第63話 扉
まだ暗いうちに、粥屋の主人に起こされた。
表に出ると、坂じゅうに霧が下りていた。白い壁の家も、坂の上の門も、霧に溶けて、どこまでが壁なのか分からない。
それでも、坂を上っていく足音はいくつも聞こえた。霧の中から灰色の上着が一つ現れては、また一つ、上の方へ消えていく。
ギンと二人で、その後ろについて上った。
石畳が夜露で濡れていて、ギンは二度、足を滑らせかけた。
少し遅れて、粥屋の一家も、娘の手を引いて上ってくる。
門の前は、もう人で埋まっていた。
巡礼の人たちのほかに、坂の宿の主人や店の者たちが、前掛けの上に上着を引っかけて立っている。丸い顔の巡礼宿の主人は、一番前の列にいた。
人の輪の真ん中あたりに、灰色の髪をきちんと撫でつけた頭が一つ見える。
署長だ。熱は、ひと晩で下がったらしい。
署長は俺に気づくと、すぐに顔をそむけて、門の方へ手を組んだ。
俺は人の輪の端を回って、門の脇の壁の前まで行った。
そこだけ、人が立っていない。会計所の小さな戸の前だ。
白い壁に背中をつけると、石には夜の冷たさがまだ残っていた。
門の内で、鐘が一つだけ鳴った。
神殿の石段を、白い衣が二つ下りてくる。杖をついた小さな年寄りの腕を、ふっくらした手が支えていた。
大司祭と、会計司祭だ。
二人が門の内の石畳まで下りてくると、門の外の頭が、前の列から順に下がっていった。
会計司祭は大司祭の腕を支えたまま、門の外を見回した。その目が、壁の前の俺のところで止まる。
「調査官どのも、お祈りにお越しくださいましたか」
「いえ。立ってるだけですよ」
会計司祭は、柔らかく笑ってうなずいた。
それから、門の外の人たちの方へ向き直る。
「門の外にお立ちの方のためにも、ご一緒にお祈りいたしましょう。神様は、どなたもお見捨てになりません」
前の方で、何人かが俺の方を振り返って、すぐに目を伏せた。
会計司祭は、大司祭の耳もとに何かささやいた。大司祭は敷居の手前で足を止めると、杖を門の柱に立てかけて、両手を胸の前で組んだ。
古い祈りの言葉が、霧の中に低く流れはじめる。
門の外の人たちは、皆、目を閉じて頭を下げていた。署長も、巡礼宿の主人も、粥屋の女房もだ。
ギンだけが、目を開けたまま俺の隣に立っている。
俺の背中で、ごとり、と重い音がした。
閂の外れる音だった。
*
振り返ると、会計所の小さな戸が、内側へゆっくり開いていくところだった。
戸の内には、灯りが一つともっている。
その灯りを背にして、白い衣の若い神官が立っていた。片方の手で、戸の取っ手を握ったままだ。
……来やがったか。
若い神官は、俺の顔を見て、それから門の前の人たちの方を向いた。
「中を、ご覧ください」
大きな声ではなかった。
それでも、大司祭の祈りの言葉が、そこで途切れた。
門の外の頭が、一つ、また一つと上がっていく。皆の目が、俺の肩ごしに、小さな戸の内へ入っていった。
灯りの向こうの壁に、板が一枚掛かっている。
俺は、板の方は見なかった。何が書いてあるのかは、見なくても知っている。
見ていたのは、取っ手を握った若い神官の手だ。指の節が、白くなっていた。
一番前の列で、巡礼宿の主人が、板の方へ首を伸ばした。
その口が、ゆっくり動きだす。
「骨折、五……熱病、三……」
そこまで読んだところで、主人の声が止まった。
止まったまま、自分の口を、自分の手で押さえている。
後ろの方で、誰かが、目の病、と小さく読んだ。その先を読む者は、もういなかった。
会計司祭が、大司祭の腕から手を離して、門の敷居の際まで出てきていた。柔らかい声は、まだ崩れていない。
「閉めなさい」
若い神官は、取っ手を握ったまま、動かなかった。
会計司祭は、門番の方へ顔を向けた。
「その戸を、閉めなさい」
門番は、手に持っていた水の鉢を、足もとの石畳にそっと置いた。
置いただけで、そこから一歩も動かない。
霧の中で、杖が石畳を突く音がした。
大司祭が、柱から杖を取って、一人で中庭の方へ歩きだしている。会計司祭が、慌ててその後を追った。
しばらくして、小さな戸の内の、灯りの向こうに、杖をついた小さな姿が入ってきた。
中庭の側の戸から、会計所に入ってきたのだ。
大司祭は、若い神官の後ろで足を止めると、壁の板を見上げた。
それきり、何も言わない。
追いついてきた会計司祭が、大司祭の横に立った。
「大司祭様、これは、会計の者が数を間違えぬための」
大司祭は、会計司祭の方を見ないまま、片手を少しだけ上げた。
会計司祭の口が、そこで止まる。
大司祭は、板を見上げたまま、上げた手をゆっくり下ろした。それからも、長いあいだ黙っていた。
灯りに照らされた横顔は、怒っているようには見えない。通い慣れた石段で、初めて足を踏み外したような顔だった。
会計司祭の顔から、柔らかいものが少しずつ抜けていった。
胸の前で組んでいた手がほどけて、ふっくらした指が、衣の裾をつかむ。
会計司祭は、大司祭ではなく、門の外の人たちの方を見た。
「額を決めておかなければ、遠くからお見えになる方が、お困りになるのです」
声は、まだ柔らかかった。けれど、さっきより少しだけ早口だ。
「いくら持ってくればいいのか分からなければ、皆さま、持っている物を全部置いていかれますよ」
門の外の誰も、すぐには返事をしなかった。
人の輪の後ろの方で、子供の乾いた咳が聞こえた。
継ぎの当たった前掛けの女が、毛布にくるんだ子供を抱いて立っている。春に、門の前で袋の口を開けて見せて、帰されていった女だ。
女は、子供を抱え直してから、会計司祭の方へ顔を上げた。
「持ってる物なら、全部見せたよ」
女の声は、かすれていた。
会計司祭は、女の方を見なかった。
女は、それ以上は何も言わずに、咳をする子供の背中を叩きはじめた。
前の方では、年寄りの女が一人、組んだ手をほどかずに、祈りの続きを口の中で唱えている。
署長は、組んでいた手をほどいたまま、灯りの向こうの板に目を向けていた。
その後ろでは、粥屋の女房が、娘の肩を両手で抱えている。娘は、板の方ではなく、戸の取っ手を握った白い衣の手の方を見ていた。
俺は、小さな戸の前から、会計司祭に言った。
「そうかもしれませんね。ですから、額を決めて、売ってらしたんでしょう」
会計司祭は、俺を見た。
何か言おうとしたのに、あの柔らかい声が出てこない。春から一度も崩れなかった顔が、そこで崩れた。
「神殿の、この五年の商いの儲けに、二割。隠していた分の加算を、半分乗せまして」
俺は、門の前じゅうに聞こえるように声を張った。
「〆て、金貨九千枚」
会計司祭は、裾をつかんでいた手を放した。
その手を、もう一度胸の前で組もうとして、組めずに、だらりと下ろす。
大司祭が、板から目を離した。
若い神官の背中を見て、取っ手を握ったままの手を見る。大司祭は、乾いた小さな手を、その手の上に一度だけ重ねた。
重ねただけで、取っ手から外させようとはしない。
それから戸の外に立つ俺の方を見ると、杖をつき直して、戸口の脇へ一歩だけよけた。
灯りの下の机までの道が、それで空いた。
「ヘイジさん」
ギンが、隣で小さく言った。
俺が戸口へ一歩踏み出したとき、会計司祭のかすれた声がした。
「陛下のお許しが無ければ、門の内へは……」
大司祭は、それにも答えなかった。
戸口の脇によけたまま、杖に両手を重ねて、動かない。
俺はギンと二人で、若い神官の横をすり抜けて、小さな戸をくぐった。
すれ違うとき、取っ手を握った神官の手が、細かく震えているのが見えた。
*
その日の昼まで、俺は会計所の机で帳簿をめくっていた。外で数えた九千枚とは、銀貨で四枚しか違わない。
九百枚のことは、帳簿を閉じるまでに一度しか考えなかった。俺にしちゃ、上出来だろう。
そのあいだ、若い神官は、ずっと戸口に立っていた。
門の外の霧が晴れて、坂の下まで白い壁が見えるようになっても、扉の取っ手から手を離さなかった。




