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第66話 追われる神官

 その朝、粥屋の戸を開けて入ってきたのは、隣の巡礼宿のご主人だった。

 丸い顔が、寒さのせいだけじゃなく赤い。秋にあたしを宿から出したことを、まだ気にしているのだ。

 あれから三度、戻っておいでと言いに来て、三度とも粥屋の奥さんに断られている。

 ご主人は粥を一杯頼んで、腰掛けの端に座った。奥さんが黙ってお椀を置いていくと、スプーンを入れる前に、あたしの方へ顔を寄せてくる。


「記録役さん。神官さんのこと、もう聞いたかい」

「神官さんって、あの」

「会計所の戸を開けた、あの若い神官さんだよ」


 巡礼宿のご主人は、店の中を見回してから、声を落とした。


「明日の朝、神殿を出されるそうだ」


 戸口の大鍋の前で、粥屋のご主人のへらが止まった。

 ヘイジさんは、もう署へ行ったあとだった。物置の藁の上には、毛布が一枚たたんで置いてあるだけだ。


「出されるって、どういうことですか」

「白い衣を、神殿に返すんだよ。古い決まりでね」


 巡礼宿のご主人は、指を一本立てた。


「陛下のお許しの無い者を門の内へ入れた神官は、神殿にいられないことになってる」

「誰が、そんな決まりを」

「誰って、ずっと昔からさ。わしの爺さんの頃から、そういうことになってる」

「大司祭様は、何て」

「三日、お部屋から出てこられなかったそうだよ」


 巡礼宿のご主人は、湯気の立つ粥に目を落とした。


「出てこられて、決まりは決まりだ、とだけおっしゃったって」


「会計司祭様は、どうなったんですか」

「あの方は、自分からお辞めになった。王都のご親戚のお宅へ移られるとか」

「会計司祭様は自分で辞めて、神官さんは出されるんですか」


 思ったより、大きな声が出てしまった。

 巡礼宿のご主人は、困ったように肩をすぼめた。


「同じじゃないかって、わしも思うよ」


 巡礼宿のご主人は、スプーンを粥に入れたまま、なかなか口へ運ばなかった。


「けど、辞めるのと出されるのとじゃ、神殿の中ではまるで違うらしいんだ」


 炉の前で薪を抱えていた女の子が、こっちへ顔を出した。


「神官さん、どこへ行くの」

「さあねえ。誰も聞いてないんだよ」


 女の子は、それ以上は聞かなかった。

 抱えた薪を一本ずつ、炉の脇に並べはじめる。並べ終わっても、そこにしゃがんだまま動かなかった。


     *


 署の二階に上がると、ヘイジさんは窓際の机で、坂の店の申告を読んでいた。

 あたしが巡礼宿のご主人の話をそのまま伝えても、顔を上げない。

 読んでいた紙を一枚めくって、次の紙に目を落としている。


「聞いてますか、ヘイジさん」


 返事は無かった。

 代わりに、自分の部屋から署長さんが出てきた。署長さんの耳にも、もう入っていたらしい。


「神殿の中のことは、神殿がお決めになります」

「でも」

「わたしども署の者が扱えるのは、門の外の税だけでございます」

「神官さんの方は」

「神官様をどうなさるかは、陛下でもお口を出されないことです」


 署長さんの声は、いつもより低かった。

 あたしは、署長さんの部屋の方を見た。


「陛下のお許しなら、あるじゃないですか」


 宰相府の人が置いていった、赤い印の紙だ。署長さんは、あれを自分の机の引き出しにしまっている。


「あれを見せれば、神官さんが門の内へ入れたのは、お許しのある調査官だったってことに」


 署長さんは、ゆっくり首を振った。


「お許しが届いたのは、冬でございます。戸が開いたのは、秋でした」


 あたしは、何も言えなくなった。

 ヘイジさんの方を見ると、ヘイジさんは、紙を机に置いて立ち上がっていた。

 椅子の背から、茶色のコートを取る。


「どこへ行くんですか」

「飯だ」


 まだ、昼の鐘も鳴っていない。

 窓口にいた頃のあたしなら、その飯は嘘ですよね、と言っていたと思う。

 ヘイジさんは、それきり何も言わずに、階段を下りていった。

 残された署長さんが、階段の方を見たまま、口を開きかけた。


「記録役どの。上席どのは、たぶん……」


 署長さんは、その先を言わなかった。

 あたしも、ヘイジさんについていかなかった。ついてこいとも、言われなかったからだ。


     *


 ヘイジさんが粥屋に戻ってきたのは、店の灯りをともしたあとだった。

 戸口で、長靴の雪を払っている。坂の下の方の雪は、もう昼のうちに踏み固められて、泥まじりになっていたはずだ。

 ヘイジさんの長靴についていたのは、くるぶしまで埋まるような、白い雪だった。

 坂の上の方にしか、そんな雪は残っていない。

 ヘイジさんは腰掛けに座ると、いつものように粥を頼んだ。

 いつものように二杯食べて、二杯分の銅貨を机に置く。

 どこへ行っていたのかは言わなかったし、あたしも聞かなかった。

 ヘイジさんが物置へ引っ込んでしまうと、炉の前から、女の子があたしのそばへ寄ってきた。


「お姉さん。神官さん、明日から白い服じゃなくなるの?」

「……うん」

「じゃあ、なんて呼べばいいの」


 あたしは、答えられなかった。

 鍋を洗っていた奥さんが、手を止めずに言う。


「神官さんでいいんだよ。治してもらった人は、みんなそう呼ぶんだから」


 女の子は少し考えてから、うん、とうなずいた。

 奥さんは鍋を伏せると、前掛けで手を拭いて、小さな布の袋を一つ、あたしの前に置いた。

 口を紐で縛った、両手に載るくらいの袋だ。


「燕麦だよ。干してあるから、道で水と煮れば食べられる」

「神官さんに、ですか」

「あたしは朝、店を開けなきゃならないからね。あんた、渡しといておくれ」


 奥さんはそれだけ言うと、炉の灰をならしに行ってしまった。

 粥屋のご主人は、炉の火を落としながら、一度だけこっちを見た。


     *


 次の朝、門の前には、人が十人ほど集まっていた。

 巡礼の灰色の上着は、ほとんど無い。坂の店の人たちと、前掛けをした街の女の人たちばかりで、継ぎの当たった服の人が多かった。

 門の外で、夜中に手を当ててもらったことのある人たちなのかもしれない。

 ヘイジさんは、人の輪の一番後ろで、コートのポケットに両手を入れて立っている。見ているのは、門の脇の、会計所の小さな戸の方だ。

 門の内の石段の一番上には、杖をついた小さな姿があった。

 大司祭様は、そこから下りてこようとはしなかった。

 やがて、小さな戸が内側から開いた。

 出てきたのは、くすんだ緑の旅の上着を着た、若い男の人だ。白い衣を着ていないと、坂の店の若い人と少しも変わらない。片手に、小さな袋を一つだけ提げている。

 門番は足もとの鉢を持ち上げると、水に指をつけて、神官さんの額に触れた。門をくぐっていく巡礼の人に、毎朝しているのと同じ手つきだった。

 神官さんは門番に頭を下げてから、石段の上の大司祭様の方を向いて、手を組む。大司祭様も、杖に寄りかかったまま、手を組み返していた。

 門の前の人たちは、誰も声を出さない。

 その中を、神官さんはまっすぐ、あたしの方へ歩いてきた。

 あたしは、奥さんから預かった袋を差し出した。


「粥屋の奥さんからです。燕麦です。道で、水と煮れば」

「ありがとうございます。奥さんにも、そうお伝えください」


 神官さんは、自分の袋の口をほどいて、燕麦の袋をその中へしまった。

 それだけで、袋はいっぱいになったようだった。


「どこへ、行くんですか」

「決めていません。病の人なら、どこにでもいますから」


 神官さんは、袋の口を縛り直した。

 それから、あたしの顔をまっすぐに見た。


「記録役さん。あの晩、聞いてくださって、ありがとうございました」


 あたしは、すぐには返事ができなかった。

 神官さんは、あたしの返事を待たずに、人の輪の後ろの方へ目をやった。ヘイジさんが、いつの間にかポケットから両手を出している。

 神官さんが頭を下げると、ヘイジさんも、黙って頭を下げた。

 それだけだ。

 神官さんは、坂を下りなかった。門の前を横切って、神殿を囲む白い壁に沿った細い道を、丘の裏の方へ歩いていく。

 緑の上着は、すぐに白い壁の角を曲がって、見えなくなった。

 門番が鉢を足もとに置き直すと、門の前の人たちも、一人ずつ坂を下りはじめる。

 石段の上の大司祭様だけが、まだ壁の角の方を見ていた。

 あの人は、ありがとうございました、と言った。

 あたしは、どういたしまして、とは言えなかった。


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