第64話 遅れて来た許可証
年が明ける少し前に、坂に雪が来た。
白い壁に白い雪が積もると、どこまでが家で、どこからが空なのか分からなくなる。坂を上る灰色の上着だけが、雪の上に点々と浮いて見えた。
会計所の戸が開いてから、ふた月がたつ。
俺とギンは、今も粥屋の奥の物置で、燕麦の袋と並んで寝起きしている。
その朝も、粥屋の女房は、俺とギンの前に湯気の立つお椀を置いてくれた。
戸口の大鍋の前では、主人が長いへらで鍋の底をこそげている。
「隣のご主人が、また来てたよ。部屋が空いたから、戻っておいでってさ」
女房が、空いたお椀を下げながらギンに言った。
「二度目ですね」
「断っといたよ。藁の方が暖かいそうだよって」
「そんなこと、あたし言ってません」
「言わなくたって、顔に書いてあるよ」
ギンは、お椀に顔を隠すようにして粥をすすっている。
一晩銅貨二枚で、朝の粥までつくのだ。俺の方にも、文句は無え。
九百枚の歩合の方は、まだ一枚も届いていない。
会計司祭が秋に王都へ出した異議が、片づいていないからだ。王都の返事の遅さなら、春からこっち、嫌というほど知っている。
粥を腹に入れてから署へ下りて、俺は二階の窓際で、雪の坂を上っていく巡礼を眺めていた。
窓口の若い男が階段を駆け上がってきたのは、昼の少し前だった。
「上席どの、表に、馬車が」
窓から見下ろすと、署の前の雪の上に、四頭立ての黒い馬車が止まっている。
扉には、金の紋が描いてあった。巡礼を乗せてくる乗合馬車とは、車輪の太さからして違う。
署長が、自分の部屋から出てきた。窓の外の紋を見るなり、胸の前で手を組みかけて、そのまま固まっている。
「宰相府の、お印でございます」
「次官の使いじゃ、ないんですね」
「財務院のお印とは、違います。王都からのお参りの馬車で、一度だけ拝見したことが」
署長がそう言い終わらないうちに、階段を上ってくる足音がした。
入ってきたのは、三十をいくつか過ぎたくらいの男だった。
毛皮の襟のついたマントを着て、白い革の手袋をはめている。手すりには一度も触らずに上がってきて、部屋の真ん中でぴたりと足を止めた。
「神殿都市の署の、上席調査官どのは」
「俺ですよ」
男は、俺の頭から足の先まで、ゆっくりと目を動かした。
茶色のコートの肘のところで、その目が少しだけ止まる。
そこは擦り切れてんだよ。見りゃ分かるだろうが。
「宰相府から参りました。陛下のお許しを、お届けにあがりました」
男は脇に抱えていた筒の蓋を取って、厚い紙を一枚抜き出した。
手袋をはめたまま、それを両手で広げる。紙の下の方に、赤い蝋の印が押してあった。
「陛下のお許しにより、神殿都市の署の調査官を、神殿の門の内へ通すものとする」
読み上げると、男は紙をこっちへ向けて、にこやかに付け加えた。
「宰相閣下が、神殿の九千枚のことを、陛下のお耳にお入れくださったのです」
「そうですか」
「これで、門の内へお入りになれますよ」
「もう、開いてますよ」
紙の端を持った手袋の指が、そこで止まった。
「……開いている、と申しますと」
「秋に、中の人が開けてくれたんです。会計所の戸を、内側から」
男は、俺の後ろの署長の方へ目をやった。
署長は、組みかけた手のやり場に困ったまま、小さくうなずいている。
「上席どのは、門の外にお立ちになっていただけでございます」
「門の外に」
「はい。大司祭様が、ご自分で戸口をおよけになりまして。わたしも、門の前で見ておりました」
男は、しばらく黙って紙を見下ろしていた。
それから、喉の奥で小さく笑った。
「閣下がお聞きになったら、さぞ面白がられるでしょう」
ちっとも面白くなさそうな顔で、男はそう言った。
「では、神殿の中は、もうひととおりご覧になったわけですね」
「会計所だけですよ。お祈りをする所には、用がありませんから」
「せっかく、陛下のお許しがありますのに」
「お許しがあったって、数える物が無え所に入っても、しょうがないでしょう」
*
「戸を開けたのは、どなたです」
男は紙を丸めながら、ついでのように聞いてきた。
「中の人ですよ」
「神官ですか」
「神殿の人ですよ。税の話とは、関わりのない人です」
男は、今度は俺の隣の机の方を向いた。
ギンは、自分の机から、男の顔を見上げている。
「記録役どのは、ご存じでしょう」
「知ってます」
「では」
「言いません」
ギンは、真顔でそう答えた。
男は眉を一度だけ上げてから、また口の端で笑った。
いい返事だ。
男は丸めた紙を筒に戻すと、俺の方へ向き直った。
「春に、次官様へお許しを願う手紙をお出しになったそうですね」
「出しましたよ」
「その手紙は、陛下のお目には届いておりません」
男は、俺の顔をじっと見ている。
何か出てくるのを待っている目だった。
あいにく、驚くような話じゃねえ。返事が来ないまま、夏も秋も過ぎたのだ。
「そうでしょうね」
「お腹立ちには、なりませんか」
「腹を立てたら、手紙が陛下のところへ届くんですか」
男は、それには答えなかった。
代わりに、筒を脇に挟み直してから、声の調子を一つ落とした。
「上席どのの歩合も、次官様の引き出しの中だそうですね」
「よくご存じで」
「港の千二百枚も、神殿の九百枚も、まだ一枚も出ていないとか」
よその役所の引き出しの中身まで、ずいぶん詳しく知ってやがる。
「閣下は、そういうことを放っておかれる方ではございません」
「はあ」
「上席どのからひと言いただければ、あの引き出しは、すぐにでも開きましょう」
署長が、俺の後ろで小さく息をのんだ。
ギンは、黙って男の手袋を見ている。
「引き出しは、しまった人に開けてもらいますよ」
「次官様は、お開けにならないかもしれません」
「そしたら、待ちます。金貨ってのは、引き出しの中で腐るもんじゃありませんから」
男は、もう一度俺の顔を見て、それからコートの肘に目を落とした。
値札がどこかに縫いつけてないか、探しているような目つきだった。
「閣下は、九千枚を取ってくる調査官がどんな方なのか、お気にかけておいでです」
「それで、何てお伝えになるんです」
「さて。上席どのは、何とお伝えしてほしいですか」
「茶色のコートの男だった、で十分ですよ」
男は、今度は笑わなかった。
筒からもう一度紙を抜き出すと、それを俺の机の上に置く。
「陛下のお許しです。お返しいただくわけにはまいりません」
それだけ言うと、男は手袋をはめたまま会釈をして、階段を下りていった。
窓からのぞくと、馬車は雪の上で向きを変えて、来た道を戻っていくところだった。
男は乗り込む前に、一度も坂の上の門を見上げなかった。
神殿の方には、はなから用が無かったってわけだ。
*
「今の人、ずっとヘイジさんの顔ばかり見てましたね」
ギンが、窓の外を見たまま言った。
「値踏みしてたんだよ」
「いくらになったんでしょう」
「さあな。九百枚よりは安いだろ」
「自分で言ってて、悲しくなりませんか」
「なるかよ。九百枚の方が、俺よりよっぽど役に立つ」
ギンは返事の代わりに、鼻から小さく息を吐いた。
それから、机の上に載ったままの赤い印の紙を見下ろす。
「これが春に届いてたら、どうなってたんでしょうね」
「門から入って、同じ壁を見るだけだ」
「そしたら、あの神官さんは、戸を開けなくて済みましたね」
俺は、返事をしなかった。
ギンも、それ以上は言わなかった。
署長が、少し離れた所から、同じ紙を見下ろしていた。手を伸ばしもしないし、目を離しもしない。
「上席どの。それを、どうなさいます」
「署長が持っててください」
「わたしが、でございますか」
「書いてあるのは、この署の調査官、ですから。俺の名前じゃない」
署長は、紙と俺の顔を、何度も見比べた。
「ですが、わたしは、門の前では、とても……」
「使わなくていいんですよ。この署にあるってだけで」
署長は、しばらく動かなかった。
それから、両手でそっと紙を取り上げると、胸の前で、いつものように手を組んだ。
組んだ両手のあいだから、陛下の赤い印がのぞいている。
署長はその格好のまま、窓の外の門の方へ、深々と頭を下げた。
……拝むもんじゃねえんだがな、それは。




