第65話 次官の机
王宮の東と西をつなぐ回廊は、冬のあいだ、風の通り道になる。
財務院は東の端に、宰相府は西の端にある。私が使いの用で行き来するたびに、マントの裾が足に絡みついてくる。
宰相府の使いと回廊ですれ違ったのは、年が明けて半月ほどたった朝のことだった。
毛皮の襟のマントに、白い革の手袋。長靴の縁には、北の雪が乾いて白い跡になっている。
私が会釈をして通りすぎようとすると、向こうの方から足を止めた。
「財務院のお方ですね。次官様のお使いの」
「さようでございます」
「北の神殿都市まで、陛下のお許しを届けてまいりましたよ」
私は、黙って頭を下げた。
神殿都市の上席が、春に次官へ手紙を出したことは知っている。次官がその手紙を開かずに引き出しへ入れたのも、私はこの目で見ていた。
「ところが、門はとうに開いていたそうでしてね。中の神官が、秋のうちに開けてしまったとか」
「さようでございましたか」
「陛下のお許しは、ひと冬、遅かったわけです」
宰相府の使いは、手袋の指で口もとを軽く押さえた。
「閣下にそうお伝えしたら、もう一度話せと、二度もお聞きになりました」
「さようで」
「面白い男ですね、あの上席は。歩合の話もしたんですよ」
宰相府の使いは、私の顔をのぞき込むようにした。
「次官様の引き出しの中で、あの男の歩合が、ふた冬も寝ているそうじゃありませんか」
私は、返事をしなかった。
港の束が引き出しにしまわれた日、次官の部屋の戸の内にいたのは、次官と私の二人きりだったはずだ。
「閣下にお願いなされば、すぐにでも開けて差し上げますよ、と申し上げたんですがね」
「上席は、何と」
「引き出しは、しまった方に開けていただく、と」
宰相府の使いは、そこで声を立てて笑った。
「断られたのに、閣下はそこを一番お喜びでしたよ」
宰相府の使いは、まだ笑いの残った顔で私に会釈すると、西の方へ歩いていった。
次官様によろしく、とは言わなかった。
言わなくても、私がこの話を東の端の部屋へ運ぶことは、分かっているのだろう。
*
次官は、その朝も灯りの下でペンを動かしていた。
私が入っていっても、顔は上げない。
「宰相府の使いが、北から戻ってまいりました」
ペンの先が、紙の上で止まった。
「神殿都市へ、陛下のお許しを届けたそうでございます」
「誰が願った」
「宰相閣下が、神殿の九千枚を、陛下のお耳にお入れになったと」
次官は、ペンを置いた。
それから椅子を立つと、窓の前まで歩いていった。
財務院の窓からは、中庭の向こうに、王宮の西の屋根が見える。宰相府の屋根だ。
次官は、その屋根を見ていた。
私は、手を前で組んで待った。この部屋で次官が黙るのを、私は何度も見ている。けれど、窓の前に立ったまま黙るのを見るのは、初めてだった。
「門は、秋のうちに開いていたそうでございます。お許しを待たずに、中の神官が」
私がそれだけ言い足すと、次官の肩が、ほんの少し動いた。
笑ったのかと思ったが、違ったかもしれない。
「それと、宰相府の使いは、上席に歩合の話もしたそうでございます」
「言え」
「閣下にお願いすれば、次官様の引き出しを開けて差し上げる、と」
次官は、窓の外を見たままだった。
「上席は、引き出しはしまった方に開けていただく、と断ったそうでございます」
次官は、何も言わなかった。
中庭では、誰かが石畳の雪をかいている。木の板が石をこする音が、長いこと続いた。
その音がやんでも、次官は窓の前から動かない。
やがて机に戻ってくると、次官は上着の内側から鍵を出した。
引き出しが開く。
中には、紐で縛った束が三つ入っていた。
一つは、錨に波を二本重ねた封蝋の束。港の屋敷の主の不服だ。
一つは、穀倉の伯爵の不服で、こちらの封蝋には鹿の角が二本交えてある。
一番新しいのが、神殿の会計司祭の名で届いた異議だった。
その束の上には、もう一枚、同じ紐で縛りつけてある。冬のはじめに大司祭の名で届いた、異議を取り下げたいという願いだ。
三つの束の下に、封を切っていない手紙が一通、敷いたように入っていた。
春に神殿都市から届いた、あの手紙だ。
次官は、束を三つとも机の上に出した。
手紙の方は、引き出しの中に残したまま、引き出しを閉める。
鍵は、かけなかった。
「今日のうちに、片づけさせろ」
「三つとも、でございますか」
「港の不服は退けろ。伯爵のもだ」
「神殿の分は」
「取り下げを受けろ」
次官は、もう一度ペンを取った。
「上席の歩合は、春の辞令と一緒に届けろ」
「港の千二百枚と、神殿の九百枚。それに、伯爵様の件の十五枚でございますね」
「数は、お前の方が詳しかろう」
「金貨で二千枚を越えますので、運ぶのに人が要ります」
「兵を二人つけろ」
次官は、そこで少しだけ考えるような間を置いた。
「向こうに着いても、王都へは戻さなくていい」
金を運び終えた兵を、戻さなくていい。
それが何のための兵なのかは、次官は言わなかった。
ふた冬、引き出しで寝かせておいた束を、今日のうちに、だ。
私は、束を抱えて部屋を出ようとした。
「待て」
振り返ると、次官は、新しい紙を引き寄せていた。
*
辞令を書くあいだ、次官のペン先は一度も止まらなかった。
渡された辞令に書いてあったのは、東の山すその、冒険者の街の名だった。
ダンジョンの口が三つあって、王都に上ってくる素材の多くが、あの街から出てくる。
そして、あの街で一番大きな店のいくつかは、宰相閣下のご一族のものだ。財務院に勤めていれば、それくらいのことは、誰に聞かなくても耳に入ってくる。
私は辞令から顔を上げた。
「冒険者の街、でございますか」
「あの男を、王都の近くには置くな」
次官は、なぜそうするのかを言わなかったし、私も聞かなかった。
「記録役の娘も、同行させるものとしてよろしゅうございますか」
「書かなくても、あの娘はついていくだろう」
次官はそう言いながら、辞令の終わりに一行書き足した。
「上席には、何とお伝えいたしましょう」
次官は、ペンを置かずに答えた。
「高く買っている、と言っておけ」
私は、思わず次官の顔を見た。
この部屋で、次官が人の値を口にするのを、私は初めて聞いた。
去年の春、神殿都市への辞令を私に渡したときの次官は、まだ待っている顔をしていた。
あの男が、どこかの土地で潰れるのを、だ。港でも穀倉でも、次官は取れない土地の名ばかりを選んで、辞令に書いてきた。
今の次官の顔は、それとは違う。
あの男が潰れるかどうかより、あの男が誰の手に渡るのかを、気にしている顔だった。
*
三つの束を抱えて、私は書記たちの部屋へ下りていった。
一番年かさの書記が、港の封蝋を見るなり、眼鏡を額に押し上げた。
「これは、ふた冬寝ていた束じゃありませんか」
「今日のうちに、だそうです」
年かさの書記は、私の顔と束を見比べてから、後ろを振り返った。
部屋じゅうのペンが、いっせいに止まる。
若い書記の一人などは、椅子から腰を浮かせて、伯爵の封蝋をのぞき込んでいた。
年かさの書記が、声を落として私に聞いた。
「次官様が、ご自分でそうおっしゃったんですか」
「ええ。港の分と伯爵様の分は退けて、神殿の分は取り下げを受けるそうです」
年かさの書記は、しばらく黙っていた。
それから眼鏡を下ろすと、港の束の紐を、自分の手でほどきはじめた。
港の束が引き出しから出てきたことは、昼までには財務院じゅうに知れわたるだろう。宰相府の耳に入るのも、そう遅くはあるまい。
次官は、それも分かっていて、今日のうちに、と言ったのだと思う。
昼過ぎには、財務院の地下の金庫で、金庫番が金貨を箱に詰めはじめた。
十枚ずつ数えては、布の袋に落としていく。袋が百を越えたところで、金庫番は腰を伸ばして、私に聞いた。
「これ、全部、一人の調査官の分ですか」
「三つの土地の分でございます」
「三つの土地で、二千枚と少し。わたしの給金の、何年分になるんでしょうね」
金庫番は、それきり黙って、また十枚ずつ数えはじめた。
回廊に出ると、西の屋根の上で、積もった雪が少しずつ溶けはじめていた。
春になったら、私はまた北へ行って、あの男に辞令を読み上げることになる。高く買っている、という次官の言葉も、そのときに伝えなければならない。
あの男のことだから、いくらで買ってくれてるんです、と聞き返すのだろう。
そう思ったら、回廊の真ん中で、少しだけ口もとが緩んでしまった。
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