「かしこまりました。では、残りの」
「いや、やっぱり二百枚」
使いは、顔の色一つ変えなかった。
「では、二百枚を残して、千九百十五枚をお預かりいたします」
「利子は付きますか」
「付きません」
「だろうな」
部屋の隅で、署長が下を向いた。肩が、小さく揺れている。
ギンが箱の前にしゃがんで、袋を二十、床の上に並べた。
口をほどきもしないで、一つずつ手のひらに載せては、すぐに次の袋に持ち替えていく。
「どれも十枚です。二十袋で、二百枚」
「量っただけで分かるのか」
「窓口で、毎日量ってましたから」
使いが、ほんの少しだけ目を丸くしたのが見えた。
この男でも、驚くことはあるらしい。
「馬車は、三日後の朝に出ます。東へ向かう道の途中まで、私もご一緒いたします」
「兵の二人もですか」
「はい。二人とも、ご一緒に」
兵は二人とも、箱の脇で背筋を伸ばして立っていた。
金を運んできただけにしちゃ、ずいぶん帰り支度の遅い連中だ。
*
使いと兵が宿へ引き上げていった昼過ぎに、窓口の若い男が、また階段を駆け上がってきた。
「署長、神殿から、お使いの方が」
署長が、俺の顔を見た。
俺は黙って、階段の方へ顎をしゃくってやった。
署長が下りていくのについて、俺とギンも階段の途中まで下りる。
窓口の前には、白い衣の年寄りの神官が一人立っていた。脇に、布で包んだ厚い包みを抱えている。
「この春の、神殿の申告でございます」
年寄りの神官は、包みを窓口の机の上に置いた。
「大司祭様のお言いつけで、今年からは、こちらへお持ちすることになりました」
署長は、すぐには手を出さなかった。
机の上の包みを、じっと見下ろしている。
「会計は、どなたが」
「わたくしが、お預かりしております。数を数えるのは、不得手なのですが」
年寄りの神官は、少し困ったように笑った。
それから、戸口の外の、坂の上の方を一度だけ振り返る。
「こういうことに目の利く若いのが、一人おったのですがね。冬のうちに、出ていってしまいまして」
署長は、何も言わずにうなずいた。
ギンが、階段の途中で足を止めたのが分かった。
「数え違いがございましたら、どうぞ、門の前までお越しください。会計所の戸は、開けておきますので」
署長は、ようやく両手で包みを受け取った。
それを胸の前に抱えたまま、年寄りの神官に頭を下げる。年寄りの神官も、手を組んで頭を下げ返した。
二人とも、なかなか頭を上げようとしない。
階段の途中で、ギンが、下の二人に聞こえないくらいの声で言った。
「ヘイジさん。申告で納めてもらう分には、歩合は付きませんよね」
「付かねえな」
「損しましたね」
「ああ、大損だ」
ギンは、それ以上は何も言わなかった。
*
発つ前の晩も、粥屋で晩飯を食った。
女房は、何も聞かずに、俺の粥の上に蜂蜜をスプーンに一杯たらした。
「蜂蜜の分は、いくらだ」
「春の初物だよ。お代は、いつもの一枚でいい」
女房はそう言って、ギンのお椀にも同じだけたらしていく。
蜂蜜が熱い粥にとけて、いつもの粥とは別の物みたいに甘くなる。
主人は、戸口の脇で、明日の朝にくべる薪を割っている。
「神官さんから、何か便りは」
女房が、ギンに聞いた。
「ありません」
ギンがそう答えると、主人が薪を割る手を止めた。
「北から来た巡礼にも聞いてみたんだがな」
「緑の上着の若いのが手を当ててくれた、なんて話は、まだ一つも聞かねえ」
女房は、そうかい、とだけ言った。
それから、空いた鍋を持って、奥へ下がっていった。
入れ替わりに、娘が俺の後ろに回ってきた。腰掛けの端に置いたコートを、両手でつかんで引っぱる。
「おじさん。これ、今夜貸して」
「何に使うんだ」
「いいから」
「明日の朝、着て出るんだぞ」
「知ってる」
「繕ったりすんなよ」
「しないよ」
娘は、コートの袖口ばかり見ながら、そう言った。
奥の戸口から、女房が笑いをこらえた顔でこっちを見ていた。
ギンは、お椀に顔を伏せたまま、こっちを見ようとしない。
「……朝までには返せよ」
娘はコートを両腕に抱えると、店の奥へ駆けていった。
その晩、物置の藁の上は、いつもよりずいぶん寒かった。
「寒いんですか、ヘイジさん」
「寒くねえよ」
藁の向こうで、ギンが毛布を一枚、こっちへ放ってよこした。
*
朝の馬車は、署の前に止まっていた。
兵の二人が、俺とギンの鞄を屋根に積み上げている。使いは、もう馬車の中に座っていた。
俺は、上着一枚で戸口に立っていた。
坂の上から下りてくる朝の風が、薄い上着を素通りしていく。
「上席どの。コートは、いかがなさいました」
「ちょっと、預けてましてね」
使いは、それ以上は聞かなかった。
署長が戸口まで出てきて、手を胸の前で組んだ。
組んだまま、深々と頭を下げる。坂の上の門の方ではなく、俺たちの方へだ。
「お達者で、上席どの。記録役どのも」
「署長も。門の前で、風邪を引かないでくださいね」
ギンがそう言うと、署長は困ったように笑った。
馬車に乗りかけたところで、坂の上から足音が駆け下りてきた。
娘だった。両腕に、茶色のコートを抱えている。その後ろから、女房が前掛けのまま追いかけてきていた。
「おじさん、間に合った」
娘は息を切らしたまま、コートを俺の胸に押しつけた。
広げてみると、袖口から垂れていた糸が、無くなっている。
縫い目は細かくて、きちんと揃っていた。
肘のところには、色の少し違う茶色の布が、内側から当ててある。
「肘のとこも、当てといたよ」
「頼んでねえぞ」
「だって、見えたんだもん」
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